「熱はないみたいですけど」
「…うん」

額に当てられた掌は少し冷たく、もう渇き荒れてはいなかった。
もう一つを自分にあて、真剣に温度を比べている彼の手のあかぎれは、やっと綺麗に治ってきた。
述べ約半年、一年近くもかかったのだ。


「大丈夫。少し咳き込むぐらいは、患いではないよ」

「もう一度喉を漱ぎますか」
「直冬の一度…は百回のことでしょう?」
「はい、誰かが風邪を引いた時、玄恵様はよく喉を漱ぐようにとおっしゃっていました。」

思わず笑いが零れた。
さすが、の玄恵だ。
彼は自分と十も歳が変わらぬ。けれど何十年も多く行を積んだ老僧にも劣らぬ程、立派に教えを説き弟子を育てる。
直冬を引き取る以前から、親交はあったのだが。


「早めに休めば治る。近頃は外が乾いているからそのせいだ」

もう寝支度を整え終えたし、後は体を横たえて眠ればいいだけなのだ。

直冬がぎゅうと、私の膝の掛け物を握る。


「私に義父上の看病をさせてください」

「え…」

身を乗り出すようにして言われ、少し戸惑った。

「もし何か移りでもしたら大変だよ?」

「大丈夫です。私、風邪など引いたことがありませんから」

視線を逸らした彼は少し照れているようではあったが、期待するものそれ自体を隠そうとはしていない。



義詮が生まれ、父上が死に、そして一度目の召集と出征を終えた後であった。

直冬を『養子』だとしている。

これからのことを危ぶんだからだ。
今よりもっと目まぐるしく変化するであろう状況に備えて、彼を拠るべない立場に置いておくわけにはいかない。

「いや、その…明日の朝にはよくなっているかもしれないし。様子を見てからにしよう?」

「…わかりました」

素直に頷いてくれたものの、表情は曇っている。宥めるように微笑み返した。


「心配してくれて有難う直冬。…おやすみ」
「はい義父上、おやすみなさい」




義息子という立場を得て、彼の人としての彩が豊かになってきたのは嬉しかった。

だが肝心の兄上は、直冬を引き取ったことをあまり快く思ってくれてはいない。
逆にそれ以来、直冬のことは話題に出来なくなってしまったのだ。











「この俺が、あれの父に成れというか」


話を持ちかけた時の、兄上のあの表情は忘れられない。
怒り、というには虚ろだったが、言葉と声には間違いない険があった。
何時も通りすんなりと上がった兄上の室で、私は酷く慎重に言葉を選んだつもりだった。




向き合う兄上の後ろには紅い楓が見える。紅葉も秋らしく色づきはじめていた。
庭はまるで作られた風景のようだ。
鮮やかさに慣れぬ私は、その色に殴りつけられたような気にすらなっていた。


そう、例え何も知らないとしても、飾る全ては兄上の為にこそ相応しい。


ずっとそう思ってきた。
今もそう思っている。





「だけどあの子は何も、」
「そうだ。俺の罪だ」



言い切られて黙った。
十二年程前のあの出来事が、兄上の心の中から消えた事はないだろう。

兄上には情緒不安定のきらいがある。

感情の起伏が激しいというだけではなく、それを吐き出す対象が何らかの破壊衝動、ひいては自傷に向かうのだ。
幼い頃は癇癪で済むようなことも、今ではそうもいかない。


「血だ」という噂を耳にしたことがある。

名しか知らぬ祖父は、自らの手で腹を掻っ捌いて死んだと言う。


まるで水が如く容易く変わらる血の温度。沸き立てば間違いなく周りと自分を傷つける。
父がどうだったかは知らない。だが受け継いだのは兄上だ。
かくたる場面を、私は何度も目にしてきた。


『正気ではない』感情のうねりが、張り巡らされた木の根のように兄上の中にあるせいだ。
ただ誰かの近寄る足元がその線を踏まないことを願ったり、または何より鋭い刄で叩き斬ってくれないかと願ったりしながら、私は立ち尽くしていた。

恐くは、無い。
呼べば私を見てくれる。それは何も変わらない。


だが悲しいと、それだけが焼付いている。

誰の悲しみかもわからないまま




「では兄上、」



風が吹けば葉を一つ一つ揺り落とした。まだ紅に成る前のものも。

例えばそれが血の雨に例えられても、私が今見ているものは兄上に相応しい。
だから、怖くは無いのだと思う。




「直冬を私にください」


懇願するわけでもない。ただふと呟いてみる。
兄上は真っ黒の目を見開いた。

「…どういうことだ」
「私が引き取ります」

「あれを、お前の…」
「養子にしたいのです。私にはまだ嫡子がおりません。…紗和も気に病んでおります」


静かに、ぽつぽつと言葉が出てくる。視線を落とし、自分の足元を見た。


「…駄目だ」
「何故?」
「わかってくれ」


私の肩を掴んだ手は強いのに、小さく震えている。

「お前と関わらせたくない」
「何を恐れているのですか、兄上」

顔を見返す。風も吹かぬ池の中にいるみたいに、静かに。

「あの子が兄上の罪だというなら、」
「直義」

続きを閉ざすように、向かい合ったその顔に手を伸ばす。 強張った左頬に触れても、兄上は瞬きもしなかった。


「私にくださればよいのです」


一瞬の間のうちに、考えたことがある。迷ったが、結局素直に口に出した。


「このままでは、どの道どこかから世継ぎをもらいうけねばらぬでしょう。私は見ず知らずのものから譲られた子などに、きっと心は許せない」

手を離すと、何故だか可笑しくなってくる。
だがぎこちなくしか、笑えない。


「お願いです兄上、…直義の為に。」


頷いてはくれなかったと思う。 だがもう二度と、駄目だとは言わなかった。

言えないことを知っていた。
私の為、だから。