兄上が私の部屋を訪れた日から数日が経つ。
そして先程、使いだという者がこの寺を訪れた。
薬を携えて。
体が優れないご様子なので、ぜひお試しくださる様にと。
今日は師直の命日であるから、罰を与えられるのにはさぞ相応しかろう。
―――・・・願わくはこの最期を差し出したのが、あの人であることを祈るばかりだ。
近頃、この鎌倉の地には雪が降り注いでいる。
積もっていく結晶は、地や木々を覆い隠してもなお止まない。ここはこんなに雪の降る地だったか。
静かに障子を閉めた。
積もりすぎた雪は好きではない。
暖かい日の光を、閉ざしてしまうから。
雪に似た白い粉末
私の命を奪うための。
私は今日死のうと思う。
やっと、死のうと思う。
たくさんのものを遺すつもりだった。たくさんのもので心を埋めて消えるつもりだった。
だが今となって心にかかるのは、遠い九州の地にいる直冬のことだけだ。
守るべき、そして誇るべき
・・・・
直冬は私の希望だ。
私ではできなかったことも、彼なら成し得ることができるだろう。
幸せを、手に入れることができるだろう。
あの子が実の父を怨み、憎み、
傷つき傷つけたその手で掴みとるものは必ず
兄上が直冬に何を見ていたのかわからない。
直冬が兄上に何を見ていたのかわからない。
だから何故どうして、直冬が血濡れた道を行かねばならないのか。
血濡れたあの子の道を、
どうか誰も責めないで
そうさせた全てを憎まないで
あの子はこれ以上、苦しんではいけない
憎むなら、何も示せなかった私を憎めばいい。
こんな形でしか伝えられなかったけれど、私は直冬がいとおしいのだ。
父として死ねることすら、愛しいのだ。
気に入りの杯と酒を出す。
手元にある物はほんのわずかだった。抽出しを閉じようとして、ふと手が止まる。
…見覚えのある袋
幼い頃兄上がくれた笛
昔はよく吹いたものだった。
袋から取り出して構えてみる。吹く気にはさらさらなれなかったが、その重みを感じたかった。
昔と何も変わらないものがまだ残っていた。
たとえそれがほんの思い出のかけらでも、暖かくて嬉しくなる。
あの人は私になんでもくれた
笛、甘い砂糖、天下、・・・・そして直冬も。
傍にあるのは貴方がくれたものばかり
だから今この最期の時でさえ、喜んで賜ろう
丁寧に袋にしまって、そっと抽出しを閉めると、座して杯に酒を注いだ。
透明なその中に、白い粉をさっと溶かす。
傷が妙に生々しく残っている指で杯を取り、飲み干した。
口元を押さえた袖が真っ赤に染まった。咳が止まらない。
肺に穴が開いた様で、上手く息が通らなくなった。臓が乾き、喉が爛れていく。
がくがくと頭が上下する度に、畳に血の雫が落ちる。
痛みにのたうつ身体を沈めたくて崩れ落ちれば、指の先から動かなくなっていった。
ずっと日溜まりの中にいたかった。そのためには自分が冷たくなってもよかった。影になってもよかった。
でも私以外の誰かが冷たくなっていくのは嫌だったから、冷たいこの手でたくさんのものを消した。
欲しがらなかったのは与えられていたから
友、臣、子、居場所も、全て
奪い取る必要なんてなかった。私は全て持っていた。
欲しがらなくても、
与えられるものしかいらないだなんて
そんな私の我儘のために、壊されるものがあることを
傷つく人がいることを
失うまで気付けなかったのは何故だろう
ごめんなさい
ごめんなさい、
だから私は恐かった。
見えなくなるのが恐かった。
誰かに奪われるのが恐かった。離れていくのを見るのが恐かった。
そしてたくさんの人を、困らせてしまった
冷たくなった私はもう、消えなければ還れない。
私は冬に消えるから
今度は春に会えるといい
華やかな季節だから不思議と気後れしてしまうけれど、だからこそ最後の我儘を叶えてくれる気がする。
兄上、兄上
最後に聞いてください
私にとって貴方は春だった
暖かくて鮮やかな私の願いだった
だから雪は積もり溶けて消える
新しいその季節を想いながら
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