「お前の望みは何なんだ」
耳朶を叩く声はか細く、泣き出しそうな。堪らなくなって腕を延べても此方を見やりもし
ない躯は微動だにしなかった。
「私の望みは貴方だ」
手首を掴み熱を奪おうとしたのに、伝わってくる冷たさは己のものとは余りに違う遠さ、
灼く熱はただただ自分だけを蹂躙して煙ぶるだけで。
晴れわたった冬の庭は、酷く気だるげな体裁で其処にあった。冷気の中も葉を落とさな
かった緑は怜悧なのに、穏やかな日差しに緩んだ空気は夏の日差しにくゆる景色と似通っ
た意味で酷く曖昧なものだ。案外と目に痛い白光を手のひらで遮り、薄い色で広がる青空
を見上げる。
手元には整頓された書簡が、列を成して並べてあった。
それら全ては必要とされる裁可、主名の花押を欠いたものだ。指先でその縁をなぞってか
ら掌でかき分けるようにして卓の端へ押しやった。乱雑な仕草に、ばらばらと書簡は乱れ
たが、気をかけるのが面倒でそのまま放っておいた。
尊氏はもう何日も館に帰っていない。そして其れを知っているのは自分と、側仕えの幾人
かだけだった。尊氏が帰らぬこと自体よりそちらのほうが余程異常なことなのだが、微妙
な情勢なのだからと言い含めれば側仕えの者等は皆納得した。彼らは尊氏のここ最近姿を
見ていたし、概して雰囲気のようなものを真っ先に感じとるのは彼らのような立場の人間
だった。
口に噛み締める苦い気分は、自分でも理不尽な怒り。直義が知らず、自分が知っているこ
と。その存在は自分をいとも容易く狂わせる。
あの日、から尊氏は帰らない。
ふと縁側を見やれば、向かいの回廊をゆく人影。何とも巡り合わせの悪い、と言うべき
か。思い描いたばかりの小柄な一つと、其の両側に歩を共にしているのは直義の慕う、か
の兄弟。
時折小首を傾げて、憲顕と重能の言葉に相槌を打つ直義は淡い笑みを浮かべていた。余り
似た顔立ちではないのに、ふとした瞬間やはりその横顔は尊氏と同じ形で傾けられる。
庭園を眺めるようにして、緩やかに足を進めながら直義と二人は何事かを語らう様子で
あった。恐らくは他愛もない事柄なのだろう、ごく軽い様子ではある。
「……」
向こうが此方に気づかぬ内に、小窓の障子を静かに閉ざした。
卓に伏せり、じっとしていると微かに風が枝を揺らす音が響いていた。
「私が望むのは貴方だ」
「……師、直…」
眉根を寄せた尊氏はだが、依然俯いたままで此方を見なかった。流れる髪は乱れて頬に落
ちかかり、その横顔に影を落としていた。
「…貴方の幕府だ。何故何も言わないのです。直義どののやり方は、貴方のものと違う筈
だ…そして、私の、やり方とて貴方には気に沿わぬ筈であるのに!」
半ば喚き散らすようにして吐き出せば、小さく首を振るようにして尊氏は髪をかきあげ
た。
「…知っていてやるか」
気に沿わぬと、と失笑の様なさざめきは珍しく幼いもので少しばかり手の力を弱めた。
「俺にはお前の望みがわからない」
「…何度でも、教えてさしあげます」
「お前、にも」
呟く声は掠れ、途切れる。完全に俯いてしまった肩は力無く落ち、その線は細く頼りな
かった。
髪を流し、覗いた背がやたらと白い色で目に映り、思わず顔を歪める。私が何よりも代え
難く思うものは彼自身の手により損なわれてゆく。
「…尊氏さま。貴方が決めればいいのだ」
自分か、直義か。どちらかを排せばいいだけのこと。今ならそれだけで済む。まだ何も起
こっていない、今ならばまだ。
強引に掴んだ手を振り払わない尊氏に、酷く苛立つ。落とされた首へ手をゆっくりのべた
時、尊氏が小さく呟いた言葉はだが不思議と真すぐに届いた。
山積みになっていた書簡を全てたたき落とす。息をつき、目に残る先程の三人の姿を反芻
した。
「……」
浮かべられた笑顔は共に歩む彼らに惜しみなく向けられ、それでいて全てを受け入れるこ
とはない頑なさを帯びていた。
似ない横顔はそれでも、確かに同じ廃絶の色を浮かべ。
…隣をあるくことをゆるされているのは。
小さく笑い、目の前の卓を蹴たぐり倒す。
…俺にも分からないようにお前にも分からない。
断定された口調に、何もかもを奪われている。羨ましい訳ではなく、まして焦がれている
訳であるはずがないのに。
共にできぬ足取りを、悔いるならば止めてしまえばいいのだと考えるのは愚かなことなの
に。
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