会えるかわからない。でも、ただ何もしないでいるよりましだった。
それに、もしかしたらという予感のようなものが在ったのは確かなのだ。


父と叔父の館を繋ぐ渡り廊の戸は、閉じていた。
何故か少しだけ安堵しつつ、だが義詮はそれを開こうと手をかけた。
身体全体の重さをあずけて、押す。小さな身体を滑り込ませると、音を立てないよう抑えながら閉めた。


口笛が聞こえた。それは昼間、あやめが琴で奏でていたのと同じ調べだった。
憚 っているのか、半分わざと息を漏らしている、掠れた音だった。
昼間琴で聞いた のとは比べ物にならない程、哀しい旋律に聞こえる。しかしこちらが、本物の調 べなのではないか、とそんなことを感じる。


手に持った紙灯を揺らしながら駆け出す。
僅かにしらんだ夜。しかしまだ、朝からは遠い。

門から庭へと、調度つっきってきたところだったらしい。


夜目が利いているであろうその人の瞳は、灯りを当てにすることもなくしっかり とこちらを捉えた。

「直冬さま」

「ああ、こんばんは。義詮。」

父みたいな立ち姿だと思った。
体つきではなく、今特に似ているのはそのだらし ない着物の着方だ。襟元をきちんと閉めないから、袖が落ちて手を指の半ばまで 隠している。
だらしない。きっと、父よりも。
自分でもそう思うのだ。叔父であり、彼の義父である直義た見たならば、絶対に許さないだろう。


「どこに行かれていたのですか?」

直冬は廊の途中の、本当になんでもない縁側に無造作に腰掛けた。
億劫そうに身 体を捻る。

「…こんな時間に会ったんだから、そんなのわざわざ聞かないでよ。」

「どこに、行っていたのですか?」

「義詮こそ、童が一人で出歩くのは感心しないなぁ」

直冬は義詮を見るのをやめ、猫背で少し前のめりに上半身を倒しながら、じっと 地を見下ろした。



以前あんなにも自分を苛立たせた弟の存在が、全く気にならない。
女の話を、まだ考えていた。
そう、今日は女が語っていたものと、月の形が違うのだ。半月ではなくてもっと 抉れている。


直冬が、自分と全く本気で話をする気などないのは知っていた。だからこそ気安い言葉しか返さないのだ。
壮絶に拒絶されないだけ、今この瞬間がそれこそ夢のように感じてしまう。
壮絶に拒絶されないからこそ、今この瞬間はたいして意味のないものだと実感さ せられて空しい。


殴られたいの?
突き飛ばされたいの?
拒絶、されたいの?
わたし、は。

その大人の手、で。


うつむく角度と、落ちて来た前髪を掻揚げる仕草が、父と全く同じであった。

「貴方に、お会いしたかったんです。今日、あやめ殿の演奏を、聞きにいらして いたでしょう」

「うん」

また細い口笛が、あの旋律を奏でた。夜を壊さぬよう潜められた繊細な音色であ ることに、義詮は気付いている。気まぐれだったかのように、すぐに途切れてし まうが。


「たしか、曲の、名は」
「『胡笳』」
「?」
「葦の葉の笛、という意味。本当に、義父上が君のために選んだ曲なんだって」

え、と短い言葉が漏れ、瞬間寒気にも似たものが背をつたう。

ぽとぽとと足音を立てながら、兄の背に近付いた。
手を伸ばせば触れる距離まで 来たけれど、拒絶されない。不安になった。


十も離れているのだ。
兄はもう、大人の男だった。女の白粉のような、匂いがした。

「そんなことは、どうでもいい、です」

「そう?残念だな。あれは私も好きな曲なのに」




――…本当は、笛と合わせるのがいい。


そう朴訥に告げた後、五つの指を一度ずつ舐めていく。爪が滑らぬように湿らせ ているのだと、初めてその仕草を見た時に教えてくれた。
指を舐める間、直義は、手元でなく、必ず琴に目を落す。
一瞬、酷く卑しいもの を傲睨するような、だが空ろな表情をする。
その表情は笛を構える前も同じで、 この人はどんな気持ちで楽を弾くのだろうと思う。
背筋が震え、喉が鳴るぐらい に、その顔が好きだ。


そういえば、近頃、自分も笛が上手くなった。女を抱く時と同じだ。湿っぽくて 芯が熱い時ほど、良い音で鳴らせることに気付いたのだ。勿論、直義の音色とは 全く違う。どうやっても同じにはなれない。


「本当はあんな場で君達に聞かせられないぐらい、哀しい曲だよ」

「そんな風に、聞こえませんでした。今日、は」

「姫が弾いたら、可愛い曲になる」

ふふ、と直冬は屈託無く笑った。純粋な笑顔なはずなのに、疲れて見えた。

「ああ私結構、姫には、いい『あにうえ』でしょ?」

義詮は唇を噛んだ。

酷い。どれだけ押し込めて、葛藤して、それでも抑えられなかったことばだ。
宝物のように大事にしてきたことば、大事にしてきた存在を、こんなにもやすや すと振りかざすなんて。


「ねえ直冬さま」


握り締めて震えていた手を解いて、兄の肩に触れた。僅かに湿っている、剥き出 しの肌まで指を乗せた。暖かかった。


「貴方は私のこと、どう思っているんですか?あんなに拒絶して、めちゃくちゃ に傷つけておいて、避けて。…今度はこんな風に、気安く話して」


あははっ、と壊れた笑い声がした。
何かが直冬の糸を切ったのだろう。彼にも父と同じ躁病のきらいがあるのかもし れないと、今更気付き、気おされて息を呑んだ。

「そうやって、何?傷つけているの?私が、君を?」

振り返った兄はやはり美しい。何一つ取りこぼすことも無く完璧で、美しい。


「教えてあげようか」

笑みを湛えた口元、唇が、近付いてくる。

「……、」

合わさるかと思った瞬間、直冬は頭を傾けて唇が降りる場所を頬へと移した。女 の白粉の匂い、少し動物的な汗の匂い、夜の匂い、そして、柔らかい、感触がし た。


「あのね、義詮」


義詮は震える指先で、たった今濡れた、頬に触れる。
口付け、柔らかい、口付け。


「ついさっき、綺麗な女の人にも同じことをしてあげたんだ」

−…何だか、可哀相だったから


言いながら、直冬は目を細めた。


帰り道、夜の暗さの中では、葦の葉が見つからなかった。
自分がこんなにも落ち着きがないのは、たぶんそのせいだと直冬は思った。









 続きます