全ては収まったかのように見えた。いや、何一つ解決していないとはわかっていても、 それでも淀みなく時が流れていくような。 そう思えるほどに直義はしずやかだったからだ。

「…直義様」

だがそう、それは至極緩やかな変化だった。

「お早ようございます。直義様」

綺麗に返される会釈

「……」

以前と寸分も違わぬそれ

「…」

なのに、

「…‥」

今、直義は口をきかない

始めは些細な、でも確かな違和感だった。口数が減り、やがてこちらから話し掛けたことにしか答えなくなると、ついに何も喋らなくなった。

でもそれは自然と気付きにくいものだった。直義を訪ねるものは減り、人と喋る機会自体が少なくなったからだ。 たまに…、それでも尊氏や義詮と共に何かの打ち合せには顔を出していたが、もはや何事にも口を出そう しなかったしその必要性自体も着実に減っていった。

義詮を助けて政務を見る

その場に出向くことですら直義には想像を絶する程の苦痛だったろうし、名状しがたいものだっただろう。 それでも直義は体を引きずるようにして、あの時の取り決めを守ろうとしていた。 よくも抜けぬけと、などと陰口を叩く輩さえいた。

何故、やめないのか。 そう問いただしたくなるくらい、あれからの直義は虚ろになった。その静けさは却って痛々しかったし、 それでも逃げないのは当て付けかとすら思えるほどに頑なだった。 もしかしたら実際そうだったのかもしれぬ。直義は自分を痛め付けることで抗議していたのかもしれない。

だがそれも長くはもたない。出仕する間隔は徐々に開いた。 限界、だった。

いざ義詮に錦小路の屋敷を譲ったあとからは、とうとうぷっつりと途絶えた。 だがそれを止めるものも不思議に思うものもいなかった。

やりばのない苦しみ。 股肱の臣を殺され、直冬は萩を追われている。 全てと引き替えに許されたはずの居場所さえ、本当はもうなかった。 事実上、仲裁など無意味だ。 むしろそのような形となったことで、憎しみの矛先すら無くなったようなものだ。
尊氏は目先の、彼の存在だけを救った。彼が歩むべき道は閉ざされたままだというのに。

虚無を与え、言葉を奪った。 それでも自分は執務の補助という面目で、直義のもとに通い続けている。 例え地位を追われても、自分にとって直義は仕えるべきかけがえのない主だ。



言葉を話さぬ以外、自分に対する直義の態度は変わらなかった。表情は動かすし頷きもする。する。 たまに何かを書き付けていたがそれは執務に関することではなさそうだった。てなぐさめ、申し訳程度の どうでもよい文書の書き付けなどはまだ細々とやっていて、自分はそれを抱えて幕府と直義の室を往復した。 届けてはもらい、もらっては届ける。 だが次第に、仕事の後何もせず反動のようにぼうと外を眺めていることが増えたが。

「直義様、」

返事がなくても、自分は直義に語りかける。 痛々しくもあったがやがてそこに、ぼんやりとした安堵すら覚えはじめていた。 言葉がないぶん些細な仕草や表情の変化に気付くようになったし、却って表情が豊かになったかのようにすら思えた。もともと他人に感情の変化を見せない人だったから余計、一つ、一つが大事に、尊く思えた。 直義もそういう風に過ごそうとしていたのかもしれない。 彼が喋れないのか喋らないのかはわからなかったが、そのことは問題ではなかった。 自分はただこの人が穏やかに過ごすことだけを望んでやまなくなった。

願いというには必死で、同情というには悲しい。

直義には確かに全てを委ねたくなるような頼もしさもあったが、逆に全てを賭けてやりたくなるような、 それこそ庇護欲と呼ぶにふさわしいものを起こさせる弱さがある。 そしてそれが利害とは別のところで、人を引き付けるのとは違う意味で―… 一度捉えたものを離れがたくさせる。 そのことは自分の父義房からも身に染みてわかっている。いくら石塔一族が足利の遠い分家だといえど、 父は直義以外に仕えることを考えもしなかった。

だからそう、父のように
直義の復帰を望むものは、多くいる。

己の野心を鑑みた上でも、なおあまりあるほどの信頼と忠節を呼び起こす何か。
しかし今の彼が望むのがそのようなものでないことは明らかだったので、結局周りにいる者達は無力だった。

例えば上杉憲顕のような友、だとか。
既に無くした重能のような誠の臣だとか。
直冬のような親子の無垢な情だとか。

それぐらいしか直義を慰められるものはなかった。
唯一の、いや絶対であったはずの彼の兄尊氏がこのような結果をもたらした今。

幼き頃から仕えてきた自分にも届かない。

結局、直義は一人になろうとする。






だからこうして口実のように書簡の束を広げながら、そっと近づく。ひと時向けられる視線にさえ、知らず心を痛めながら。

「直義様、こちらがこの度あずか…、?」

すると直義は、しっ、と人差し指を唇の前に立てた。

「…?」

…ちりん

「あ…」

顔を見合わせればにこりと微笑み返す。

「風鈴、ですか」

こくりと頷いて視線を馳せる。

ちりん、ちりん

「…綺麗な音ですね」

細かく揺れるその様から庭に面した障子がほんの細く開けられていることを知る。 その傍を離れない直義の息は、気付いてみればうっすら白かった。

季節はずれのそれ。
とうに夏はすぎた。

だが直義は顕氏の屋敷に移ってからも室にそれを飾りつづける。

このすずやかな音が鳴り渡った夏には、まだ彼らは生きていた。

直義は今、こんな小さいものを見つめている。こんな小さいものだけを拾い集めて、生きているのだろうか。

風が止み、音が止まる。

「‥っ」

苦しい。やるせなかった。先手をうったのは直義だ。 そしてそれは勿論、敗者としては当然の結末なのかもしれない。 でもこの人が何の罪を犯しただろうか。 どうしてこんなふうにならねばならないのだろうか。

重能が、直宗が、そして彼の居場所が、

重能ならば今この時直義から言葉を引き出せたかもしれない。 直冬ならば今この時、慰めることができるのかもしれない。 なのに自分にできるのはこうやって痛むことだけなのだ。

直義が振り返った。困った顔をして首を傾げる。

「どうなされましたか」

気を取り直して声をかければそっと立ち上がり、こちらに歩み寄った。
ふわりと優しく頭が撫でられる。
彼が誰かを慰めたいときは決まってこうするのだ。自分のような歳ではもう、子をあやすための仕その草は相応しくないというのに。
直義はそのまま、流れる所作のままに室を出ていく。


開け放したままの障子、自分が追うべきなのかがわからない。
ただそう迷えば迷うだけあの人は遠くに行こうとするだろう。

「直義様、」

慌てて声をかければふと振り返る。 その表情がいつもより淋し気だと思ったから、自分も思い切って立ち上がった。

「お出かけになられますなら、自分もお連れください」

直義は何の反応も示さなかった。だが自分が室を出るのをじっと待っている。

「何か、羽織られたほうが」

隅にきちんと畳んで置いてあった羽織を手渡せば、少しつまらなそうな顔で袖を通した。



外に出れば、冬の冷気が容赦なく身を刺す。庭で薪を割っていた次郎が手を止めこちらに気付いた。
直義がちらりと視線を送ると、困ったような笑顔で一度礼をした。

行き先を聞いてよいのかで迷う。
だがその足取りがいつになくしっかりとしたものだったから、黙って歩をすすめる。

ふと前にいた直義が足の歩みを緩めた。


「何、・・・か?」

自然と並んだ横顔に問い掛けたが、直義は顔を前に向けたまま決まり悪気に目を伏せた。
それをみて唐突に理解する。
これがこの人の、精一杯の甘えなのだと。

「まだ昼だというのに、本当に寒うございますね」

自分は行く先を知らないのだから、並ぶといっても本当はついていくしかない。急がせぬように、だが決して 距離が離れぬようにと歩調を整えなければならない。 人と並んで歩くことに、こんなにも気を遣ったのは生まれて初めてだった。

細道を進む。迷い無い足取りから考えると、やはり直義は以前ここに来たことがあるらしい。
そして視界が開けた先には、浅い、小さな川があった。
近づいてその水面を覗き込む。
表面に張った薄い氷が光を跳ね返して白く光り、その流れを少し滞らせている。だがその奥に見える水は 恐いほどに澄み切っていて、張り詰めた冬独特の閑寂さがあった。

直義が顔を上げたのにつられて木々を見上げる。しなやかに伸びた枝が葉をつけていたならば、 さぞ鮮やかで清涼な光景だっただろう。

「ここは、直義様の秘密の場所ですか?」

しばし逡巡して、直義は首を縦に振る。僅かに曇らせた眉が何を示すのかはわからなかった。
きっとそこには自分は触れることができないだろう。


しばらく何ともなしに辺りを見やる。
躊躇いながらやがて視線を戻せば、直義は小さく屈み藪柑子の葉をむしっていた。
この常緑の小低木は冬には赤く熟した実をつける。
葉の暗い緑と鮮やかな紅い実、そして長い羽織の袖口からちらりと覗く指の白は、遠くから見ると あつらえの色柄のようで妙に美しい。
虚ろな指先には宥めるような丁寧さがあって、本来粗らかなはずのその仕草をひどく優しく見せた。


直義はよく手遊びをする。

決まって何か物思いに耽っている時で、公の場で見せたことは今まで一度もない。
だが一見神経質に見えるそれがむしろ彼の隙であることに、自分は何年も経ってからでないと気付けなかった。幾つにも重ねられた殻。
その一つ一つを剥がさなければ、直義という人物を知ることができない。


きっとそれが、このような結果をもたらした。

しばらくしてから直義は立ち上がり、白い息をついてこちらに戻ってきた。

「…あ、もう戻られますか?」

慌てて伺うと、ゆっくりと頷く。そして上げた頭のままついと正面からこちらを見据えた。
突如として強まる光に立ちすくむ。薄い色の黒目が僅かな日差しに当てられ、栗色に透けた。



「仏門に、入ろうと思います」

小さな、でもはっきりとした声で直義は告げた。 久方ぶりのその声

だが感慨にふける間もなく、彼は小道を戻り始める。



「ずっと、そのことを考えていらっしゃったのですか」

その背を追いながら尋ねる。

「…いいえ。ほんのさっき、決めました」

本当か嘘かはわからないが、紡がれる言葉は思いの外淡々としている。 動揺などむしろ程遠いその声に、それ以上聞くことはなかった。

洛中の大通りに入ろうという時、直義が突然足を止める。

「頼房」
「は、はい!」
「兄上と義詮様に、その旨伝えておいてください」
「…直義様、」
「そう急がなくても、いいですから」
「…畏まりました」
「今日はありがとう」
「え?」

「もうここでいい」
「、しかし!」

「……」

弱く頬笑んで首を横に振る。穏やかな仕草にやんわりと押し返されて、自分もまた言葉を失った。 滲むような余韻だけを置いて、直義は背を向け離れていく。 その場にただ立ち尽くしながら、路の奥に消えていく背をじっと見つめた。

ぐっとにぎった拳が、小さく震えて収まらない。

きっと何も変わらないのだ。

たとえ出家をしても直義は何も変われない。そのことを自分でも知っているから、直義あんなにも淋しく笑った。

堪え切れずにただ俯く。
悲しくて、悔しかった。

こんな自分のちっぽけな感情は、望まれていないのに。 だって直義は絶対に、後悔をするような人ではなかったから。 苦痛の根源を除いてやれるわけもなく、分けて負える荷など自分にはあるはずもない。

だけど、

一人離れていく主を、繋ぎ止める術を知らない。
そんな無力な己が、ひたすらに悔しかった。