あるところにひとりの少年がいました。
少年にはひとつだけ何より大切な宝物がありました。それはとても綺麗な一体のガラスの人形。
その人形はとても綺麗でしたし、何より少年に優しく笑いかけてくれたので少年はその人形をとても大切に
していたのでした。
少年は段々と大きくなり、色々なことを知りました。例えば、彼が大切にしていたガラスのお人形がとても
割れやすいことなどをです。
壊れてしまったら大変だと思い、少年は人形を大きな箱の中にしまっておくことにしました。
しかし少年は何よりその人形が好きでしたし、その姿を見ているのが好きだったので、その箱を透き通った
ガラスで作りました。そうすれば箱の中にいれたままでも少年には人形の姿が、また人形にも少年の姿を見る
ことが出来たからです。
そうして箱の仕上がりに満足した少年はその箱に金色に輝く小さな鍵をつけて、その人形をしまいこみました。
きらきらと輝く鍵を首から下げて、少年はいつも人形と二人でいました。二人でいろんなことをして時を過ごし、二人でなんにもしないでただ側にあることで日をおくりました。
少年が「ずっといっしょにいたい」と言えば
お人形も「わたしもです」とこたえました
少年は幸せだったのです
それから少年はやはり段々と大きくなり、少年は最早青年と呼べる年になっていました。
大人になった少年は、益々色々なことを知り、そして様々な力を手に入れました。
青年は大切なガラス人形の入った箱をもっと綺麗にしてやりたいと考えました。
人形はとても綺麗でしたから、昔少し拙く作り上げた箱を立派にしてやればもっと綺麗にみえるだろうと
思いました。それに人形だって綺麗な箱の方が好きにきまってます。
青年は早速その箱に細工を加えました。精密で美しく、思わず目をひくような素晴らしい箱に。
そう作り上げようと青年は頑張りましたし、大きくなった青年にはその力があったのです。
そうしてガラス張りのその大きな箱の中の世界はとても美しい風景へとかわりました。全てがきらきらと
透き通って光るもので出来ていて、汚らしい何をもを受け入れない美しさがありました。
青年が手を引いて人形にその世界を開けば、それを見た人形はとても喜びました。一点の曇りもないその光景に人形が立ち入れば、益々その箱は美しく映えたのです。
青年はしばらくしてお店を開くことにしました。
人形にあうようにと綺麗なものをあつめているうちに、そういったものを扱う仕事についていたのです。
店にきらきらと輝く様々なものを並べて、青年は人形に語りかけます
「どうだ、とても綺麗だろう?」
すると人形は
「はいとても」
とこたえました。青年は幸せそうに、
「でもお前がやっぱり一番綺麗だ」
と付け加えて、嬉しそうに笑う人形を見つめました。
そして青年はその人形の入ったガラス張りの箱を通りに面した店のウインドウに据えました。
店の何よりも美しい人形を青年は誇らしく思っていましたし、それに何より陽の射す場所に置いた人形は
それはそれは綺麗に輝いたからでした。通りを通る人はやはり綺麗な人形にひかれて店に入ってきました。
青年が人形の為にと揃えたものでしたから店の中のものも立派なものだったので、すぐにお店は繁盛しました。
忙しくなった青年は何人か人を雇いました。商品を売る人、仕入れる人、管理する人などです。
そうして雇われた人の中に一人の少年がいました。
少年はガラスのショーウインドウの掃除係でした。少年は通りで見た綺麗な人形にびっくりして
自分からこの役をかってでたのでした。
お店に入ってきたお客さんは、人形を指差して言いました。
「あのお人形はいくらですか?」
そして青年の答えはいつも決まっていました。
「申し訳ありませんが、あれは売り物ではありません。私の宝物です」
その言葉を箱の中で聞くだけで、お人形は幸せでした。
少年はお店が開く前の早朝と、お店が閉まってからの夜遅くの二回にやってきては、ショーウインドウを綺麗に磨きました。そしてお仕事以外では、お店の近くに腰掛けてお人形を眺めていました。
そうして幾つかの月日がたったある日、いつものようにお仕事をしにきた少年は初めて、小さな小さなお人形の声をガラス越しに聞いたのでした。
「ありがとう」
「…え?」
「君のおかげで私は、いつも綺麗な世界を見ることができます」
そういって人形は、にこりと少年に微笑みました。
それからというもの、少年は少しずつお人形に話しかけてみるようになりました。
ほんのたわいのないことを話してあげるだけで人形はさも可笑しげに笑いました。その様子はとても楽しそうであったので少年は益々お人形を喜ばせてあげたくなって色々な話をしました。
この場所からは見えない町並みや、他の店のこと。少年が見たり聞いたりした色々なこと。
時々少し戸惑うようにしていた人形もそのうちに少年によく喋りかけるようになりました。
そうしてある日少年はお人形にいいました。
「そこから出たくはないの?」
お人形はこたえます。
「いいえ」
「だって外にはこんなに色々なものがあるんだ。みせてあげたい。一度だけでもいい」
「私はここから見る世界が一番好きです」
人形は少し困ったように首を傾げて笑いました。
少年は何も言えずに黙りこみました。
実はこの箱の鍵は内側から開けることも出来ましたが、お人形がこう言うのですから、
ショーウインドウを開けるにはあの金色の錠前に鍵を差し込むしかありません。そしてその鍵はいつだって
店の青年が首に下げているのでした。
青年のお店はいつもたくさんのお客さんで大にぎわい。お店はまた、一回り大きくなりました。
更に美しく、大きくなった箱を見せて青年は言います。
「どうだ、綺麗だろう?これでお客さんがどんなに増えても、お前を守ってあげられる」
人形は答えます。
「…はい、嬉しいです」
それを聞いた青年は、満足そうにお店のカウンターに戻っていきました。首から下げた鍵を、大事そうにそっと撫でながら。その後ろ姿を見たお人形は、いつも青年が店番をしているカウンターが遠くなってしまったことを、少し淋しく思いました。
「どうしたの?元気がないね」
今日もやってきた少年は、ショーウインドウのガラスを磨きながらお人形に尋ねました。だけどお人形は黙って首を横にふるだけ。少年は益々お人形が心配になりました。
「…一度だけ。一度だけそこから出てみようよ。僕が連れていってあげる。またすぐに、戻ってくればいい」
「…私は、このお店の主人のものだから」
少年は咄嗟に答えました。
「わかった。僕が店主さんに聞いてきてあげる」
「…でも」
お人形の小さな声を聞きおわらないうちに、少年はお店のドアに手を掛けました。
少年はカウンターの前にたつとこう言いました。
「店主さん店主さん、その鍵を貸してくれませんか」
「何でかな」
青年は少し困惑してこたえました。青年は少年とほとんどお話をしたことがなかったのです。
「一度だけでいいんです。あのお人形を外に出してやりたい」
「あの…人形を?」
「もちろん壊したりしません、ちゃんと返しますから、いいでしょう?」
少年は一生懸命青年に言いました。お客さんにまぎれて今は見えませんが、ショーウインドウのお人形がこちらを見ているのが分かったからです。
しかし少し黙りこんでから青年は首を横にふりました。
「でもあの人形は本当に壊れやすいんだ。それに万が一割れてしまっては直せない。外に出してはやれない」
「でも、あのお人形は少し寂しそうです」
青年は驚いて少年を見つめました。
「きっとあの人形も外に出してやったほうがいいんです」
少年はお人形の言葉を忘れた訳ではありませんでしたが、それ以上に元気の無い様子をどうにかして
あげたかったのです。
「お人形がそう言ったかい?」
しかし青年の問いに、少年は何も言えなくなってしまいました。その様子を見て、青年はほっとして笑います。
「君の考えすぎだよ」
「…でも、今お人形と一番お話しているのは僕だよ」
泣きそうな声でそう呟いてから、少年は店を出ていってしまいました。
残された青年は一人溜息をつきました。お人形が淋しそうだと言われたのが、青年はとても悲しかったのです。だから淋しくないように、もっともっと綺麗なものを増やしてあげようと決めました。
しかし少年が最後に言った言葉は、青年の耳からなかなか離れませんでした。
「ごめんね。店主さんにお願いしてみたけれどだめだったんだ」
そっとショーウインドウに触れながら、少年はお人形に謝りました。しかしお人形は、首を横に振りながら
答えます。
「君が毎日きてくれるから、私は平気です」
「…本当に?」
こくりと頷き返したお人形の笑顔がとても優しかったので、少年は泣きそうになりながらも笑いました。
そしてその夜、ガラス越しに笑い合う二人の姿に、青年は気付いてしまいました。
青年はお人形が笑うのを見るのがとても好きでした。お人形が輝く姿が綺麗なのはいつだって青年の一番の喜びだったのです。
でもそこにはいつだって笑いかけられた、見ることが出来た自分が居たのでした。
ガラス越しに少年に笑いかけるお人形は、覚えているそれと寸分違わず綺麗にそして優しく微笑んでいました。しかしそこにいるのは自分ではなく、あの少年なのです。
青年は少年の言葉を思い出して、はじめて動揺しました。
そうして青年はその光景を見続けるのは何故だか悲しく、そのまま店の中に戻ったのでした。
大きくなった店の中で青年はとても忙しくなりました。
毎日店が閉まってからはお人形に話しかけてはいましたが、疲れた青年を見たお人形は話の最後はいつだって、少し悲しげに
「もうゆっくり休んでください」
といいました。
青年はもう少し話をしたいと思うのですが、お人形が本当に心配してくれるので、そう言われれば休むしかありません。
そうして青年とお人形が側にいる時間は少しずつ減ってゆきました。
青年は最早少年の言葉を笑って否定することが出来なくなっていることに気付いていました。自分などより余程彼の方がお人形とお話をしています。それに否定できる訳がありません。酷く淋しいのは、青年だって同じ
だったのです。
しかし青年は疲れていました。
そうして泥のような眠りに落ちる青年は最早夢を見ることもなく、青年はもう少年ではありませんでした。
お人形は青年がお仕事をするのを見るのが好きでした。目を輝かせながらお客さんに、品物を説明する青年が
好きでした。買ってくれた品物を持ちかえるお客さんを、笑顔で見送る青年が好きでした。
そして一つ売れるたびに、嬉しそうに自分を見てくれる青年が大好きでした。
お店が大きくなって、手伝いの人もお客さんも増えました。そんな人たちに遮られて、お人形は大好きな青年の一つ一つが見えなくなっていきました。
小さな小さな声で呼び掛けても、お人形の声は周りの音で、遠いカウンターには届かなくなっていきました。
寂しげな顔で自分を追い掛けるお人形を、青年は見るのが苦しくなっていました。
楽しげな顔で少年と話をするお人形を、青年は見るのが苦しくなっていました。
「どうして泣いているの?」
苦しげな青年の姿を見て、人形は涙を零します。びっくりした少年はガラスの向こうに問い掛けました。
けれどお人形はただただ宝石のような涙を零すばかり。壊れたような空っぽの瞳を少年はとても不安に思い
ました。
わけを僕に教えて、と少年は呼び掛け続けました。けれど答えはありません。お人形はただただ宝石のような
涙を零すばかり。少年はどうしようもないくらい不安になって、ショーウインドウを手でどんどん叩きながら
呼び掛けました。
「君!何をしている!」
その音に気付いて青年が店から飛び出してきました。
「やめろ!」
青年の止める声も聞かず少年はガラスを叩き続けます。怒った青年は少年をガラスから引き剥がして言いました。
「大切なガラスケースが壊れてしまう!」
少年は泣きながら青年を睨み付けました。
「お人形を泣かせたのは誰?」
青年は驚いてお人形を見ました。お人形はまだ大粒の涙を零し続けています。青年が慌てて呼び掛けても、
虚ろな瞳のままのお人形にはその声が届きはしません。
「だから僕は言ったじゃないか!お人形を外にだしてあげてって!」
前の少年のことばと、そして笑い合う二人を思い出した青年は怒鳴り返しました。
「これは君のものじゃない!…明日からはもう、ここに来ないでくれないか」
少年はもう一度青年を泣き腫らした目で睨み付けてから、黙って走り去っていきました。
走り去った少年の後ろ姿を見やると青年はそっと振り返り言いました。
「泣かないでくれ」
青年はガラスケースに恐々と手を伸ばします。いつも青年は店の中からお人形を見ていたのでこうして、
外から手を伸ばすのは初めてのことでした。
そとの空気に冷やされたガラスは青年の手のひらにぴたりと張り付きます。その冷たさと、そして澄み切った
ガラスの近さに驚いて青年は思わず手をひきました。少年が毎日磨き上げているガラスは氷のように澄んでいて、こうして外から伸べた手はすぐにでもお人形に届きそうです。
青年は、自分でも訳の分からない悲しみを覚えながら、もう一度だけお人形に語りかけます。
「泣かないで」
お人形は今気づいたようにそっとその声に顔をあげましたが、青年はそれを見る前に俯いて店の中に戻って
しまいました。
青年は首から下げた金の鍵を見て、少し不安に思いました。
ガラスケースがあんなにも脆いことを青年は知らなかったのです。こちらを見た少年の顔を思い出して青年は
焦ります。
青年はそれでもお人形を外に出してやることはできませんでした。
少年が言った通り、泣いてしまったお人形を外に出してやるほうがよかったのかもしれません。
だけれどガラスケースに手を伸ばそうとしても、きらきらとどこまでも綺麗なガラスケースは下手に
中を触れば壊してしまいそうです。それに何よりも外に出してお人形が壊れてしまったら、と思うととても
出してやれません。
外に出せばこの美しい人形を色々な人が触るでしょう。お客さんやあの少年、そして青年自身も。
もし間違って落としたりぶつけたりしてしまったら?もし誰かに持っていかれてしまったら?
もし地震があったら?
もし、もし…
青年はどんどんと怖くなり、やはりガラスケースを開けようとする手を戻してしまうのです。
そして青年はかわりに、金の鍵の上から大きな鉄の錠前をつけてしまいました。これだけ大きな鍵なら開けられてしまうことはないでしょう。しかしその鍵は金色の綺麗に輝くそれとは違って、酷く冷たく硬い鍵でした。
大きな鉄の錠前を見て、お人形は悲しくなってしまいました。
「…私はここから逃げるつもりなんてないのに…。このガラスケースを私が嫌がっている、と思われているのかな…」
お人形はその深い鼠色を見るたびに、心が壊れそうなぐらい淋しくなりました。
大きな鍵をつけてしまったことを何処か後ろめたく思った青年は、益々お人形に話し掛けられなくなって
いました。一人カウンターに突っ伏して、お人形の涙を思い出すことが多くなりました。
お店の手伝いの人もお客さんも、そんな青年を心配しはじめました。しかしその理由を聞いてみても、青年は
何も答えません。
「店長さんは何かあったのかい?」
人々は口々に噂をしています。
「何か最近、変わったことはなかったかい?」と。
青年の様子に悲しみ続けて、お人形の心はすり減っていきました。
もともと命などなかった筈のお人形。それはまだ青年が少年だった頃、いつも優しく話し掛けてくれたその声が、笑顔が、お人形に心を与えてくれたのでした。
「この心にはもう意味なんてないの?」
お人形はその答えを、誰かに教えてもらいたいと思いました。だけれどそんな悲しい質問は、青年には
できません。
だったらあの少年に聞いてみよう、お人形は考えました。ガラスケースの中のお人形とお話をしてくれるのは
あの少年だけ。
けれど何日待ってみても、少年は現れません。
「…風邪でもひいてしまったのかな…」
待ち続けるお人形の心には、いつしか小さなひびが入っていました。
『お人形を泣かせたのは誰?』
青年はどんどんと暗い気持ちになっていました。
ぐるぐると頭の中は少年の言葉とお人形の涙が回っています。
青年は首の二本に増えた鍵を弄りながらぼんやりと閉店した店の中に座っていました。もうすっかり夜になって、明かりも消してしまった店の中は本当に暗くて、座りこんだカウンターからではガラスケースの中を見ることはできません。しかしむしろ青年はほっとしてただずっとガラスケースを見ていました。
こうして暗闇の中、ただ一人でならいつまででも見つめていられるのに、朝になって明るくなると青年は忽ち
見れなくなってしまうのです。大好きなお人形はとっても優しくて、いつだって自分が見れば視線を返して
くれました。
しかしお人形の目を見つめればあの宝石の様にこぼれ落ちた涙を思い出してしまいます。その光景に堪らなく
苦しくなってつい目を逸らしてしまうのです。そうしてしまえばお人形が悲しげな顔をしているだろうことを
青年は知っていました。それなのに突っ伏した顔をあげることはできません。
青年はとっくにわかっていました。
お人形を泣かせたのは青年なのです。
そうして毎日青年は疲れ果てた体を持て余しながら、それでも日が昇るまでの一人の空間でただひたすらに
真っ暗なガラスケースを見つめていました。
真っ暗なガラスケースにうつるのはいつだって優しいお人形の笑顔。
青年は少年だった遠い日に、お人形が初めて目をあけて青年に笑いかけてくれたことを今でもはっきりと覚えていました。
綺麗な綺麗なお人形がこちらを見て青年を呼んだ時に青年は決めたのです。
このお人形とずっといっしょにいるのだと
お人形と同じように、お人形との思い出は堪らなく綺麗でそして繊細な欠片でした。
真っ暗なお店の中できしきしと細い音をたてる欠片を積み上げて青年はそうして夜を明かしていました。
一人で過ごす夜はとても長くて、眠ることの出来ない青年は次第にどこかぼんやりとしていることが多くなり
ました。
いつだって笑顔でお客さんに話しかけていた青年は、お店が開いている時でさえ時々ふらふらとカウンターに
座りこんだり、壁に凭れたりしました。
真っ暗なガラスケースの中は見えないのに明るいガラスケースを見ることが出来ないのです
だから瞳に悲しみを湛えたお人形がそんな青年を見て、少しずつ増やしていった小さなひびに、青年はしばらく気づくことが出来なかったのでした
お人形はだんだん眠っていることが多くなりました。青年のことを考える度にひびは増えていき、その上目を
開けて誰かを待ち続けるのはとてもとても苦しいことでした。
そんな中、ふと目を覚ましたお人形は、こちらを見て話すお客さんたちの声を聞きました。
「店長さんは近ごろ、様子がおかしいと思わないか」
「そういえばこの人形を、避けているような気がするね」
「このお人形に何かあるんじゃないのか」
「たぶんそうだ。店長さんの元気がなくなったのは、あの人形のせいなんだよ」
一人がお人形を指差して言いました。
「そのうちあれが店長さんを、憑き殺してしまうかもしれないな」
向けられる視線は冷たく、お人形を責めているよう。そしてその噂話は一人歩きをして、いつしか真実のように
たちまち人々に広まりました。
だけどそんな噂が立っていることなど、青年は知る由もありません。皆は気を遣って、店長さんの前ではその話をしませんでした。
お人形は声もなく泣きました。その噂を否定する理由が、何よりもお人形の中になかったからです。
「皆が言うとおり、私はあの青年にとって悪いものなんだ」
お人形がそう思い込んでしまうのに、時間はかかりませんでした。
「こんばんは」
月も凍りそうな冷たい夜、息を潜めて呼び掛ける声にお人形はぼんやりと目を開けました。
「きみ…」
ほっとして白い息をついたのはあの少年、あのガラス拭きの少年でした。
お人形は久しぶりのその姿を嬉しく思いましたが、ずっと笑っていなかったせいで笑顔を忘れかけていました。
「風邪をひいていたの?」
擦れた声で、お人形はやっとたずねます。
少年は俯いて首を横に振りました。
「…お仕事やめさせられたんだ。僕はほんとは、ここに来ちゃいけないんだ」
「…え」
お人形は驚いて目を見開きました。
「どうして?」
「…店長さんに嫌われちゃったから」
何処か冷たい色を湛えた瞳を隠して、少年は顔を上げました。
「だから、だからね…」
小さな手をぴたりとガラスケースに張りつけて、少年は笑います。
「僕は君を、連れていかなきゃだめなんだ」
え、とお人形は首を傾げます。
「今日だって君は、前みたいに笑ってくれない。僕ね、君に笑ってほしくてずっと…色々なところに行って
素敵なお話をたくさん集めてきたんだ。今日はね、そのお話をしようと思ってた」
少年は静かな声を紡ぎ続けます。
「だけどね、一目見てわかっちゃった。僕だってわかるよ。ずっと君を見てきたもの。……君の心はもうすぐ
無くなっちゃう。だから僕がここから出してあげる」
「…むり、だよ」
お人形は呟きます。
前のように、いやだと言えないことを悲しく思いながら。
このまま青年を苦しめ続けてしまうなら、お人形にはもうここにいる理由がありません。
青年の優しい声も、笑顔も消えてしまうなら、お人形はもうここにいる理由がありません。
「無理なんかじゃないさ」
少年は優しい声で囁きます。
「だって…鍵が」
「鍵なんていくつ増えたって平気だよ?言ったでしょ、『ここから』出して上げるって」
「……ここ、から…」
人形はその意味に気付き端と口をつぐみました。
そのしばしの静寂の中、少年は手をガラスケースからそっと離します。
「じゃあ、明日ね」
少年は優しく微笑んでから、闇に姿を消しました。
ガラスケースに残ったのは、小さな手の曇り跡だけ。消えていくその跡を見てお人形は思いました。
青年と離れたくないけれど、私がここにいては青年を不幸にしてしまう
しかしだからといって少年のものにはなれません。お人形は自分のための美しいこの場所と、何より青年を
裏切りたくはないのですから。
―…だったら、…
また静かに目を閉じたお人形を、冷たい月だけが見ていました。
ガラスケースに少年が手を伸ばして、鋭い月が輝いたその夜。
冴え冴えと輝く星はどこまでもきらきらしく、りんとした静寂を照らしていました。
暗い夜中でしたら、それは気付けはしなかったでしょう。しかしその夜は月の青白い光が静やかにお人形に
降り注いでいました。白く暖かに残った手のひらのあとだって、氷のようなガラスには夜闇の中でこそ映えて
ありました。
そういつものように青年がガラスケースを見つめていれば、気付いたかもしれなかった、そんな小さなこと。
しかししばらく眠ることの出来なかった青年は、この夜は、カウンターに倒れるようにして眠っていたのでした。
何故眠れたのか青年にも分かりませんでした。いつもは暗闇に浮き上がるガラスケースのラインを見つめた
目を逸らすことすら出来ないのに。
ただ月に輝くそのお人形の後ろ姿を視界にいれた途端に、すうっと閉じていくのが分かりました。絡めとられるように、闇に包まれて瞳を引き下ろした時、そして青年は不思議と全てを忘れてただ純粋な眠りに落ちたのです。
月が綺麗な夜でした
少年は何処までも愛おしげにお人形に笑いかけて去ってゆきました
そして青い月に照らされたガラスケース、お人形は祈るようにそのガラスの瞳を引き下ろしました。
祈るように、願うように。
そして。
ただ一筋流れた煌めきは悲しみではない色を弾いて落ちました。
月が綺麗な夜でした
青年は本当に久しぶりに眠りました。滑らかなカウンターに体を預けて夢を見ました。
それはとても綺麗で繊細で優しい全てで織りなしたものだけで作りあげた、あのガラスケースのような
残酷な、夢でした
少年はただ一人月の下に立って、その手をそっと掲げました。白く美しい光に照らされたこの手で。
護るような光はどこまでもあの綺麗なお人形に相応しいからきっと、うまくいくでしょう。
祈るように、願うように。
そして。
待ち受ける如何なる傷をも厭わないという覚悟は、少年の握り締めた手のひらを小さく刺しました。
月が綺麗な夜でした
綺麗な綺麗なお人形を
綺麗な綺麗な宝箱にいれて
綺麗なものしかあってはならない、だって綺麗じゃないものはお人形には似合わないのですから。
青年は思い出します。
店を開くため頑張って、そんな青年をいつだって励ましてくれたお人形を。
優しいお人形に何もかもをしてやりたくてひたすらに進んできた自分に、笑いかけてくれたお人形を。
守ってやりたくて
飾っておきたくて
壊してしまいたくなくて
笑ってほしくて
どんどんと大きくしていったガラスケースを。
綺麗じゃないものはあってはならないのです。
そうやって作り続けたガラスケースは、とてもとても綺麗でした。でも綺麗に輝くそれが暖かいかなんて何故わかるでしょうか。触ることのできないその温度を、青年が知ることはなかったのです。
そんなそんな、美しく残酷な夢を見て。
青年は眠ったままそっと泣きました。
祈るように、願うように。
だけれども
青年の知らぬ間に流れされたそれは、夜が更けるうちに乾いていました。
月が綺麗な夜でした。
そうしてそれぞれの最後の夜は、過ぎて行ったのでした。
未完。ラストは決まってるんですが…
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