畳の横に打ち棄てられている錏頭巾
髪は剃らなかった。だがもう二度と、兜も烏帽子を被るつもりはない。

私はもう決めている。 纏う墨染の衣はまやかしで、捨ててきたものだけが真実なのだ。

筆を動かす手に疲れて、乱暴に体を横に倒す。 ふわりと井草の香が薫り、すりつけた頬からはざらりとした編目の感触がした。

投げ出された己の手の生白さには、妙な愛着がある。 だが青く浮き出る筋の中に流れるのは本当に、紅い血なのだろうかとふと気になるが、 裂いて確かめるのはおもしろくない。

のんびりとした欠伸が出る。 このまま寝転んでいたら眠ってしまうかもしれない。 ここに訪れるものは朝と夜だけだから、それだけはちゃんと見送ろうと決めた。

だからまた、小箱に手を延ばす。 氷砂糖をひとつだけつまんで口に入れる。 じわりと溶ける甘さを舌の上で転がす。歯を立てればかり、と小さい音をたてて崩れた。

寝転がったまま食べるそれ この小さな砂糖菓子だけが知っている。 だからくすくすと笑う。

この小さな白が好きだ。
大事に大事に食べられる。

初めて買ってきてくれたのは兄上だった。

あの時もこうやって、誰もいない部屋で寝転んでいた。


叔父と市に出掛けた兄上。 行きそびれた私は、閉めきった部屋の中で眠ろうと思ったのだ。 その時から知っている己の白い手首。

闇に紛れないのは何故だろう。そこに深い意味などないのだろうけど。

―…拗ねていたのだ。
本当は寂しかったから。 ならばついていけばいい。でも、できはしない。 それでは意味がないことを、私は幼い頃から知っていた。

いくつの時が過ぎただろう。 眠っていたのか起きていたのかは憶えていない。 待っていたのは確かだけど、今思えば待っていなかったのも確かだった。 でもそう思う自分は自分じゃないと思ったから、仕舞いこんだだけのこと。 それぐらいの知恵は、持っていたのかもしれない。

跳ねるように廊を駆けてくる足音。そちらに背を向けたのは何故だろう。 がらりと勢い良く開いた障子

、せっかく閉めたのに…

「直義っ、帰ったぞ」
「…」
「…寝て、るのか?」

はずませた息のまま近づいてくる。熱いくらいの空気が、仄かに首の後ろを掠めた。 体をそちらに向き直してゆっくりと視線を合わせれば、兄上は何故か怯えたような顔をした。

「直義、…」
「おかえりなさい兄上、」
「…体でも悪いのか?」
「いえ、平気です」

起きあがろうともせずに答える。頭と体の芯が冷えているだけだったが、それを言うのは妙だろう。 傷ついた表情のまま私を覗き込む兄上は、いつになく弱いもののように見えた。

「兄上、市はどうでしたか?」

小さく微笑みながら問う。 やっと表情を崩し、その場に座り込んで見てきたことを楽しそうに話しはじめた。いきいきとした兄上の眼は 薄暗くなった部屋の中でちかちかと光っていて、頷いて聞きながらもそちらに意識が逸れた。

「…そうだ直義、いいものをやる」
「…いいもの?」
「目を瞑って、口を開けろ」
「…?」

小さく開いた口のなかに器用に投げ込まれたそれを、恐々と舌で触る。 少しごつごつとした初めての感触を確かめていると、じわりと甘みが拡がった。

「…あ」
「甘いか?」

こくりと頷く。

「もう目を開けていいぞ」

目蓋を上げれば本当に嬉しそうに笑う兄上がいて、つられるように口元が緩んだ。

「…美味しいです」
「全部おまえにやる」
「え?」

ぐいと体を起こされ、無理矢理握りこまされ渡される。鮮やかな色の小さな袋の中身は、 積もった雪のように白い氷砂糖だった。

「兄上が、」
「俺はいらない。お前にやろうと思って買ってきたんだ」
「…でも」
「だからもうあんな顔をするな」
「え?」

「あんな…顔をするな」

怒ったような口調と反対に、眸は泣きだしそうに潤んでいた。 ああこれはさっきと違う光だと遠く思いながらも、反射のようにただ頷いた。

そしてそれから私は、これが手放せなくなった。

だからまた手を延ばす。
取れば減ってしまうのに。


「何でそんなちまちまとしたもんが好きなんですか?」

言いながら怪訝そうに、小さい箱に入ったそれを覗き込む。

重能はいつも隣で、職のちょっとした合間に私がこれを食べるのを、 不思議そうにそして落ち着かな気に見ていた。

「それがいいんです。重能殿は嫌いなのですか」
「いや、どうせならもっと、がばっと食った方が旨いと思いまして」
「がばっ、と?」
「そう、がばっと。」
真剣な眼差しで頷く。 妙なところに熱を入れるのが可笑しい。

「それでは甘すぎてしまいますよ。それにこうやって少しずつ食べるのが好きなんです。 なかなか、無くならないから」

笑いを堪えながら答えると、重能は不意に呆れたような顔をした。

「無くなる前にまた買えばいいじゃないですか」
「…そうですけど、」
「直義様がわざわざ行かなくても、俺が買ってきますから」
「…わかりました。無くなりそうになったら重能殿に言いますね」
「それじゃ意味がな…、いや、はい言ってくださいよ」

不貞腐れたようなのがおかしくて、そう言ってくれたのが嬉しくて、私はまた笑った。

結局あの日から重能は、見るたびにこの小箱を開けて残りの量を気にしていた。 だから無くなることはなかった。少なくなってくると次の日には、また決まって買い足されていた。

無くならない。
有るだけじゃなくて無くならないのが嬉しいのだ。

無くなってはいけない
無くさせまいとしてくれた人がいた

無くしたくなかったのに、
それを無くさせないでいてくれたのに

奪った、殺した
もう戻らない

嗚呼せっかく知らぬふりをしてきたのに、お前のせいで引き摺りださざるを得ない。

『私』を引き摺りださざるを得ない

残念だ。だがそれを望んでいる。気付きたくなかった筈のそれが今の私を支えている。 思えば昔から知っていたのに、選ばなかっただけのこと。 あの時の自分が嫌いだと思った。嫌いだと思っていた。 ただ素直になれないだけだと言い訳をして。本当にそうならこんなに心は凍らないというのに。

まだ貴方達を悼まない。 私はまだ無くしていない。 亡くしたとしても無くさないでいられることを、死人のようなこの手で示してみたいと思う。

兄上の執事、一番の臣、理解者?まあ何でもいい。

師直、義詮、そして―…
私を疎む者たちに罪はないとしても、むしろそれが何だというのか

信じていたものに意味がないと知ったのなら、私は黒い死神になる。

追われた居場所、
失った臣、
追い詰められていく息子
そして離される前に離した掌

私が持っているのはこれだけ?

いや、違う

溶けてしまうから蓋を閉じて、大事にしまっておこう。明日のぶんは、きっとまだ残っている。 暗くなる前に書き終えねばならぬ。やがて送られる追討の檄文を。南朝に送る和平の願い文を。

…友が、臣が、立つだろう。哀れで惨い私のために。

力を貸して下さい。

そこに己の打算があっても構わない。 知りたいことが、示したいことが、そして確かめたいことがある。 ただそれだけのために、私は私を殺す覚悟はできているから。



涙なんて流れない。 そんなものに価値はない。
この冷たさに痛む人が、もうどこにもいなければ