「おそらくは幕府の密偵でしょうな」
「それはそれは。あちらも相当なものですね」

不審な男が捉えられた。 だが完璧に近い割合で、以前から潜り込んでいた密偵であろうことは疑いない。 こちらが動きだした今、そのような者達もまた動きが活発になるのは道理だ。

「生かしておけば、京に戦支度が知れましょう」

頼尚がほのめかすものは明らかだ。そしてそれがおそらくこの場での最善の手となろう。

頼尚は翁とよぶに相応しい歳だ。だが目元に深く刻みこまれた皺も、浮き出た喉仏も、衰えというよりは 重々しい貫禄を感じさせる。多くの経験に裏打ちされた分別は信を置くに相応しく、余裕とはまた異なる 寛大さがあった。

「…そのものの処置、私に任せていただきたい」
「直冬様、」
「よろしいですか?」

じっと強く見つめ返せば、頼尚は仕方がないというふうに首を振る。私が度々助言を聞き入れないことを 知っている。しかし自分のこうした我儘を、この男が咎めることは今だになかった。 ただ一度必ず、確かめるような深い眼差しで正面から私を見据えてから、いつもゆっくりと頷くだけだ。

「…でしたらば、門内に召し連れましょう」
「ええ。すぐに行きます」


「手を出すなよ。返り事を頼むから」

取り押さえていた従者たちが、少し躊躇いながら離れる。さすがに逃げる気はないようで、 男は体を動かさずぎりと歯を食い縛りながらこちらを上目に睨み付けた。

「隠密とは不粋だな。幕府の差し金だろう」
「…、」

義父上の力が削がれた今、幕府ということばが指し示すのは一人しかいない。 いや、直接手を回したかはわからないにしろその後ろには必ずあいつがいる。

「……」
「言えぬか。ならば肯と取ろう」

腰の刀を抜き放つ。 引き下げるようにして、片手で襟元を緩めた。 晒した己の首の横を、刃の腹で軽く叩く。

この冷たく固い感触が肌を突き破ることを浮かべるは容易い。そしてその痛みすら、思案するに及ばない。 うっすらと見えたそのさまは、泡沫のようにすぐ消えた。

「この直冬の首、欲しくば貴様が取りに来い。…せっかくの息子の首だ。どうせ飛ばすなら 自らの手がよいだろう」

言いながら覗き込んだそのまま、目の前の相手に刃先をつきつける。

「ひっ!…」
「これが、将軍への返事だ」

小さく震えながら男が後退る。がくりと腰を抜かした惨めな姿にちらりと嘲笑が浮かんだが、一瞬で興は覚めた。

「失せろ。もう用は済んだ」

ぱちりと鞘に刃を戻す。向けた背の後ろで、飛び出すように地を蹴り遠ざかる足音を聞いた。

「あまり煽られまするな」

周りが呆然としている中、ただ一人歩み寄った頼尚が静かに告げる。

「煽ったのではない。…乗ってやったまでです」
「…『あちら』をというだけではない。直義様を、です」
「…義父上を?」

頼尚が珍しく義父上の名をだしたことに否応なしに動揺する。 その心中を見透かしたまま、頼尚は重く言葉を継いだ。

「直義様とて、このままで済ますような方ではありますまい」
「…そうですか?」
「直冬様が思われているよりも、直義様は強い方です。」

「違うっ!!」

諭すように言い渡された言葉に舞い上がった感情が吹き出す。掬い上げるようにして睨み付けた。

「…」

頼尚がおもむろに腕を上げて人払いをする。荒らげた声に何人かが振り返ったのがわかったが、 それに構う余裕はなかった。 誰もいなくなったのを確かめて、頼尚はこちらに向き直る。

「義父上は脆い人だ」

痛々しくも無防備な背中。 ぴんと伸ばすのは小さいからだ。

冷たいくらい敢然とした態度。 受け入れないのは自分だけが背負うためだ。

「…なのに、誰も、…それに気付かないっ!」

あの時だってそうだ。 あの時だって、伸ばされる筈の手をただ待っていた。胸の中を暴れ回った感情。掴んだ手首には温度がなくて。それでも欲しがる弱さがあった。

誰かの、手を

「だからこんなにも憎まれるのですか?直義様のために?」

流すというよりは受けとめるように、頼尚が常と変わらぬ声で押し返す。

「そうです。でも、それだけじゃない…。わたしは、」

押さえ込もうと、冷静になろうとする程、押しつぶされて歪になるそれを切り離せない。

待っているのは誰の手かなど
そんなことは知っていた。

だから

「代わりでいいと言ったんだ」
「、‥代わり、ですか」
「尊氏の代わりでいいと言った。それでもいいと思った。気付いていた。義父上は尊氏の息子である私を、 大事に思っているんだから」

頼尚が痛ましげに首を降る。その仕草が余計に、胸を押しつぶした。

「そう言った筈なのに、私はこの血が憎い」
「…、」
「縋りながら憎んで、憎みながらも縋っている。そうしなければ、前に進めない」
「、直冬さ」
「頼尚殿」

何かを言い掛けた頼尚を遮る。畳み掛けるようにして言葉を継いだ。

「、私は、…私は本当に、尊氏に似ていますか?」
「…」
「昔会ったことがあるんでしょう?」
「ええ。お会いしましたよ」
「…絶対に嘘は吐かないで、答えてください」

ただ目の前の翁を見る。老いたとはいえいかにも武人らしい頼尚の風貌からは、何故か時々はかない程の 優しさが漂う。そしてその優しさが、心を乱して仕方がない時がある。

しばし黙り込んだ後、頼尚はゆっくりと口を開いた。

「よく、似ておられます」
「…そうでしょう?」

自嘲に近い笑いを浮かべながら俯く。答えを知っていたのに、諦めとも呼べる感情が過る。

「…ですが、直義様にもよく似ていらっしゃる」
「え?」

思わず顔をあげれば、頼尚は穏やかに目を細める。

「…どこ、が、?」

包み込むようなその笑顔が苦しくも優しい。戸惑って一度瞬きをすると、目蓋にうっすら濡れた触りを感じた。

「賢気な眼差しも、その強いお心も。…ご自分では気付いておられませんか?」

頭の中が真っ白になる。 なのにゆっくり溶けて染みていく感触が、自分でも戸惑うぐらいに暖かい。

「…強くない、と言ったのに。…聞いておられなかったのですか」

どうしていいかわからなくて、ぶっきらぼうに毒づく。 眸に少しからかいの色を浮かべながら、それでも慈しむように頼尚は笑みを深めた。

「聞いておりましたとも。ですが某は、…尊氏様だけではなく直義様にも、お会いしたことがありますゆえ…」
「…頼尚殿は、案外意地の悪い御方だ」

つられるように小さく微笑みながら踵を返す。 きっとこれ以上話せば甘えてしまう。この身に縛り付けた覚悟を緩めてしまいたくなるから。 決めたはずだ。 私は義父上のためにしか泣かない。自分のための涙などないのだから。

「そうですな。…でしたらばもっと、この狸爺めを頼られませ」
「…‥」

優しく投げ掛けられた声に振り返れない。 だがゆるやかに崩れ落ちていく何かが、今はほんの少しだけ心地よかった。

「…強い、…か」

一人呟いて立ち止まる。

確かに、あのときでさえ義父上は
『守る』と、そう言ったのではなかったか?

頬を拭ってくれた指がまだこの手を掴んでくれるから、 傷ついても濁らないあの眸が私を捉えてくれるから。 その全てがある限り、私もきっと強く在れる

そんなことすら私は、頼尚に言われるまで気付けなかったのだろうか。


乾いた夕の風が髪を揺らす。 欝陶しいはずのその感触に、今はただ吹かれるままに目をつぶった。

京よりは暖かく、

鎌倉よりは荒々しい秋の風。

いつのまに馴染んだこの九州の地には、少し遅れた秋がくる。