怒りはふっと骨を無くして崩れ、一瞬にして真っ白になった頭の中で、静かに糸
が切れた。
力をたぎらせて蹴り飛ばした書机の下で、硯がぱっくりと割れる。どくどくと墨
が流れ出し、黙ってそれを見下ろしているだけの弟の頬を続けざまに打った。
彼の手にあった小筆が吹っ飛び、床に落ちる。倒れ込み、それでもまだあの面を
剥がさず、痩せた腕を付いて起き上がろうとしている身体の、横腹を蹴った。 直
義は痛みに顔をしかめ、もう一度無様に床に伏せる。
ただ止めることを忘れただけで、明確な意志は無い。なのに床に転がりうずくま
っている華奢な身体を見るたびに、足はまるで単調な繰り返しのように止まらな
かった。
直義は、ただ耐える。
時々噛み締めきれぬ苦鳴が漏れた。恐る恐る見上げる先の乱れ落ちた前髪の後ろ
には、きっと見たことも無いくらいに冷徹な目があるのだろう。今目の前を伝っ
ていく黒い墨よりも、冷たく沸き上がった瞳が。
一方高氏は、腹を庇うようにくの字に折り曲げられていた身体が、徐々に弱り果
てて力無く伸びていくのを遠く眺めていた。
床を伝う墨、ぱっくりと割れた傷口から、流れ出ている黒い血。
または手折られた弱い弟を、汚そうとしているのか。
――…触れる。汚すな。
弟を。
……俺を。
「直義」
突然高氏は、許しを請うように両膝を付いた。 黒に触れないように弟を抱き起こす。腕
の中の眼差しには、間違いなく自分に優しさを期待し、求めている甘さがあった
。ぎゅっと腕に力を篭める。
篭めた。
…止まらない。
何故、止まれない。
「…ぃた、…い」
腹の痛みを堪えてやっと言葉にしても、緩まる気配が無い。
引き寄せる腕の強さは、彼を抱き折ろうとしていた。兄の硬い肩の骨が、喉仏を
潰していく。
喘いで息を吸う、その身じろぎすら逃したくないかのように、高氏は更に力を篭
めた。
もはやぐったりと身体を預けているだけの直義は、意識すら沈み込み埋められて
、失われていくのを感じている。
――…このまま殺されるかもしれない
歓喜でないにしても、それは不安ではなかった。ただそんな自分に、兄は気付い
ていないであろうことが悲しかった。
「あに、う、え」
もう一度声を絞り切っても、変化は無かった。
あきらめて目を閉じる。
足先で、足裏で、踵で、耳で、感じたあの砂っぽい生暖かさが、もう一度彼を引
き寄せていた。
強い陽射しの下で覚えた感触が沸き返る。身を委ねることが出来る。
――…分かっていた。
嗚呼どうしてもやはり、
優しすぎる。
急に、腕が解かれた。もたれ掛かったままの頭が滑り落ちる。
高氏は、頭を垂れている弟の肩をゆっくりと押し戻して起こすと、手繰り寄せる
ように両手でその頬を包む。
開いた花びらを守るように触れてきた。こんなにも大事にしているのに、ともど
かしく思った。
芒とする弟の顔色は、朱というより青紫に近い。
「直義」
息と共に、触れる肌の色が戻るまで、高氏は何も考えず名を繰り返した。
「直義」
軽く揺すると、愛しい弟は、けほ、とえずくように咳込んだ。
「直義」
幾度めかになって、弱々しい瞳が自分を捉える。
待ち侘びたその時が、啜り泣きたい程に嬉しかった。高氏は目を潤ませ、余程幼
く、無防備な哀しみを曝した。
「ごめん、」
とくとくと血が鳴る。のぼせながら逆巻いた流れが、地に還っていく。それが安
堵と、そしてもう何も出来ないという無力さを、高氏に与えて染み込ませていく
。
滲めば滲む程、恐れに泣き出したくなった。もう狂いだしそうだ。
だから名を呼んだ。でも、
「ちがうんだ、直義」
――助けてくれ。
望むものは与えられる。
彼はその手の中に全てを得る。
救いは彼の目の前にあった。そういつだって、彼が望むかたちで。
「…すき、って」
ん、と直ぐに聞き返した。どんなに掠れていても、耳に届く弟の声は心地よかった。
「好き、って」
「……ん」
左手を頬から外して、後頭を優しく撫でてやる。しかしそれを阻むものがふと、
指先に纏わり付いた。
―…以前の、弟が自分で結っていた紐ならば、もう解けている筈だ。
弟は、何でも自分でやりたがる質だった。だからどうしても髪の結い方が緩く、高氏はそれを上機嫌で治してやるのが常であった。
でも今は、弟の髪に触れ、世話をしている者がいるのである。それは、彼の執事ではない。彼の、己の、息子だ。
緩んでいたとは言え、まだ絡み付いているそれを手探りで掻き落とす。柔らかい
髪の上を、やっと指が滑る。
一瞬自分を支配しかけた嫉妬は、不思議と遠くに引き戻され、高氏自身、胸を撫
で下ろした。
直義は、そんなことなど露知らず、ただ健気に応えを返そうとしている。
「聞きたい。…いちどでも、うそでも」
「うそ、か」
「わたしは、兄上がわたしからはなれても、わたしを、きらいになっても、」
高氏は、薄い唇の近くに耳を寄せる。ひゅう、と破れたような小さい呼吸音を聞き、その
まま首筋に顔を埋めた。
続きは必要ない。
「好きだ」
太い脈の上に舌を這わせてみる。
いつもより熱い。
「一番、好きだ。嘘は嫌いだろう?…直義」
途端、直義はぽろぽろと涙を流し始めた。肩ごと身体を震わせ、息を吹き返すよ
うにしゃくり上げる。高氏はその身体を受け止め、唇を寄せたままで次を待って
いた。
泣き崩れた顔で直義は言う。
「いやだ、」
首を振って駄々をこねる、我が儘な弟。
「あにうえが、…誰かに従うなんて、支配されているなんて…私はいやだ…!」
白い喉を流れ落ちた雫は、褒美なのか。罰なのか。
どちらでもいい、と舌で奪い飲み干す。次をせがんで、もう一度舐めた。
――…しょっぱい、
「取って。兄上」
――嗚呼そうだった。それが欲しかったんだ。
だから総てくれてやる。
――嗚呼そうだった。それでしか、与えられない。
だから何も譲らない。
「あの月を取って。兄上」
朔月の夜だ。
直義の目には何も映っていなかった。
だから高氏は、狂い咲く愛しさを籠めて囁く。
「ああ、俺が取ってやる。直義」
やさしさがほしい。
わらうのはどちらか
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