砂が舞い、地が震えるまで駆ける。馬の脇腹を蹴って、力を抜き、目を閉じる。

額が風を割り開き、流れていく。

また、風。

着物の袂がそれを綴じ込めて膨らみ、その時だけは少し自分の腕の重みを忘れるのだった。
本当は、青年の躯に、何か一つの部位でさえ億劫に感じられるところはない。





山寄りにある筈の寺から聞こえてくる、追いかけてくるような、鐘の音を引き離した。
何故だろう。心が落ち着かない。
それは昔何処かで聞いたからだろうか。
彼は己の心と記憶を手繰り寄せようとする。しかしそれは糸ではなく、綱の先に結び付けてあるような億劫さで、彼の掌に近づこうとしない。

だから、引き離すことにした。

ただ潮の匂いを追うように駆け続けるにつれ、重能の心は高揚していった。
そのまま馬から飛び降りて、自分の脚で駆け抜けたいぐらいだ。蹄が足場の覚束ない砂地を蹴ると、背の揺れは大きくなった。
重能は腰を上げ、立ち上がってみたい衝動に駆られる。首の後ろあたりに手をついて、そして。





仕え始めてから約一月。とはいっても、彼にとってはまだ新しいとも言える主は、馬をそこらに置いたまま浜に佇んでいた。
指す様な日差しが似合うはずの海辺は、もう濃厚な秋の気配に包まれて、おとなしく黙っているようだった。

「重能」

重能は一度深々と礼をすると、さくさくと足を進めた。しかしそれは高氏ではなく、波うち際の方を向いていた。
言葉を紡ぐのが面倒くさかった。重能はただ荒い呼吸のみを吐き出した。

「迎えに来たのか」

「はい」

「よくここがわかったな」

重能は笑いもせず、視線だけで応えた。

それから少しの間、彼らは無言で佇んだ。

やがてどっかりと、砂の上に腰を下ろし立膝をついた高氏は、膝の上に自分の腕を置き、猫背になってそのうえに顎を乗せた。
重能はもう、波ではなく空を見ていた。そして、けたたましく鳴き始めた鳶を、じっと追っていた。
傍らの長身の青年を見上げる高氏は、その野性味を帯びた顔立ちをしげしげと眺めた。

「恍けているのか?」

何がですか、と重能は高氏を見下ろした。実は随分と不躾な真似であったが、二人共まったくそのようなことには気付かなかった。
手合わせで自分を打ち倒した時の光景が高氏の脳裏に蘇った。
見下ろす彼の瞳に宿るもの、それは冷たい光だった。弟の氷のような冷たさとも違う、絶対的な無の気配であった。

「俺は」
「はい」

「俺は、独りになりたくて、なにも考えたくなくて、よくここに来る」

重能は、主の低い声と共に、まだ鳶の姿と声を追った。それらは今、自分の目に、耳に、全てに矛盾無く在るような気がして心地よかった。

「でも、いつの間にか弟のことばかり考えていて、・・結局はあいつの傍にいないとうまく息さえ出来ないような気になる。そして、今俺がこうしている間、あいつの傍には誰がいるのだろうかと気が狂いそうになった頃、妙に頭がすっきりしていることに気付くんだ」

高氏は苦笑のようなものを浮かべながら、寄せては引く波を見つめた。
結局あまり連れ出せたわけではないのに、この音を聴いていると、幼い頃弟と浜で戯れていた時のことを思い出した。

潮騒に掻き消されそうなほど小さな声で呼んでも、嬉しそうにこちらを向くのが愛おしかった。
それは今だって何一つ変わりはしないが、高氏はもう二十四に、直義は二十三になっていた。お互いに妻も娶って、幼い頃に比べればだいぶ距離を置いた生活をしている。


ちらと、重能は視線を高氏に落とした。頷くわけでもないが、その眼は続きを促しているようでもあった。


「なあ重能」
「はい」


「俺と弟以外、全部殺してくれ」


重能のまぶたが一度瞬いた。それは驚きというより、一瞬の思案のためのようだった。
自分を真摯に見つめるでもなく、ただぼんやりとそんなことを口にした主は、恐らく本気ではないのだろうと重能は思った。
しかしこの時初めて重能は、高氏がどんな男か分かったような気がした。
気が違うのだ、と思った。それでも主は、足利家の次期当主として、相応しい器を持ちその振る舞いを心得ている。心得、ようとしている。

「いいですよ、」
「・・・・・・」
「それが、俺にしか出来ないことなら」

はは、と高氏は腕に顔を埋めて笑った。
笑いながら、急速に冷めていく己の熱を感じていた。
やはり、直義に会いたいと思った。会って、それで、彼が自分の弟であることを確かめたいと思った。



重能が、ふと鳶の鳴き声を真似て、器用に口笛を鳴らし始める。
数回繰り返されるうちに益々、本当の音と似せられていく。
ゆっくりと顔を上げた高氏は、重能のどこか切ない口笛を聴きながら目を閉じた。
自分が何を話していたのか、まるで忘れてしまったかのような感覚に心地よく身を委ねた。


「たぶん、」
「ん?」

「盗んでこいと言われているんです」

少し憂鬱そうにそう呟いた青年に、何をだ、と高氏は純粋に問いかけた。


「高氏様を。」


時が止まったかのような沈黙があった。
ただ瞬きだけを繰り返している高氏を、重能はまた何も考えず見下ろしていた。

「・・・・・・・伯父上に、か?」

かろうじて紡がれたような高氏の声を聴いて、重能は供染みた仕草で首を傾げ、鼻先を指でいじった。
そして口許から徐々に笑い、最後は人懐っこく眼を輝かせた。

「んん、やっぱり少し違うのかな」
「・・・・・・」
「でも、なんか、そういうこと言いそうなやつでしょう?」

髭は、と付け足された言葉に、高氏は微笑を零した。

「あの伯父上が『髭』呼ばわりか。ふ、何だかおかしいな」

そのままです、というか、もう帰りましょうよ、と重能は手を差し出した。
高氏は躊躇いなくその手を掴んで立ち上がる。大きくて硬い掌だった。そして、自分と同じぐらいに熱かった。



「ああ高氏様」
「ん?」

「この辺てよく、鐘が鳴ってませんか」

「鐘?・・・さあな。俺は聞いた事がない」

重能は、眉を下げた。それは怒りのような、悲しみのような、彼が初めてみせた落胆の表情だった。



何か言わなければ、と咄嗟に高氏は思った。
それはこの青年を繋ぎ止める何かであり、己を満足させる何かでなければならない気がした。
青年のこのような表情を見るのは、胸が痛かった。


「重能。お前、海が好きなら、今度はもっと、気持ちのいいところに連れて来てやろうか」

「ええ。そうですね。それは光栄です」

青年は素直に嬉しそうな笑みを零した。
まるで童のまま時を止めたかのような、いつもの笑い方だ。

そしてもう二度と波も空をも振り返ること無く、高氏を追い抜いていった。













※海の場面については、餅作の『穢土の上で』と梅作の『つきよみの』2を読んでいただければと思います。
噛み合わないようで噛み合うちょっとおかしいふたりでした。