震える睫毛の上に、小さな涙の粒が乗っている。人差し指で前髪を除け、耳に掛
けてやる。
すると、引き結んでいた唇が空気を求めるように僅かに緩んで、瞳は
ほんの一瞬だけ男を見上げた。
潤んだそれがまたゆっくりと伏せられていくのは、まるで花びらが落ちるように
綺麗だ、と思った。
紅潮した頬が桃の皮のような色をしていた。掌を這わせると
、全てこの手に包んでしまえる気がした。 耳の下、髪の奥に指を潜らせてうなじ
に触れる。酷く滑らかで優しく、力を入れて押さえると己の熱が移った。
左手で後頭を引き寄せ、胸に抱きこんだ。触れる女の肌が優しいので、男もなる
べく優しく抱いていた。 元々華奢だったのに、彼女は少し痩せた。 父を置いて鎌
倉へ去ることに、痛みを覚えているからだ。
身体を離して、俯いている彼女の顎を指で上げた。すると彼女の視線はさ迷い、
また新たな透明の筋がその頬を伝った。 顎まで滑り落ちるのを待ってから、舌で
舐め取る。 筋を上へ上へと昇って行くと、濡れた睫毛に舌先が触れた。 彼女の唇
から音もなく漏れた小さな吐息が喉を掠めて、恍惚とする。
もう一度小さな頭 を
抱きこみ、大きく息を吐いた。
「泣いてばかりいないで、俺に、ちゃんと、全部言ってくれなくちゃ」
よく梳かされた長い髪が、柔らかく指に絡んだ。そのまま頭の線に手を這わせな
がらおろし、両肩を押さえる。 屈んで覗き込み、眼を合わせた。
「お父様と離れたくないのです」
「とは言っても、…さ、姫さま。その直義様の御命令だ」
彼女がこれ以上、我を通すことは無かった。だからこそその涙は止まらず、つい
には嗚咽が漏れ出した。
男はそんな妻の奥ゆかしさと臆病さをひどく愛しいと思い、庇護欲と飢えた自己
顕示欲を募らせた。 構って欲しくて仕方がないので、どうにか女をここから動か
そうと考えた。
「じゃあ行こうか。」
歳若いこの夫婦が手を繋いで歩くのは、よく見られる光景だった。 男は女の指全
てを握ろうとし、女はそこからそっと己の親指を逃がして男の親指の上に重ねる
。 男は精悍な顔立ちを照れ笑いに沈め、それでいて強い強い瞳で女を射抜くのだ
った。まだ、少年と少女のような二人で、あどけなかった。
女は繋ぐ手に引きづられながら、袖で涙を拭う。足元がおぼつかず、漆の下駄が
カラカラと砂利の上で音を鳴らした。
「このままでは、お父様が、ひとりぼっちに、なって、しまいます」
「…姫さま。直義様には、俺の父上が付いてるだろ?」
男は、父に、絶対の信頼と尊敬を抱いていた。 だから実際、彼はこれからの道の
りに何の不安も感じてはいない。 にい、と笑った彼の手に引かれ、館の門を潜る
。鼻緒が指の又をしめつけ、その痛みだけを明瞭に意識に刻み込みながら、あや
めは口を閉じた。
門の先で立ち止まった男は振り向き、うやうやしく砂利の上に膝を付いた。 まる
で臣下の礼のように一度頭を下げ、ぎらついた瞳であやめを見上げるのだった。
「大丈夫。俺が全部、やってあげる」
すっと差し出された手を、あやめは凝視する。大きくて、強い手。 父だとか、義
兄だとか。あやめが知る男の手とは異なって、屠る獣の牙のような、鋭さを持っ
ている。そして直向に、己だけを待っている。
躊躇いながら差し出された女の白い手に、口付ける。そのまま女の背の後と膝の
下に両腕をもぐりこませ、抱え上げた。 あやめはうち驚いて、男の肩にしがみつ
く。
「大事で大事で堪らない。こういうの、どうしたらいいんだろうな」
男は詠うように述べて、女を横向きに馬の背に乗せた。 そして身軽い様で馬の腰
より少し前あたりに飛び乗ると、女を抱きながら手綱を握った。
「少しのあいだ、我慢して?」
こくんと頷いたあやめは、男の胸に顔をうずめた。
振り落とされないように、ただ、振り落とされないように。大好きな父と義兄の
顔が浮かんだが、それはもう、彼女の手には届かないところにある。
―…どうして。伯父さまは、あんなに、お父さまを、愛していた、のに。
男に守られ、捉われて、女の身体はどこかに逃げ延びる。それは只管に長く、遠
い道のりのように思えた。
あやめ=直義の娘(実在しません)・能憲=憲顕の息子で、重能の養子となった人物。高一族を惨殺したのは彼です。本当に申し訳ないが、勝手にくっつけてみた。
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