か細い音がするのに、ふと顔を上げる。 朝の黎明を抜けきり、それでいてまだ日が中天に昇りきるには早く、どこか浮き足立つ空気が染み渡るそんな刻限だ。

さらさらと擦れるような音を追って、何とはなしに縁側の方へと足を向ける。 手を掛けると戸を白く光らせる日の光が、諸に目を刺し眩ませる。少しばかり暗転した視界を無理やりに引き戻せば 日の光の其れよりも鮮烈な光景に、思わず息を呑んだ。

「…っ…た、かうじ、さま?」

見間違うことのないあるじ、その人が中庭に立っていた。半ば此方に背を向けるようにして、一心に足元にある何かを 見詰めている。眩み、色をうしなった視界に忽然と現れたその存在は少しばかり今の自分には強すぎる。

さらさらと擦れるような音は、断続的に耳を擽る。

尊氏は己の傍らに積み上げた器のような形状の幾つかを、無造作に掴んで足元にあるものへただ傾きかけている。 そのたびに鳴るか細い音。 白い光が斜めにその音を断ち切って、散らす。あざといまでに光彩を弾く其れが水の流れだと知覚できたのは 随分と呆けた後でのことだった。


ぱしゃりぱしゃりと、次第に叩きつけるように幾つも並ぶ器に満たされたものを注ぎ落とす。 只管に行われる作業に、凍り付いていた足が動き、喉がまたその名を呼ぶ。ぴくりとも此方へ反応を返さない その姿に無性に苛立って、思わず声を張上げてその名を繰り返す。

――そう苛立ったのだ
――その行為を止めて欲しかったから、ではない。その、筈だ

「尊氏さま!!」

唐突に動作を止めたあるじに、むしろ大げさに肩を跳ねさせたのは自分の方だ。 呼んだのは自分であり、反応を返したことに否やはない筈なのに、いざこうして意識を向けられた瞬間、途方に暮れた。 何を言いたかったのか分からなかったし、また何を言うのも憚られる気がした。

「…………なにを、」

押し出すように、零れ落ちるように。誤魔化すように紡がれた言葉は明快な意味を持ちはしなかったが、 紛うことない本心でもあった。ただそれを本当に聞きたかったのかどうかは言葉が零れ落ちてしまった今となっては もう分からない。触れたくなかったものに触れた。しかし飢えるほど其れが欲しかったのもまた事実だ。


「みずをやっていた」


至極当たり前のことをとなえるその口調で、尊氏は言い放つ。がらん、と動いた足先が転がした器の鳴る音が嫌に 籠っていて、無意識に眉根を寄せる。鳴る鼓動の音が響き、掻き混ぜられたかのような腹の中が、 何かを無性に叫びだしたいかのような情動で埋め尽くされた。

袖口を重く濡らして、それでも尊氏は並べられた器をまた手に取った。さらさらと傾けるように流していた其れを、 今度はいっそ乱暴に、一気にひっくり返してぶちまけた。

尊氏の足元で揺れる緑が、その奔流を受けて、ぶるりと揺れる。小さな苗木はその根元をぐずぐずに崩れた土で覆って、 それでもただその映える彩を日に向け弾けんばかりの勢いを内包していた。

「この木に」
「……、」

そうして尊氏は手にしていた器をまた無造作に抛る。其れが最後だったらしく、新たに器を手にすることはしょうとはせずに ただ一歩だけその小さな苗木の方へ足を進めた。 ぐちゅり、と生々しく泥の濡れた音が存外高く鳴る。沈む足の感触を楽しむかのように嗤う形に顔を歪ませた尊氏は、 ようやくこちらに向き直った。

「師直」

その瞳に宿す色を見て、即座に絶望する。
許して欲しいわけではない。許したかったわけではない。今の自分には強すぎるその視線。 触れたくないのに、何よりもその戦慄する感覚を冀う。 吊り上げられた口元に愉悦などひとかけらも含まれていないことを正確に読み取って、出来る限りに恭しく首を垂れた。

「……なんなりと」
「片付けておけ」

水に浸るその場から、一切の躊躇を見せぬ足取りで踵を返す。そして顧みることのないまま翻る着物の裾を、 それこそ燃え上がるような強さで見据えて、声に出さぬいらえをそれでも確りとその背中へ捧げた。




真っ白な夢を見て目が覚める
何もないことを知らぬ空白を見て醒める



尊氏がそんなことをしだしたのは七日ほど前。 そして自分はそれでも毎朝、初めて見るかのような光景の前に凍りつく。


「……尊氏さま」

またも朝を巡り、そして今日もか細い音に誘われる様に戸に手を掛ける。 立ち尽くした尊氏はだが、水を満たした器に手を触れることはなく、ただじっとその木を見つめていた。

「かれた」

どこか拙い口調で呟く、其処に疑問の色はない。ましてや驚いている様子はない。 ただ事実を読み上げたその声は、しかし少しばかりの悼みのような色を乗せていて其処が少し意外だった。

「根が腐ってしまったんですよ」

あんなに毎日水をやっていれば枯れる。もともとが未だ強いとはいえない苗木である。土が崩れるほどの水量に耐えられはしない。

「みずをあげたのに」

理由付けとは違う朴訥とした言い草は、いっそ暴虐だ。

「毎日。水をあげたのに。枯れた」

慈しむように萎れきったその苗木を撫でる手先は、酷く繊細に動く。それを目で追いながら、白い光に水滴を飾っていた あの緑を尊氏が本当に慈しんでいたわけではないことをおぼろげに理解した。

くるりと此方を向いた尊氏はしかし小さくわらった。困惑混じりの愉悦は、どこか秘められる類の甘さを帯びていて、 嗚呼今すぐにでもこの人を殺してしまいたい、と素直に思った。


「お前なら嘆くのか」


慈しんで愛して水をあげた。毎日。 愛したのに腐ってしまった。少しばかり其れが過多、だったから。 過ぎたるは及ばざるが如し。しかし過ぎるほど愛したのに腐ってしまうのだったらその方が悲劇に決まっている。

「ええ」

今度こそ肩を揺らして尊氏は愉快だと一言呟いた。嘘にもならない詐称は酷く虚ろに響いたし、その響きを甘受するような 許容は尊氏自身にも無いようだった。

「俺は嘆かない」

瞑い色を宿して尊氏は言い放つ。

「枯れるなら枯れてしまえばいい。」

水を注いでいとおしんで。溶けるほど崩れるほど浸るほど腐るほどそして朽ちる。何とも酷い話だ。


「師直」


甘く紡がれた名前に、酷く冷静に右手を伸ばす。自ら縁側から足を踏み外す勢いで飛び出たせいで、がくりと視界が揺れる。 がつりと右手は目の前にたつ人の肩を捕らえる。


熱に浮かされるような冷静さで見やった左手はだが、やはりそれでももちあがることは、なかった。


「哀れだな」

笑みすら浮かべぬ嘲笑は、燻る火を煽るのには十分すぎる。随分とこのところ薄くなった肩に爪を食い込ませて、力の限りに締め上げた。 かくりと反射的に崩れ落ちた膝を見やって、そのまま乱雑に手を離す。 ぐちゃり、と潰れる音がして泥濘に崩れた身体をそれでもただじっと見ていた。

足元をじっと見る。 尊氏があの苗木を見ていたときもこんな気持ちだったのだろうかと、莫迦らしい想像が頭の隅を掠めて思わず苦笑した。

「貴方は嘆かないのですね」

枯らした木をその身体でへし折った尊氏に、小さく囁きかける。

「あんなに愛していたのに。其れがただ過多だっただけで、枯れた事を」
「お前は嘆くだろう。」

予測のような口調で紡がれた言葉はでも、やっぱりどこまでも虚ろに響く。勢いよく倒れこんだせいで頬まで泥を飛ばした尊氏は ゆっくりと半身を起こすと、折れた木に一度瞳を引き下ろして酷く拙く頬を擦り付けた。

「嘆くことに、なるんだ師直」

それがもう戒めや静止の類でないことを知っている。だからこそがりがりとささくれた枝に頬を裂く尊氏の身体を右手でぐいと引き上げて 立たせた。その乱れ切った髪にするりと手を伸ばし、後ろに梳く。片手でただ機械的に繰り返されるその作業はすぐに終わったけれども もう尊氏は何を言おうともしなかった。

「湯を用意させます。……室に戻ってください」

ちらりと向けた視線の先はこの庭の端から繋がる、閉ざされたその空間。 この唯一の主を、とどめおくためだけの、その閉ざされた。

「……」

泥まみれの酷い格好で、尊氏はそれでも矢張り躊躇のようなもののひとつさえ無い動作で踵を返す。 歩き去る背を、見詰めているのは知っているだろうにそれでもかの人は何も言わなかった





本当は全て知っている


うごかないひだりて
とざされたくうかん

毎日繰り返される、その行動
彼が浸るほど、腐るほど、枯れてしまうほど愛している、彼の

尊氏は嘆かない。憎むことはあっても、その総量は恐らく彼の全てをかけたものになろう。

ああそして自分は?
同情も、善悪も、嘘も、罪悪も、慈愛も、殺意も、敬意も、全て
全てを捧げて浸して枯らして。

そうして嘆くだろう

嘆くことになるのだ
そう、尊氏が言うのだから。



同情も、善悪も、嘘も、罪悪も、慈愛も、殺意も、敬意も、全て
全てを捧げて浸して枯らして


最後に残るものがきっと喪失でないことを嘆くだろう
ただ只管に慈しみたかっただけなのだと泣くのだろう