じとりとした風が無意味に優しく頬を撫でる。 けだるいその重みはほつれた髪を乱して、首の後ろにさらさらと、矛盾した感触を落とした。 ぼんやりと視界が狭いのに、押されるような痛みがこめかみに響く。

この痛みに告げられている
既に知り得ているだろう、と

…そして、私は、きっと



ぬるく交じりこむ水気はやがて空から落ちる雨になる。 どこか春に似合う霧雨。 砂のように細かい雨粒は、濡れている感触など忘れてしまうほどに優しい。

浴びるそれが確実にこの体を冷やしていく。またもや首筋を掠めた重い風に、今度はざわりと鳥肌がたった。 為すべもなくあたりを見渡しても、どこにいていいのかがわからない。ぐるりとめぐらした視線は何も 捉えられず、ただ濁った頭のなかを掻き回した。

ふらふらと足元が崩れる。知らぬ屋敷の塀に手をついた。館までは後もう少しなのに

濡れた衣が重く冷たく肌に触れる。不快だと思いながらも、その感触だけをひたすら頼りに感じる。

「…っ、ぅ…」

割れるようにこめかみが痛い。頭を上げていられなかった。 押さえながら俯くと、乱れた前髪からぽたりと雫が落ちた。 じわりと滲む視界に一度瞬きをする。

髪から滴れる雨、
一つは空から落ちるのと同じように地に落ちて、 一つは涙のように頬と首筋を伝った。

人通りの少ないこの道をわざわざ選んで歩いてきた。一人にしてほしいと言ったら重能は、 ではお先に、と足早に去った。

それが気遣いだとわかっている。

返事をした声は悲し気で、振り返った顔はいつになく曇っていた。 しっかりと頷き返せたのは、そういう小さな優しさが嬉しかったからだ。

重能は無駄なことをしない。だからそれはいつも私の意に添うものだった。 最近は特にそのことを強く思う。

あの男を見ていれば
あのおとこをみていれば

慣れていたはずなのに それでも昔から私はあの男の目を、あまり見たことがなかった。それは私のせいだけではなくて、 あの男が見ているのはいつもたった一人だったから。 だからこその信頼は、確かにあったのに。

思い出す。

幼い頃からずっと兄上の傍にいた。

私はいつからそのことを意識するようになったのだろう。 いつからそれが、苦痛になったのだろう


「…ごほっ。ごほっ…、ぅ…ぐ、」

内側から競り上がってくるものを吐き出したい。 なのに口を突いたものはこんな、息苦しい咳にしかならないのか。

「…ぐうっ…」

そんな生温いものではない
喉元を押さえる。

「…ぐ…ぅ」

わたしの、わたしのすべてと相容れないような
それでも、消すことができなくて

絞める指に力が込もる。

「…っ、」

何故消せないかなんて、とうに気付いていた。

だってその後ろには
―…うしろには
いや、その先には

つかえがとれない。
絞める指は冷たい。
喉を、胸を、臓を押し潰したら、この異物感は消えるだろうか。

首には、この首にはたしかに血が流れていて
これ私のものならばもっと、あたたかいはずなのに

いくら掴んでもあたたかくなどならない。

これでは駄目だ
でもよくわからない

これでは、だめだ
私のせいなのだろうか

だって見つからない

見うしなったのは私で、
見つけたのが、


「義父上っ!!」
「!…」

泥が跳ねる音が近づいてくる。 鋭く耳を突いた『声』を聞いて、反射的に手から力が抜けた。

「お探ししましたよ」

いつのまにかすぐ傍で聞こえる声と、上がった息。

「…、…う、ん」

痺れるように一瞬駆け抜けたもの

「あ…」

そこに

「…義父上?」

見つけられたら

「…、あ」
「義父上?」

思わず振り仰いだ先のその顔は、驚いたように目を見開いた後きつく眉を寄せた。

「!!…どうされたのですか!?」

目の前にいるのは直冬
わたしを

「その、…」

さがしにきた、私のむすこ

「くるしい、から」
「え?」

「…心配いらない、」
「、…!」

突然、 捻じ上げるように手首がつかまれる。

「…い…っ」

食い込む指の感覚
捕まれて伝う温度

…この、熱が、

「…義父上!!」

その目が射ぬく

「、何故こんなことをなさったのですか?!」

声が鼓膜を震わせる

「…直冬、」
「はい?」

いたい、 言おうとした言葉が唇に届く前に消える。その僅かな余韻さえ、口をつぐんで押さえ付けた。 捕まれた手の、指先を小さく動かす。青く浮き出た血の管が一度、ぴくりと脈打った気がする。

「…怒って、いる…?」
「当たり前でしょう」

糸のような雨粒に邪魔されても

「…何故怒るんだ?」
「そんなことを言わせるおつもりですか」

燃える炎のように熱く、夜闇のように黒い眼。 映るその表情の全てが、

…似てる
同じだ

…どうして?

気が、狂いそうだ

「…」
ああ、でも

「義父上、」
「何…で」

ただじっと見上げていると、直冬はあきらめるように息を一つついた。

「帰りましょう。…皆が心配しております」

困ったように、でも優しく笑う。

「…ん」

放された手首がだらりと落ちる。少し赤くなったそこに、左手でそっと触れた。

怒った、のだろうか。

―…は怒ってくれた。

同じならば、
それがあるのなら?

まだ、ここに…?

「…、ち」
「義父上っ!!」

ちがう
違う、ちがう、ちがう

あにうえじゃない
あにうえじゃない、のに

割れる。割れてくれた方がいい。この痛みが何を告げているかなんて、もはや自分にだって聞く必要はない。 足りないものしか満たせないなら、責める痛みを放ったまま。

夢中で離れたばかりのあの手を掴む。 縋る熱しかわからない。

ちがう
ちがうちがうちがう
ああでも、

でも、この感情を 私はずっと、知っていた。

気付いていた。


直冬は兄上の息子。 だから、私は直冬の父だった。

望み
勝手な願い

傍にいてほしいのに

代わりなんかではなくて、そんな慰めではなくて。 私には必要なのに、もうほどけはじめている。

、一人では駄目なのに

だけど今は、

そしてそれこそが私に示された答えで、歩むべき道だとしたら?

どう在りたかった
どう在ればいい?

これ以上見失いたくない。離れたくない
なのに私は今、この熱しかわからないのだろうか

「…もう大丈夫ですよ、」

優しく返される温度。直冬が目の前で綺麗に笑う。濡れた衣の冷たさも、縋る腕の熱を阻めない。

だから

泣きたくなってわざと目を開ける。

裂けていく己と因。 崩れたくなっても許さない。 がむしゃらに、その手を掴めばよかった。

その中で、

名を、 呼ばれた気がしたのに。

きっと、ただの夢

それでも、



「…義父上だってもうおわかりでしょう?」
「ん?」

体を起こそうとして顔をしかめる。添えられた腕がしっかりと背を支えた。

「何を?」

目を覚ました床の上で、すぐ隣の顔を伺う。 直冬は視線をぼんやりと遠くに馳せたまま、どこか虚ろに口を開いた。

「尊氏は確かに貴方の兄、そして私の父だ。」
「…、」

表情の無い横顔には突き刺すような鋭さがある。感情を押し殺そうとしているのだろうがそれは為されぬようで、小さく震える声が言葉を繋いだ。

「だけどあの男は貴方でなく執事を、私でなく義詮を選んだ。だからあの執事が義父上の邪魔をする。 こうやってのさばるんです」
「…そうだね」
「義父上ならばそんなこと、とうにご存じだったでしょう?」

黙って頷く。 それを横目でちらりと見た直冬は、明らさまに苛立ってこちらに向き直った。

「ならば何故っ!!」

見返す眸は焦げるように熱い。噴き出した激情は唐突なようでいて、既に知り得たものでもある。 挑発、したわけではない。だがそのなつかしさしか満たせない、言い知れぬ渇感の存在を自分は知っていた のではないか。

自分を捉える白熱にも似た輝き。 目を細めさせる眩しさ。

「…わからない。間違ったつもりなどないのに。それでも追い詰められていく。私も、…わかってる」
「なのにそれに耐えるのですか?」
「…耐えているんじゃない」
「それは、何のためですか」
「…え?」

がくりと声の色が下がって思わず振り仰いだ顔に、綺麗な繊翳が落ちる。だがそこには一切の温度が消えていて、感傷に似た淡い感情をすら打ち消した。 痛々しさすら漂うそれが、突き刺さる。

「答えられますか、義父上」
「…、そ…れ、は」

まともな声にすらならぬまま押し黙る。俯くまいとしてぐいと歯を食い縛った。

「私の前で言ってください。…今、ここで。」
「…」

苦しさでじっと見返しても、直冬は何も言わない。 責めるような口調とは裏腹に、その目は先をねだっていない。

何のためか。 直冬は気付いている。いや、直冬ならとうに気付いていたに違いない。『このこと』は昔から自然と避けてきたものだったし、直冬だってそうしてきた。

そうしてきた、はずなのに
何故今、踏み込もうとする

「…‥」

物音一つすらしない静寂

力なく伸びた己の指先さえ突き放すように冷たい。心臓がどくりど気味悪く跳ね、胸のなかで重みを増した。

「…何故全て負おうとするのです?!苦しいのなら苦しいと言えばいい!」

降りた長い沈黙に焦れたのか、直冬がとうとう声を荒らげた。

「…そんなことはしていない」
「っ!…何故おわかりにならないのですか!!」
「…何を」
「これ以上、自分を傷つけるのはやめてください。…そうじゃなくて、…もっと私に、頼ってください」

目の前で零れだす雫。 その火照った眼は除々に鈍い光を増して、じわりと透明な涙を滲ませる。目蓋に溢れたそれは、 とうとう雫となって落ちた。

ぽたり

己の手の甲に落ちたしずく
つたり落ちたそれが今度は私を叩く。

「…」

落とされる涙
覚えのある感触

右手の光をじっと見つめる。
自分のものではないそれ

いつも胸が潰れそうになった。

追わなくても
逸らされていないことを知る術 とらわれていることを知る術

直冬は持っている。
私に必要なもの
大切なもの

一番、守りたいものを。

「どうすればいいかは知っている」
「…義父上、」
「そしてそのためには私が捨てねばならぬものがある。直冬が負わねばならないものもある。…覚悟がいる」

濡れた頬を指でぬぐってやる。 ふと緩んだように閉じた目蓋。睫毛が淡い影を落とした。

「でも、もう決めた。」
「…」
「ほんの少しのものだけでも守ってみせる。…直冬がそう言ってくれただけで、私はもう大丈夫だ」

言いながらゆっくりと指を放すと、濡れた眼がその後を追う。 それがいつになく幼気だったから、少しだけ安心した。

「直冬が泣いたのを見たのは初めてかもしれない」

柔らかい声で呟くと、直冬は目を伏せたまま小さく笑った。

「…私は義父上のためにしか泣かない」
「…直冬、」
「本当、です」

綺麗に微笑んで立ち上がる。その際やかさが色のついた風のように、ふわりと尾を引いた。

「御覧ください義父上」

歩み寄った先の障子を、勢い良く開け放つ。 廊の外側に拡がる庭、 その先には兄上の屋敷の

まだ鮮やかな

「桜が狂ったように咲いておりましょう?」
「…ああ」

向けられた背中。とうに自分を追い越した背丈。 その表情が見えない。

「…幼い頃から何故気に入らないのかと思えば、…尊氏が好きな花でしたか」
「!何を、」

くすくすと笑う声。 吹き込む軽やかな風に乗って舞うそれをうっとうしげに見やって、直冬は悠然と振り返った。

「義父上はこの花が好きでしたか?」

こちらを見据える熱い眸が呼び起こす。

覚えている焦燥
灼かれるこの感覚への渇望

「嫌い…じゃなかった」
「…そうですか。ならば今でも好きですか?」
「今…?」
「…綺麗だ、という人がもう…貴方の隣にいなくても?」
「それは、」

急にざわりと掻き乱される。 弾けるような笑い声。躊躇いなく腕に飛び込む義詮の笑顔。後継ぎとなる未来の将軍。 己は守られるべきだと、守られていると、それを知り尽くして。
この手で作り上げた、秩序を乱す師直。つくるために、揺るがないものにするために私は多くを失ったのに。 彼はまだ消そうとするだろう。主のためだと。 主の、ためだと。

ならば兄上は、
望んでいるだろうか

壊す
壊す?

ならば私はもう

「それはっ!」
「覚悟がいるとおっしゃいましたね。将軍、いや、実の父を憎む。そんな覚悟など私は、 とうにできているのですよ?」
「直冬!…ちがう」
「何が違うというのですか」
「…、」

小さく震える体

怒り、恐怖?
違う
今私は直冬に何を感じている?

「兄上は」

何を伝えたい
何を示したい
何を―…

「、兄上は」

焦がすその温度のままで、直冬は慰めるように優しく微笑んだ。

「いえ、いいのです。ごめんなさい、義父上。 尊氏は義父上の大切な『兄上』でしたね。憎んでいるのは私です。貴方じゃないのに。」
「、直冬…やめ…なさい」

苦しげに漏れる自分の声

彩る艶やかさが、それでも目蓋に焼き付いたまま離れない。 どうして同じ、同じ色を見せる。

兄上を憎む直冬が
兄上と同じ色をみせる。
私が見たい色を見せる。

「それは…ちがう」
「義父上」

さらりと近づいた衣の音。 足元にうつる影は流れるように、私を飲み込んで動きを止めた。

「代わりでもいい」

ゆっくりと屈んで、囁かれる甘い毒。 縛られたように動けない。右耳のその感覚だけが、ぴたりと体に張りついた。

「だから私の手を掴んで下さい。そうすれば全て、散らしてみせましょう」

酔わすような微笑み
そのなかに映るもの

「あの花はもう、散るべきだ」

縫い付けられて動けない。 理由など、とうに知っていて

「…直冬、」

直冬が兄上の子だと知っていて

それでもこの熱が離れないことを
私へのおもいが消えないことを願っている。

答えはここにある
とうの昔から狂っている

だから私は、それでも守ろうとするのだろう

全てを、知っていて。


「今日はゆっくりとお休みください。自分に任せてよく養生なされますように、と重能殿がおっしゃって おりましたよ」

すっと体を引き立ち上がる。見慣れたはずのその所作が、いつもと違う影を落とす。

「後で、義父上のお好きな葛湯でもお持ち致しますね。…では」

室を出ていくその背が、うっすらと揺らいだ。


「許して…ください」

涙で濡れた手の甲を、そっと頬にあてる。 触れたその冷たさすら、あの眸の熱さを思い出させた。

どうか
この温度が
さめてしまうその前に

触れられるものは零れていって、映る色すら減っていく


せねばならぬこと
そうそれはたとえば

…直冬が大きな力を持つこと。あの人達が最も疎み恐れていること。 直冬と私は、『仇』だから。

頼れと言った直冬。あの賢い子はそれを知っている。 それが兄上への裏切りになることも。 私が、直冬に兄上を見ていることも。 …そんな自分を私が、見ないふりをしているということも

…でも、

ああでも、

もしも私が間違っているのなら―…

止めてくれるはずだ。
掴んでくれるはずだ。

そっちに行くな、と


捕まえていてほしい
とらわれていたいのに

さめていく
消えていく
だからあの子に縋るのか

…直冬が兄上の子だと知っていて


遠く花びらが舞う。

ながく咲いた桜。今この時まで鮮やかな花をつけるのは、確かに狂っているに違いない。

散るべきだ、そして散らす。
そう言った直冬には、まだ知らないことがある

狂ったものほど急いておちる。
この桜はほどなく消える。 濡れた花びらは重いから、もう幾日も残らない。 …春はもうすぐ終わろうとしている。


狂ったものほど急いておちる。
あの男もやがてはおちる。落とすとも言うのだろうか。 …決めるのはきっと私だ。

狂ったものほど急いておちる。
ならば私は何かを失う。 直冬はほどなく京を離れる。 …それを決めるのも私、きっと時間はかからない。

狂ったものほど急いておちる。
狂っているのは自分 だがもうきっと戻らない。私は前だけしか見ない。 …振り返っても、そこに私の欲しいものはないから

何故急ぐのかも知っている。
そのほうが、しあわせだから …人はみんな、しあわせを望む



時は四月
春の終わり

もうすぐ、春が終わる。