室町幕府設立後 憲顕と尊氏

『善きひとのための』



「そうだ、後もう一つ。これはただの興味本位で、且つ尊氏様のお耳に入れるこ とすら失礼な用件なのですが」
「……聞いてやろう」

今更だ、と言い添える彼は、呆れ、疲れた表情をした。だがその口元はむしろ愉 しげに見える。

「直冬殿の母はどのような方だったのかと」

「美しい女だ」

言い切った口振りに負の響きはなかった。が、ふと彼の巡らせた視線が何かに行 き当たり、そして拾うと、不快感、…というには輪郭が曖昧な、そんな色が浮か んだ。

「あれを見ればわかるだろう」

顎で示した先には彼がいた。
開けた縁側の向こう側、燐と背を伸ばし廊を横切っていく。躊躇いのない歩み。
見覚えがあった。…小柄な直義が、己を毅然と見せようとする姿によく似ている 。
こちらに気付く事もなく奥へ消えた。直義の屋敷に帰るのだろう。尊氏と対面し てからは、彼がこの領域に踏み込む(踏み込ませられている)ことは稀ではない 。
直冬はどこまでも義父に従順で、直義は義息子の居場所をこの新しい幕府の元 で作ってやることに心血を注いでいる。


「不思議だな」

何の感情もなく尊氏は言う。


「あれは何を誇るのだ」


驚いて投げ返した視線に尊氏は何も答えない。


再び巡り合うことが、許されるべきではなかった。だが忌むことも無意味だ。
尊氏はその存在を、愛する気はない。


「直義は欲深い奴にばかり好かれる。そう思わぬか憲顕」

逸らされる横顔に落ちた負の感情が、肝を冷やりとさせる。

「貴方はどうなのですか」

尊氏は僅かに首を傾げてみせると、私を追い抜いて歩きだした。



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鎌倉将軍府時代  直義と憲顕 

『沈没前・沈没中』



『いいか酒の酔いというのは気分次第だ。旨い、欲しいと思えば酔う前にいつの まにか飲み干しているものなのだ。ああそうだ、じゃあ直義殿が好きな甘い味に してみたらどうだ。いつもより美味しく飲める、な。そうするか。』

普段より少し冗舌な貴方の声を聞き逃したくないと思いながらも、どうしてもあ らがえぬ目蓋の重みにやりこめられる前に。
今宵も本当に楽しかったとどうにか伝えたくて、横たわったままの視界から、そ の煌びやかな刺繍の施された羽織の裾に手を延ばしてみる。

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幼少足利兄弟

※裏の『いよいよ〜』の元ネタなので、場面として若干かぶります



思えばまだ年端もいかぬ頃、…幼くてほんの少しのものしか識らなかった頃。
私はたった一つ違いの小さな兄を、ただ無邪気に所有することが出来たのだった 。



兄上は自分の衣の袖を乱暴に引き伸ばして、私の顔を拭った。強張るまでの真剣 さが、思考というものの価値を捻り潰す。
行為を享受することしか考えられない私には、拭う袖が既に濡れていたことだと か、自分のどのような有様だとか。そんなものにたいした意味はなかったのだ。


優しい感触がやがて髪に移る。
その真摯さを懸念して、己を戒めるようになるのはまだ先のことだ。
私の世話を焼く兄上の表情を、私は何も考えず眺めることが出来た。


「…寒いか?直義」

私自身が寒いのではなく、ぴたりと張りつく濡れた衣が突き刺すように冷たい。
兄上は頭を下げて私と真っ正面から視線を合わせた。頬と額だけが熱かった。

「大丈夫か?」

頷く、その動作に頭が不安定になる。ぶれた視界に、ひどく慌てた。
兄上は私の額に手を当てる。

「熱い」
「…え?」

自分で額を触ってみた。だが冷えきった手では如何なる温度も熱く感じてしまう 。両手を擦り合わせてからまた額を押さえてみる。

「ほら、」

一瞬怒りのような気配が走った。
焦れったい動作を繰り返す私の手を、兄上が捕らえて退ける。こつん、と少し乱 暴に額を突き合わせた。


「…わかるか?」


違い、ではなくただ心地よかった。
自分を形づくるものも、これと同じだったらいい。
血も、皮膚も、その奥の骨まででも同じものだったらいい。

返事を待たずに、今度はそっと離れた。


「負ぶされ」
「…え?」

びちゃ、と泥の中に膝をつく音を立てて、兄上は私に背を向けしゃがんだ。

「早く」

振り返った顔に浮かぶものはやっぱり怒りに似ている。噛み付きそうな眸を見な がら、それでも兄上は不安でいっぱいだろうと悲しく思った。だって私を背負っ て帰ること以外、何も考えてはいないだろうから。

眸を見ると逆らえない。

体を預けて後ろから手を回す。私のが幾分か小さいとは言え、たった一つしか違 わぬ童の背だ。そう頼もしいわけもない。


「直義、頭…痛い?」


ずり落ちる私の体を何度も背負い直しながら、兄上は問う。そうやって体を揺ら すたびに、足元は重く沈んでしまうのに。

「わ…か…りません」

上がった息のせいで肩までが上下してきた。その緩い幅の振動が、不思議と心を 穏やかにしている。少しづつ、思考の対象が切り取られていって、残るのはひど く幼稚な考えばかりになる。
ただ私がこうしていれば、兄上の背は濡れないで済むのだろうと。


「直義」

「…はい」

続きはただ地を叩く水の音だった。いや、もはや地でもない地を浸す水同士が跳 ね返る音だ。
前の顔に耳を近付ける。
濡れた黒い髪が頬に触れると、たまらなく切なかった。


「俺がついてるから」

また雫のような小さな声が落ちた。
しかしそれは、呼び掛けるためのものではないことに気付く。


「………あにうえ、?」


甘えたいのか
いじらしいのか
守られたいのか
守りたいのか


不明瞭な境界線は珍しく心地よさをもたらし、苦痛ではないその感情は同一です らあるのか


「兄上が、…私を生かしてくれるのですね」


まだ止むことのない、雨が降っている。
雨粒と雨粒の間には一体どれ程のものが隠されているのだろう。
例えば誰にも言 えない言葉だとか感情だとか、そういったものを庇ってはいないだろうか


濡れた肩に頬を摺り付ける。

目を閉じて、熱で立ち上る雨の匂いを感じていた。


うん、と返された声は、享受なのか理解なのか。考えることもなく意識は薄まっ ていった。

今この音があれば誰も気付かない。
物心ついた時から、侵食など疾うに追い付いていなかった。

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幼少足利兄弟と伯父上(憲房)

『芳香と病るい』




剥いた皮を投げ捨てると、高氏はその中身を弟に渡した。
彼の方を向くでもなく やたらに無造作であったので、憲房は一瞬それが何を表すのかわからなくなった 程だ。

隣で人形のように座っている直義は、少し頷くようにしながらそれを受け取ると 、爪の先で丁寧に薄皮を剥がし始める。こういった時に垣間見える直義の内向き の姿勢に、憲房はいつまで経っても慣れることが出来ない。そしてそれは周りか ら耳に挟む事柄でもあった。

高氏だけは言葉が無いのも気にした風はなく、手を付いて身を乗り出し、二つ目 の蜜柑を掴み取る。

しばしの静寂が憲房を叩いた。
高氏はたまに、神妙な顔付きをしながらも人の話 を聞き流している時がある。今回もそうなってしまったかとうがってみたが、素 通りだったというよりも、ただ淡々と蜜柑を口に運ぶことに熱中しているだけに も思える。


「伯父上」

鼻をつんとさせる芳香がする口元で、高氏は憲房を呼んだ。ぱっと開いた彼の瞳 は、それこそ蜜柑の香のように、明滅する刺激があった。救われたような気にな って、何ですかと返す。

「俺は今何かをしたいわけでもありません。だが、必要となれば己の立場に相応 しい判断をしてみせまする」

「御当主に為られた後でも?」

「はい」

この頃、まだ高氏の父は生きているが、二人ともそれについて言い及びはしなか った。高氏の思考は、良くも悪くも柔軟だ。


「そのお言葉、この憲房めは忘れませぬぞ」

「ふふ、…ああ恐い」

無邪気に笑う高氏に、憲房もつい表情を緩ませる。場は一転して和んだものにな り、上杉きっての名手腕と評される男も、甥を可愛がるただの伯父の顔になった 。

その中で一人居心地の悪さを感じながら、直義は兄が放った蜜柑の皮を眺めてい る。充分に熟れた実の皮は、薄く柔らかい。

己に言い聞かせるように、甘いと口の中だけで呟いた。

そういえば自分に、伯父の笑い顔が向けられたことはないのだと彼はぼんやり思 い出す。

半月型の甘い果肉が、なかなか飲み込まれることがないまま、口の中で温くなっ ていた。吐き出したいと言う欲求が沸きだすが、ああこれは兄が渡してくれたも のかと思い直す。

甘い、と胸の内で繰り返してから、もう一度歯を当てた。

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直冬と、ある哀れな青年

『然も有らば有れ』




それで?と想い人は退屈そうに聞き返した。弄ぶ爪の先に視線を落としている瞼 には、溜息のような気怠さが乗っている。

「…某を、見てはくださいませぬか」


ふと長い睫毛が押し上げられた。漆を塗られたような黒い瞳は、例え情を宿さな くとも、蠱惑的だ。通り過ぎた視線を追う。
気まぐれが許されている佳人を、青年はもどかしさを募らせながらも待った。
彼が唇を動かすその一瞬さえ、逃したくはないと。

「それが本当なら」

直冬は無造作に立ち上がった。そして瞼の上のけだるさを、掻き上げた髪へと伝 わせる。

座ったままの彼に向けられた背と振り返った微笑には、やはり完璧な均衡がある のだが、それが触れられぬ距離にある限り、もうこれ以上の苦しみはないと青年 を追い詰めるのみであった。


「君はもう、私の前から消えなくちゃ」


君の剣は強かったのになぁ、と直冬は悪戯っぽく笑った。その純粋さに、彼は震 えるぐらいの欲を覚えていた。


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直義と尊氏

『根込めの酒』




酔いが回った弟はどちらかといえば陽気だ。
駄々をこねることも多くなるが、上 気した顔でにこにこ笑っていると、結局全部許してしまう。
後もう少しすれば、きっと「眠い」と言い出すだろう。
盃を共に交わしてきた夜 は数知れないから、尊氏には全て手に取るように分かっていた。

白い指がまた酒瓶のくびれに絡む。
こうなると、自分が取り上げてやらなければなかなか離さない。
しかし今日は何 も言わず、その危なっかしい手つきを寝転んだまま眺めていた。自分が飲むのは 飽きた。飲んでと奨められれば勿論応じるだろうが。
盃を口元に運ぶ所作は何時も通り控え目で上品なのに、妙に傾いているせいで上 手く口に入らない。唇の端から伝う雫に気付かないまま、直義はことんと盃を置 いた。


「直義、」

名を呼ばれて、直義は四つん這いで、少しのその距離をつめる。そして兄の顔を 覗き込んだ。拭ってやろうと思った雫はもう顎を滑り落ちて無くなっていたが、 尊氏は手を伸ばしてその頬に触れた。
視線が絡まると、弟はからかうように笑った。返す自分は上手く笑えなかった。
何かが、もどかしかった。

何も考えなくなっている直義は、兄の両肩に手をついて腕を立て、上半身の重さを預けてみる。


「…重い?」

「平気だ」
ふふ、と鼻に掛かる声で笑う直義が、突っ張った腕にまたぐっと身体を載せる。

「まだ?」

「ああ」

なんだつまらない、と身を起こそうとするのを、尊氏は突然引き寄せる。
弟の酒臭い息が直に胸と喉を湿らす。はあ、はあ、と漏れる息遣いを、肌で聞いていた 。

そうするとやっと少し、落ち着いた気になった。


「なあ直義」

「…はい」

腰に回された腕が、着物越しでも熱い。直義は小さく身じろいだ。だが兄の温度が心地よく てうっとりと目を閉じる。



−−悪戯でも躊躇うようでは駄目だ。だけどそんなお前しか、俺を苦しめられな い



「今度また、俺が死にたくなったら」


直義の弱い腕が頭を抱きこんできた。
続きは聞きたくないとでも言いたいのか。ただ気に入った温度を引き寄せて眠り たいのか。


そっと弟の髪を掻き分けると、耳に唇を近付けた。
囁いて押し込む。



−−…殺してくれるか



返事がないことはわかっていた。そして弟なら決して頷かないということもわか っていた。


馬鹿みたいに切なくなる。こうして一緒に消えてしまいたいと思う。

まだ全て、与え尽くしてないというのに。



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尊氏・憲顕 室町幕府設立直後


『飼い犬の餌』




中に乗る重さ、頭を掴む男の指が、髪と皮膚を通して食い込む。
あまりの生々しさに、尊氏は息を呑んだが、途端、恥辱に顔を赤らめた。


「離、っ」

「まあまあ、そう邪険になさらず。…しがない従弟の言い分もお聞き下さい」

やっと僅かに持ち上げた筈の額が、床にぶつかって音を立てた。
ぐらぐらと鼎の中で己の血が沸いている。歯を悔いしばって堪えても、何も収ま らない。もがけばもがく程頭は益々重くなり、男の手を強く感じさせる。

「尊氏様」

憲顕は、掴んでいる頭をぐっと持ち上げる。胸と腹が弓反りに浮き上がり、軸と なる背に、一番鋭い痛みをもたらした。尊氏が小さく呻く。
肩の後ろからのびた左手が、襟元から奉書を抜きとっていった。

「確かにこれは必要ですが、…欲しいもの、ではないので…」

心底残念だと言うように、わざとらしく声が下がる。同時に首を捻られて、右頬 がべたりとまた床に着いた。左目で彼を睨む。憲顕は微笑していた。

「残念ながら取引には成り得ない。一度掴んだ希貨は手放しません」

「それが、…お前の、」

たった片方だけの視界に、憲顕が映る。どんな風に自分を押さえ付けているのか と思えば、彼はまるで縁側に腰掛け、鳥でも眺めているかのような風情をしてい た。

男が当ててくる視線の中に、手放さない、などという執着は無い。
それはむしろ、一番あってはならないことだった。

「直、義は」
「貴方のものでしょう?」

それで結構ですよ、と穏やかに答えると、憲顕は手を離し立ち上がった。

あまりにもあっさりと引くので、尊氏は面食らった。漫然と身を起こす。背と頬 はまだ痛んでいた。
座り込んだまま、妙に無垢に見上げると、憲顕はめんどくさ そうに目を細めた。
屈辱を思い出し、顔が歪む。飛び出すように立ち上がって拳 を振り上げても、彼はその目付きを変えず少し身を引いた。

刹那、僅かに己の軌道が傾いでいた。踏み留まり、もう一度立て直して直ぐの身 体に、膝がぶち込まれる。的確に腹を捉えていた。

間髪いれず、拳が飛ぶ。背から倒れ込んだ。その胸を片足で踏み付けて、憲顕は 言った。


「理由が必要ですか?」

「っ…あ、!」

憲顕はぎりぎりと重みを加えていく。足の下には踏み付けられて潰れる身体があり、軋 む声があるのに、たいした意味はない。
苦痛と吐息を吐き出した口許と、血走った眼を見て得心する。首を傾げて 言った。

「尊氏殿。理由より、貴方は痛みの深さの方がお好きでしょう。違いますか?」

物言いだけに、歯が覗いた。もう一つ強く踏み込めば、咳になった。


「いつかは身を滅ぼしますよ。どうか御自愛下さいますよう、重ね重ね。」

そういえば足利尊氏はこの幕府の大樹であり、誰もが平伏すべき相手なのだ。


「ほら、貴方の大切な弟君の為にね」

掌で軽く男の頭を叩いてから、憲顕は足を退かした。



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「あ、兄上?!」

室に入るなり、しがみついてきた身体によろめく。つかまるように腕を回し返し ながら、下に引きずられてそのまま腰をついた。

「どうしたんですか」

ぺたぺたと背を叩いてみても、無反応だ。

とりあえず、あやすように背を優しく撫でる。


「…兄上?」


私の、胸と腹のちょうど真ん中あたりに顔を埋めて、兄上は黙っている。手を止 めてみると、不安げにもっと身体を引き寄せようとするので、慌てて撫で続けた 。


珍しいことだ、と思案する。兄上が癇癪持ちなのはとっくに知っていたし、慣れ ていた。宥めるというか収めるのは大体自分だから、不思議ではない。

しかし

「怖い夢でも見たんですか」
「……見て、ない。」

それきり聞きようが無いので、やっと顔を上げた兄上の、前髪を弄っていた。兄 上は私の顔をじっと見ている。何時もと違うから、何となく目を合わせにくい。

「………あ」
掻き分けた髪の奥に、影のような小さな青い痣がある。

「兄上、これ、」



最後まで言い切る前に、兄上は拗ねた顔をして、私の頭の後ろを引き寄せた。



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高氏13才・直義12才

『唇と歯と喉』



「高氏さま」

声を掛けたのは師直だった。彼には、高氏がどうしようもなく不安そうに映っていた。
どうしてこうもこの弟の一挙一動が高氏を支配するのか、周りならまだしも高氏 自身にもわかっていなかった。
そして、彼は幸福にも、そんな自分に気付かない。

弟は筍を口に入れている。しょりしょりと小さな音がした。残りの半分が、まだ 箸に挟まれて残っている。たいして大きく切ってあったわけもないのに、一思い に口に入れるということはしないのだ。それでも、その口許は人よりせわしなく 動いているように見える。


「…ん?」

曖昧な高氏の返事を聞いて、直義は師直の方を見た。それは彼の声が静寂を乱す のを咎めるかのようだった。一瞬視線がかちあった時の、直義の眼差しは、何時 も無遠慮で冷たく見える。


「…おさげしてもよろしいですか」

「ああ」

咄嗟に下女の真似事をして、師直はとっくに空になっていた膳を持ち席を立った 。この弟が遠ざけたがる人間は多い。自分もその例に漏れないだけだ。なんとい うこともない。

ただもしこの場に異常だと言えることがあるとしたら、高氏が彼から目を離さな いということだけ。


それもいつかは気にならなくなるだろうか。

それは異常ではなくなるのだろうか。



最後の一切れが、口の中に収まった。気付いたように隣の兄を見ると、直義は一 瞬はにかんだ。
しかし揺れた彼の表情とは無関係なところで、高氏はもうすでに、不安を忘れて いた。



「…もっとゆっくり食べてもいいんだぞ」

笑いながら何故か、そんな言葉を呟いている。
嘘でも本当でもない。


−−…後少し。

見ていたいのか。早く、と焦っているのか。

あと幾何の時が終われば、弟の喉首が咀嚼していたものを飲み下すだろう。
だから、もう少し。