「義父上、もうお休みください」
「……ん、…」

首をかくんと前に折って舟を漕ぎ続けている後ろ姿に、堪らず声を掛けた。
どんなに自制心に長けていたって、義父上は睡気にだけは勝てない。




数日前義父上は、京へ尊氏に会いに行った。そして帰るとすぐに、書庫に籠もってしまった。
書庫というよりは記録保管庫と言った方がいいかもしれない。
今統治している武士達の所領や兵の数を全て改める、らしい。

とにかく量が尋常ではない。
不眠不休で行なわれているものの、どう考えても今日中に終わるものではなかった。明日明後日に終わるかどうかもわからぬ。

机に積み上げられた紙の山
挙げ句の果てには床の上にまで散らばるそれに埋もれながら、それでも動こうとはしない。

意図的でない故かもしれない。
一度何かに没頭してしまうと周りが見えなくなるらしく、義父上は平気で物を散らかした。
普段は整理整頓を欠かさず、潔癖といってもいいぐらいなのに。

「頭が良いのに気はきかぬ」と憲顕殿が言っていたのを思い出す。
・・・まぁそこが良いのかもしれないが、と笑って付け足しながら。


一つ小さな溜息をつき、もう一度声をかける。
軽く肩を叩いて覗き込むと、さも重たそうに顔を上げた。

「ずっと籠もりきりではありませんか。そろそろお休みになられませんとお体を壊します。続きはまた明日に。」

「…でも、急ぎだから。早ければ早いほど良いことだし」

舌足らずな口調だ。

「今はもうお休みになって、明日朝早くからお始めになられた方がきっと捗ります。」
「…ほんとうに?」
「はい」

まるで自分より歳の小さな子供に言い聞かせているみたいだ。頬を緩めるだけでは足りず、やがて笑い出してしまう自分がわかっていた。

私を見上げてくる眠り目の奥に、甘えのような気怠さを見出せた。
無防備に曝け出されるものが増えてきたことが、私には変えようの無い喜びだったから。



何処か頼りない足取りで立ち上がった後ろ姿に、忘れず問い掛ける。

「義父上、もう片付けてよいものはありますか?」
「…そこの床」

虚ろな瞳のままついと指差した。もうほとんど何も考えていないのだろう。条件反射といった感じの答え方であった。
普段ならば「私が片付けるからいい」と言うに違いない。

「お休みなさい」

うん、とも聞こえるような小さい返事をしてふらふらと室を出ていく。
その背中を見送ってから、開けたままの戸をゆっくりと閉めた。

また室の中に向き直り、小さく息を吐く。 こういう時の義父上は普段からは想像もつかぬぐらい素直だ。
世話をされることに慣れているのかもしれない。 きっと昔から。

はじめは繕われていたもの、隠されていたものが取り払われていく。
それは必然として、私の知らなかった義父上を知ることでもあった。

満足感にも似ている。
私が一歩踏み込むことを、許してくれている気がしていた。

なのにそれだけでは終われない。
もう一つ、意識に食い込んでくるものがあるから

『弟としての義父上』

尊氏の影がよぎる。
はじめはちらつくだけった、その形も知らぬ影。
なのにそれを他ならぬ義父上の中に見付けた途端、私はそれが無視できなくなってしまった。
それでも初めは、遠く眺めるだけで済むと思っていたのに。


足利直義は尊氏の弟だ。
そんな当たり前のことが、どうしてこうも心にかかるのだろう。

・・・こんなにも強く。

ぼんやりとした感傷と確かな苛立ちを、どうしていいのかわからない。慌てて蓋をしてみても、気づくとぽっかり外れている。



私を認めなかった父であり足利を背負う当主。
帝の寵臣でもあるくせに、義父上が何よりも信じている『兄上』


自分を捨てた尊氏を憎んでいるかと問われれば、憎んでいないと言うだろう。
憎むというにはまだ感情が足りない。知っていることなど数える程しかなかったし、一度見たはずの顔でさえいつの間にか忘れていた。
寺での生活は自分の生い立ちなど自然と消してくれるものだったし、認知された方が今より幸せになれたとも思えない。
尊氏を責めようと思ったことは、ただの一度も無い筈だった。


なら尊氏が嫌いでないのかと問われれば、嫌いだと言うだろう。
その理由すらわからぬまま、私は尊氏を嫌っている。





「失礼致します」
廊から声を掛けられてふと我に返る。手元はすっかり止まったままであった。

返事をしてから障子を開けると、一人の若い男が立っていた。知っている顔だ。次郎という義父上の部下である。

「直義様はしかと寝室の前までお連れお致しました。それと書庫で直冬を手伝え、との仰せで。」
「・・・それは有り難いです。どうぞ」

目の前の青年の、温かみのある物言いは感じが良かった。
室まで送ればよかったと今更気づきながら、体をずらして室の中へと促す。


「…これは、すごい」

招きいれられた室の状態に驚いた後、泥棒に入られたようですね、と次郎は人懐っこく笑った。
そのあどけなさにふと気付く。この義父上の部下は私とそこまで歳が変わらないのだろうか。

「次郎殿はおいくつなのですか?」

しゃがみ込んで、床に散らばる紙を整理しながら尋ねる。

「今年で二十になりまする」
「では私と六しか変わらぬのですね」

自分が何気なく頷くと、次郎はぎょっとしたようにこちらを見た。

「では直冬様はまだ十四歳、ということですか!」
「ええ。そうですけど…」

何に驚いているのだろうか。

「自分はてっきり、直冬様はもう少しお年を召しておられるのかと…。いや、大変しっかりしておられるので」

あわてぶりがおかしくて微笑みを返す。この青年は本当に純朴な気風らしい。素直に好感がもてた。

「考えてみれば直義様のお子でいらっしゃるのだから、それぐらいでないとおかしいですね」
「…ええ。」



その先をどう続けようか困る。
失礼しました、と笑う次郎が何かを探ったりほのめかしているわけではないというのはわかっている。
だがこのまま、本当の義父上の息子であると思われるのには罪悪感があった。
次郎は何も疑っていない。言わなければきっと知れることはない。
それは自分にとってこの上なく望ましいものであるのに、何故かそうしてはいけない気がした。
義父上の息子として過ごすことが、兼ねてからの願いであったというのに。

いや、願いであるからこそだろうか


「十五歳差でもおかしいとは思いませんか?」

少しは疑いをもつだろう。

「そういわれれば確かに。では直冬様はもっとお若くていらっしゃるのですか」
「・・・そうではなくて、」

些か拍子が抜けた。少し回りくどい言い方だったかもしれないが、次郎は思ったよりも単純な男だったらしい。もちろん良い意味で、であるが。

「私は、義父上の実子ではないのです」

思いの外自然に、口にだすことができたことに安堵する。

「えっ?!」

次郎はぱさりと、手元の紙を落とした。

そこまで素直に驚かれると、こちらが悪いことを言ってしまった気になって変に落ち着いてしまう。

「次郎殿?」

放心状態になってしまった次郎の顔の前で、ひらひらと手を振ってみせる。

「…っ!申し訳ありません!そのような事情などつゆ知らず、その、とんだご無礼をっ」
「よいのです。気にしておりません。黙っているのが心苦しかっただけなのですから。 私も驚かせるようなことを言ってしまってごめんなさい」

これ以上ないというぐらい恐縮しきってしまった次郎に、慌てて弁解する。
二人で謝りあっている姿は、何も知らない他人から見たらさぞ異様だろう。


「自分には一回りも離れた姉もおりますれば、十五歳差というとまるで兄弟の様でございますね。」

落ち着いたところで、ふと次郎が洩らした。

「…兄…弟?」
「はい。自分が幼い頃はその姉が、母親のように家を支えておりました」

年齢的にはそうおかしくはないのかもしれない。
母が違ったりすれば、十以上も離れた兄弟など確かに珍しいものではないだろう。
しかしそんな考えが浮かんだことは、今まで一度としてなかった。


何故?

…当たり前だ。

尊氏が、いる。


尊氏が義父上の兄だから
義父上が尊氏の弟だから

他にいるはずもない。


たかうじ、

義母上も、そして義父上も
私の前では全く触れないにもかかわらず、尊氏のことがいつも頭から離れない。

義父上はいつも、尊氏を支えるためなら一生懸命だった。
今回のことだって、直接ではないにしろあの男のためなのだと思う。

どうして、そんなに尊氏を信じている?
どうして、尊氏は義父上に慕われている?
尊氏がいなければ、義父上が負わねばならないものはもっと軽くなるはずでしょう?

私を引き取ることも、

・・・無かった。


劣等感、悔しさにも似ている。
答えを知りたいとは思わないのに、その問いを切り離すことが自分には許されていないのだ。

…ああだから、だから私は尊氏が嫌いなのか。
私が義父上の子でないことを、何より思い起こさせる。
義父上の子として生まれたかったとか、そんな傲慢なことを言いたいんじゃない。別に誰の子でもいい。 血など繋がってなくてもいい。だけど、

あの男にそれを、思い知らされたくはない。
このようなときに、
このようなかたちで


入り込む権利など無かったのは、私だって。




「確かに父というには、若すぎるかもしれませんね」

途方も無い感情をしまいこみたくて口を開く。少し掠れた声がでた。

「気分を害されたら申し訳ないのですが、それでも自分には直冬様が羨ましく思います。」
「え?」
「幼い頃に親を亡くした自分には、直義様のような父がいたら・・・と思うことが多くありますゆえ。 ああえっと、確かにお若いとは思いますが・・・」

「…姉が母親代わり、とはそういう」
「父も武士でありましたから、名誉であったと思っておりますが」

困った様に笑う次郎の目に、痛ましさはなかった。だけどやはり、少しだけ淋しそうに見える。
次郎は幼いときに、父も母も亡くしているのだ。

「直義様は大変立派な方です。鎌倉にいらしてくれて本当に良かった。 こうしてお仕えできることを、自分は誇りに思います。」

次郎は朗らかに笑って、棚に向き直る。
慰めようとしてくれたのかもしれない、とその背中を見て気付いた。

「次郎殿は、義父上が何をなさるおつもりか心当たりはありますか?」

さっきよりも、幾分しっかりとした声で尋ねることができた。

「そのようなことには疎い質なものですから、これといった答えは申せないのですが…。 京にお供した時のご様子では…直義様は今の帝の政治を崩したいと思っておられるのではないかと」

「帝の政治を、崩す…」

黙り込んでしまった私に、確証は全くありませんよ、と次郎は慌てて付け足した。

きっとそれは真実だ、間違いなくそう思った。






「義父上は、どうして帝を討ちたいのですか?」

翌朝、またもや書庫にいる義父上に尋ねた。


「次郎が、・・・何か言っていた?」
「私が聞いたのです。」

私が少し語気を強くすると、義父上は体ごとこちらに振り向いた。


「…足利のため、ですか?」

喉から声を絞り出す。
向けられた瞳は、いつもより鋭い光を放っている。珍しくも見覚えのあるその光は、時に人を圧するのに十分だった。

尊氏のためですか、とは言えない。

その名は私にとって、踏んではいけない線なのだから。



向き合う義父上は曖昧に頷く。
怒っているわけでもなさそうだったが、私にわざわざ言うつもりもなかったのかもしれない。
ゆっくりと、義父上は口を開いた。

「秩序に基づいた政治が行なわれるようになれば、皆が正しく評価されることになる。 私欲に動かされなければ、国も心安くなるだろう」

じっと見つめ返される。今度はいつもと同じ義父上の目。迷いのない澄んだ視線。

「そうすれば直冬にも、もっと大きく、大事な仕事を任せられる。 私は直冬に色んな事をやらせてあげたい。鎌倉に来てから、特にそう思っているんだ」

一度はにかんだように笑うと、義父上はまた手元に視線を戻した。
父と呼ぶにはやはり、幼すぎる笑顔だった。



姫様のように実の子にはなれない。
憲顕殿のように、友にもなれない。
次郎のように、家来にもなれない。
尊氏のように、兄として前を歩くこともできない。

それでも、
それでも何かできることがあると、私は信じてもよいのだろうか。


自惚れ始めている。
その自惚れすら
私のせいだけではない、とまで


義父上は私を受け入れてくれた。
実の子のようにいとおしんでくれる。


なのに


―・・・「尊氏」を嫌う理由がもう一つある。

その存在がいつも問いかけてくるのだ。


やっと与えられたかけがえのない人に、

私はこれ以上 何を望んでいるのかと。