しろく、しろくかがやいたそれが
きれい、だったから



不自然に引きつれる感覚にふと足元を見やれば、白く筋の入った左足の小指の爪からは莫 迦莫迦しいほど鮮烈な赤が滲み出していた。じりと足を引き摺るようにすれば、砂に抉る そこはただ純粋な熱を帯びる。埃に塗れた其処は濁った紅の色に少しばかり似て、白拍子 の浅薄な化粧と同じ種の媚態を彷彿とさせる。そんな惨めたらしい艶やかさに、心底愛想 が尽きて無遠慮に足をもう一度砂中に突き込んだ。

「…、」

案の定、歪つな形で引き裂けた爪は半端に元のかたちを保ったまま、ぶらりとその端から 垂れ落ちた。また新たに滲むそこは最早只管に薄汚れて、乞食の貧相さ以上の物を持ち得 ぬ。 塗りつぶす感覚に何処か遠く、口元に笑みが浮かぶ。そして見上げた視界に広がる淀みの 余りな虚勢に、突き動かす衝動に身を委ねて振りあげた拳を、思い切り傍らの白壁へと叩 きつけた。


『  』


確かに言葉として声にのせられた、激発。酷く自然に、そして寧ろ限りない慈愛すら込め (そう、其れは紛うことなき「彼」の本質)、吐き捨てられた隔絶。 そして言葉を紡ぐ間もなく閉ざされたその境界。あの、あの弟が突き出す様にして他なら ぬ此の身を追い出し、開かぬ扉を閉ざしたと?

断ち切る其れは余りに鮮やかに、そしてどこまでも熱を持たぬ仕草は紛うことなき軽視の 演技。

『話したくない』

叩きつけた其処から伝わる鈍い痛みに反射的に小さく息を吸う。声にして、名を紡ごうと して其のまま吐けない息に咽を塞いだ。其れこそ数え切れぬ程幾度も、口に乗せた名だ。 掲げる様なあざとい他への排除から、秘める類の己への戒めまでに、なんどもなんども。

…呼ぶ事自体に意味を持たせる様な真似をしたのは、それが線引きの一種だったのだろう か。それが他と彼、の境界なのか、己と他との差違なのか―…或いは己と彼との、其れ が。

こみ上げてくるものに、身を折って路の隅にしゃがみこむ。あらわすべき感情の採択をし かねるその煩わしさに、猛烈な虚脱感を噛み締めた。

怒ればいい
嘆けばいい
そうでなければ無力に泣くがいい

しかしそのどれもが
何故か今何よりも遠い感情のようで



人通りの無いこの路はそれでも角を曲がれば市へ繋がる筈の、開けた場所だった。

ただひとつ
曲がり間違えたその角を最早自分は戻ることは出来ぬ

いままで掲げてきたもの
排除し、隔離してきたのは

(彼なのか)
(それともそれはもしかして)
(自分では、?)


「……直義」

投げ出された感情は、未だにその形を定める事がない。それでも漸くかたちになったその 名は、確かに舌の上で甘く溶けた。







―…ゆるりと伏せていた顔を上げれば生々し乾いた咽が鳴った。いつの間にか滴る汗に乱 れた髪が頬に張り付いて、砂埃で煙る路で其れは瞬く間に重たく垂れる。随分と長いこ と、うずくまっていた気がするのに見上げた曇天は時の移ろいを感じさせぬ平たさで相も 変わらず其処にあった。

「…、」

足先のほんの小さな傷が酷く気に障る。探るようにして足先が蠢く様を何処か他人の其れ の様に見つめていれば、平衡を失った体は容易く揺らいで、そのまま無様に地へ倒れた。

自分は、混乱しているのだろうか。それとも此の苦さは矢張り哀しみの様な感傷なのか。

尚も執拗に答えを求めるようにして、その行為は続けられる。埃にまみれた阿呆らしい姿 のまま、重たく垂れる空を愛おしむ要領で見つめていた。

嗚呼、其れが怒りでもなく、悲しみでもないのなら自分は最早答えを知っているのだ。考 え続けられるその仮初めの平穏に浸る、愚かしい逃避。

それ故に浮かぶのは慰みに似た哀れな自己欺瞞。全てへの侮辱のような、瞳を閉じるその 行為を制止するだけの力を最早見いだすことは出来ぬ。

目蓋に映る光景

見上げた視線
知らない口調
瞳に宿る確かな

(ああでも)

(「兄上」)

その逃避其れ自身が
逃げることを、許さない


こたえ、を

…ああそうだ、白く輝いた其れがただひたすらに綺麗だったから。



(…―だって私は直義が、)


「……」

降るように浮かび上がってきた記憶に、しばし意識を手放す。とっくに忘れていた筈の、 実際今までただの一度だって思い出したことも無かった些細な出来事。

何故今思い出す
何故今になって自分は其の感情を描く

何故

そして答えを
知って

「……は、」

(だってきれいだから)



足を伸ばしてゆっくりと地を踏みしめる。背を伸ばせば、いともたやすく明瞭な視界を取 り戻した。袖の中の幾ばくかの重みを手のひらで探ってから、迷い無く市へと足を踏み出 した。

迷い無く? この馬鹿げた行為に最早理由など必要としない。思い出したのか知っていたのか、それす らもう分かりもしないのだけれど。

甘く溶けた名をもう一度音にせずに口に乗せる。稚い真情は確かにそれを彷彿とさせて、 あとに残るのは無い筈の理由を求めたがる只の童子の我が儘めいた感情。

名を呼ぶ
そして分かりきった問いの答えを、其れでも矢張り委ねようと考えたのは


それがきっと、最後の賭だったのだ。






「……」
「入るぞ」
「何」

詰問の形で、ぽつりと押し出すようにして散らばった拒否。構わずに閉じたままの障子を 押し開き、その中へ足を差し入れた。 調えられた室で此方を向きもしない体躯は、だらりと畳にうち伏せ衣の裾を広げていた。 二刻ほど前に締め出されたばかりなのだから、ある意味当然の対応なのだろうがそんな所 までが彼の情景と重なりあい、実際酷く愉快だった。 そろりと乾いた唇に舌を這わせて、半ば無理やりにわらう形を造る。…その、覚えのある 感覚。 郷愁が裏で冀う物を、今ではもう知っている。

「直義」
「……」

形作られる欺瞞。

「目を瞑れ」
「……は、」

訝しむ声色は初めていつものような率直さを帯びる。…―否、いつものよう、なのは寧ろ その逸らされた体躯の方であることをいい加減知ってもいたのだが。

背負う空は相変わらずの曇天で下らない感傷の一つをも、その蹂躙を許す隙を与えない。 湿った風がゆるりと足首に纏わりつくのが何故だか心地良く、態と障子をうち開いたまま に室の奥へと進んだ。

向けられた背の側にさっさと腰を下ろして、びくりと反応を返した肩に手をかける。掌に 伝わるその震えが、恐れではなく嫌悪にも似た傷みであることを知るのは容易く、今度こ そ自然と口元に笑みを刻んでやることが出来た。そのまま掛けた手にぐ、と力をいれてや れば仰向けになった体に少々青褪めた顔が此方を向く。

「…っ…」
「瞑れ」
「―…ゃ、」

拙い返事を聞く前にもう一方の手でその視界を塞ぐ。反射的に震えた瞼の閉ざされる感触 が、ざらりと閉じた掌をなで上げて腕の裏を冷たいものが伝った。

力無く四肢を投げ出した直義は、しかし強張るその所作を隠そうとはしない。 抗うつもりがないのでなく、その必要性を認めないのだろう。思い上がりとは違う無意識 の線引き、入り込む隙を示す故の直義の拒絶の仕方だ。そういうところだけは酷く幼く、 そして愛おしい類の癖だと思うのだが。

「…いや…?」

力を籠めぬその曖昧さのままにてのひらでそっと閉じられた瞼をなぶる。背筋をかける感 覚にきん、と突き抜けるような痛みを覚えた。

ああそうだとも
酷く弱くて
美しく

そしてそれ故に 残酷なお前を

俺はただ一人芝居の間抜けさで


「…、直義」

返事を、聞く気がなかったのも確かだ。そしてどこまでも重なるあの情景。

…きっと、見せたくなかったのではない
見たく、なかったのだ

だから目を、
瞑れと

そのどこまでも閉ざされた、領域を敢えて際立たせるような真似を

それでも今、感じるのは何処か戦慄に似た傷み。



答えを知っている


怒りでもなく悲しみでもないのなら其れは確かな



「嫌なら殺せ」



これは悦びだ


「っえ…?」

そっと覆い被さる様にその体躯を緩やかに縫い止める。目元を隠したままの手それだけを 酷く優しく留めて、見下ろす角度でただ凝っと合うことのない視線を絡めた。

半開きになった口元に無遠慮に指先を突き出す。人差し指で青味がかった唇をなぞるよう に割れば、今度こそあからさまに直義はひとつ身を震わせた。

「な、」

震えた瞼が変わらずに痛みを伝えるのを遠く感じながら、酷く機械的に力なく開かれた口 元を辿る。指先がただなぞるその動きはどこまでも色の無い、哀れなものにこの目に映り そしてそれ故に果てしないものであるのだ

そこにあげかけられた抗議の声
開かれた唇

返事を、聞く気はなかった

「……っ!?!」

人差し指と親指をぐいと口腔へ突き込む。温い体温を感じた瞬間、がつりという乾いた音 がしてそれは裂ける熱にとって変わった。

「…く、」

思い切り噛み締められた指先は脈打つそのままに熱を流し出す。少しばかり眉を顰めて指 先を震わせれば、安い水音が響いて寧ろ怯えた様にその力は強まる。

「……ただ、よし」

わらうのはすきだ
わらわせるのはきらいだ

傷つけてわらわせるのはきらいだと
そう信じていたから



嗚呼なんて愚か



「甘い、だろう?」

耳元へ落とした声は限りない優しさを籠めて。

「…?!?!っあ!な!!」

雷に打たれたか如くに跳ね起きた体は、その勢いのまま自分を弾き飛ばす。側の柱に打ち つけた背は鈍い痛みを伝えたが、 ただそれだけだった。

「っ!げほ…!あ…!」

盛大に咳込む声に壁際に倒れこんだ体を起こして直義の方に向き直れば、直義は真っ青な 顔で口元を抑えて座り込んでいた。がくがくと目に見えて震えた体躯は、むしろ惨めで哀 れで酷くむごたらしい。

今更信じられないといった澄んだ色で見上げてきた視線に、心の底から愛おしむ笑みが沸 き起こる。

「あぁ…甘くないのか?そうだな…ひとつじゃ足りないか」

持ち上げた手をゆっくりと視線の先へと晒す。 噛み締められた痕の鮮やかに刻まれた濡れた其処に、溶け切れぬ白の残滓が微かに乗って いる。そっと己の口元へと運び、鉄錆の香りがする指先をこれ見よがしに舐めてやれば確 かな甘さが舌の上を転がった。

「甘い」

小袋を手にとり、もう一度人差し指と親指でその中身を摘みあげる。濡れた指に力を籠め て擦れば、それはかしゃりと頼りない音をたてて指の上で崩れた。

「ぁ…あ…」
「もうひとつ食べさせてやろうか」



袋の中の氷砂糖が、どこまでも白く灯りを弾いていた。