「…、書き直しです」
「あ、」

薄紙の上に舞った雫と華とで、綴られた文は墨が滲んでいた。

「…う…すまん」

卓を覗き込んだ高氏は、肩を落とす。豪奢な花の幾つかの下で、流麗な並びは最早、元の字も分からぬ。長く書き連ねてある訳ではないが、薄墨の広がった紙は最早使えぬだろう。
微かに首を傾げた直義は、そっと卓の上に乗った紫陽花に手を伸ばす。触ればふるりとまた振り落とされた潤いが紙の上に散った。

「…大事な書か」
「そうでは…」

首を振りかけ、はたと止まった直義は考えこむように視線を揺らした。それに気付いた高氏も、既視感に口を閉ざす。覚えのある、やり取りのような気がした。

「……そうですね、明後日執権殿にお目に掛ける筈の書簡でしたから」
「あ…」
「どうしましょう」

狼狽えた高氏は、意味もなく濡れ滲んだ其れに一度視線を逃がして、そろそろと直義の方に向きなおった。

「ええと、何か手伝、」
「いえ、何か纏める訳ではありませんし」

淡々と紡がれた声色は、別段何を責めるでもない。だが其れに余計に焦って高氏は言葉を継いだ。

「でも、兎に角何か」
「兄上を煩わせる様なことじゃありませんよ」
「俺が、駄目にしたんだから」
「そういう問題じゃないです、」

微かに頭を振って返した直義は、それだけでじっと座したままでいる。


「…直義、」
「"気に、しないで下さい"」
「いや…気、……」


突っかかった様にぱたりと黙り込んだ高氏は、それからすぐに決まり悪そうに眉を下げた。其れを静かに見返していた直義はだが、堪え切れぬといった態で表情を緩める。



「―…、たかがこんなの、大した物じゃありませんよ」





しんと落ちた沈黙に、だが高氏は二三度瞬いて、そしてからゆっくりと笑った。


「あぁ…何だかな」
「…お較べになる様な物じゃないです」
「ん…分かっている、つもり…なんだがな…」

くすくすと笑い声を立てながら直義は、悄気返った高氏をそっと見上げた。

書き連ねた全てを滲ませた書、―…字面だけが熱を帯びる詩を記した書。特段意味もない、語られる取り留めの無い話。どりらにせよ本当に詰まらない、話だ。高氏は改めてちらと頬に熱を上らせる。…俺より、等と詰ったは白地な自虐だ。


「兄上は兄上ですから」
「…でも、やはり…妬けるな」

じとりと卓の上を眺めやった高氏は、不意についと花を押しのけて置かれたままの筆に指を伸ばす。だが、ぱっと取り上げられた筆は本来の持ち主の手の中。けらけらと笑いながら、直義は細造りの筆を指先回して握り直した。

「こんなものまで、ですか」
「…仕方ないだろ、俺だって不状だと思うがな」
「大体兄上が下さった筆ですのに、」

折られたりしたら叶いませんね、と直義は更に笑みを深めた。



「…折ったら、またやるさ」
「ふふ、」
「あ」


水の滴る音が響いて、高氏は反射的に片目を瞑る。次に頬に感じた冷たさに、きょとりと首を傾げた。宛てがった指先に、薄く黒が乗っているのを見て、今度こそ目を瞬かせる。通り過ぎた筆の軌跡が細く頬を垂れて、鮮やかな墨を描いていた。

「ひどい事を仰るからです」

くく、と漏らされた笑い声が、可笑しくて仕方無いと言っている。


「やったな」
「わ」

高氏は指先で硯の中から、直接墨を跳ね上げる。額に飛んだ薄黒に、直義は益々愉しげに笑った。
二人童の様に笑い転げながら、筆から、硯から、黒が舞う。時折、その手先が散らばって積もった青い花達を弾いてまた雨の雫をばらまいた。



細く織りなす様な霧雨、音はしない。ただ幾重にも折り重なって柔らかに虚ろに、他の音をかきけしていく。

室の中に散らばったいくつもの、青。戯けて撒かれた墨が点々と落ちて、その雫に滲む。

青い葉の芳香、湿る天の気配に、つんと香の匂いが混ざり込む。鼻先を擽る香木の焚く匂いが、ふわりと流れた。


「はは、」
「あ、は…ふふ、」

頑是無い童の様に、転げているのに。

「つ、…はは」

高氏は額を押さえて、困ったように笑った。墨は目に入ると染みるのだ。じわりと広がる痛み、黒く垂れて落ちる、雫。
腹を抱えて思いきりわらい、木床に散乱した花と墨の中を転がる。そのまませいせいと息が切れるまでに笑い尽くした。
ぎこちないまでの和解が、ゆるやかに隠した筈の揺らぎ。



肩で息をしながら、ふとお互い視線が絡む。乾いた喉はひりついて、ただ不規則に吐息の音だけを室に響かせた。

…墨が、染みる。

目を細めて見れば、ちらちらと薄く榛の瞳が光る。近くで見ようと身を乗り出せば、転がったままの体は急に投げ出すその無力さで此方を見上げた。

赤く染まった頬は今、引っ被ったような黒に所々濡れている。切らせた息に、忙しく上下する胸の上で千切れた青い花の欠片が、はらりと揺れていた。…―思い描くは夢現、滲み出すように描いた罪深さ。
覗き込む榛はちかりと弾いて、垂れた雫に似た、いろをしている。

滑らかな頬の線にそっと触れる。何処か少しだけ、途方に暮れた顔をしていて。なのに不思議とその瞳は、諾々と受け入れるその彩。

高氏はまだ少し濡れている髪を梳くように手を伝わせる。髪の間からじかに触れた膚を撫でてやれば、直義はそっと目を眇めた。



身じろぎひとつしない滑らかな線を追って、すいと手を引く。物言いたげな其処を、ゆるりとなぞって象る。赤く染まった線が黒で縁取られていった。

開かぬままの其処に、高氏はゆるりと身を倒す。かち合った視線は刹那絞られて。

―…だけれども吐息の絡まる瞬間まで、逸らされることは無かった。





「……―」



軽く啄むだけで離れた体に、そっと直義は手を伸ばす。濡れて解れた髪が袷へと落ちるのを、辿るようになぞった。しろい指先の撫で上げた軌跡を黒が落ちていく。

「…直義」
「…、」

切なげに顰められた高氏の顔に、直義は小さく息を吸う。瞼を震わせて、なぞっていた指先をそっと離す。滴り落ちる雫はもう、墨と雨の其れが混然として酷く曖昧な、いろをしていた。

「もう一度、」

…ぎくしゃくと、ゆるやかに隠した筈の、揺らぎ。真摯に告げられた、台詞を受け流したのはきっとこんな事を恐れた故だったのに。



「ちゃんと、言って」

請う声音が張り詰めていて、高氏はそっと顔を下げる。いっぱいに映り込んだ自分の顔も、我ながら酷い堅さだと思った。


「…他の誰にも渡してなんかやらない」
「あに、」

耳朶にそのまま落とし込むように、囁く。伝わせた指先が脈打つその音さえもがくっきりと聞こえる。

幼い頃、こっそりと二人館を抜け出して、市、店々の軒先をくぐり抜けた時に似ていた。掠める用に甘味や酒までをも貰い舐めて、悪戯な感触に酔った。家の者に見つかれば叱られる、けれど抗えようのない衝動。繋いだ手が火照って熱くて、それでも堅く結んだままで居たことさえもが。

口先を震わせる響きは、低く掠れてじっとりと落ちる。熱が響きを帯びるなら、斯うして耳を揺らすのだろう。





「…―お前が欲しい」





そのまま首筋に顔を埋めかけた高氏は、くいと後ろで髪を引かれ顔を上げた。

「…杜鵑に、託つ程?」
「馬鹿言うな、託ッて堪るか」

敢えて巫山戯て詰る台詞に、相好を崩す。件の詩に乗せられた艶に、戯れかかるよう軽く瞼の上に口付けて言った。



「―…俺が総てはお前の物だろ」



首の後に宛てられた手に力が籠もり、そのまま薄く開かれた其処へ熱を絡ませる。名を呼ぶように拙く踊った舌が、不意に何かを瓦解させて曝け出す。確かめるように見上げられた視線にも、隠す気の無い劣情が滲んだ。

衣擦れの音に紛れて、掻き分けた花の舞う軽い音が落ちる。がたり、と音を立てて硯が卓の上で傾いたのを直義は横目に見た。指先で散らして、殆ど残ってはいなかった筈の墨がつうと伝って床へ滴る。次の雫を目で捉えようとして、だが不意に鋭い刺激に身を揺らした。肌蹴た胸元を甘く噛んで、高氏はちらと直義を睨む。ぐらりと沸き立つ様な直載的な欲情に、今更の様に息を呑んだ。

「…、」

痺れる様な感覚に吐息が乱れて、直義はくっと唇を噛んだ。暴いていく指先が次第に下腹へと延びて、弄る手つきにびくりと肩が揺れる。反射的に制止の手が延びて、衣の裾を押さえる。軽く押しのける様に腕を閊えれば、すいと思いの外抗わず身が起こされた。

「ん、」

突っ張っていた手を掬い取られ、直義は釣られるように指先へ視線を遣った。向いた瞳を確かめるように見詰めてから、高氏は手に取った白い指に唇を寄せる。ちらと覗いた赤が、毒々しいまでに濡れて、直義はぞくりとふるえた。指先から付け根へと柔らかい感触が伝って、高い音がたつ。慎みのない白地な音に、かっと顔に血が上る。力の抜けた手のひらをゆるやかに床へ誘い、縫い止めて高氏はもう一度軽く指先を吸った。

解けた帯が、衣の裾を蹴って延ばされた腿の横を伝い落ちる。間断無い痺れに咽が震え、またきりと口唇を噛み締める。其れを見遣った高氏はするりと手を伸ばして、擽るように唇を撫でた。

「…聞きたい」

聞かせろ、とゆるゆると撫でていた指先が口腔を割る。そっと差し入れられた指が刹那、舌を捉えて水音を零した。

「ふ、ぁ」

脳髄へ響くような濡れた音が、纏付くように甘い声を漏らす。指先で開かれたままになった其処からは、とめどない嬌声が転がりでた。

「ゃあ、」

進められた手が深奥を撫でて、一際高い声が上がる。高めるように嬲る手つきはだが弛まず、引っ切りなしに責め立てる。

「…う、…あに、う…ぁ」
「…ただ、よし」



…―こんな声は知らない。



甘く鼻へ抜ける声は、撫で上げる様に高氏を煽った。こんな声を、聞いたことは無い。自分だけの、ものだという焼き尽くすような喜びと、貪欲に未ださらけ出されぬものを探りゆく暗い衝動が己が理性を荒く蹂躙していく。時折過ぎた快楽に身を捩り辛そうにする直義に、決壊してゆく熱を滲ませた。

掠れ縋りつくような暗さで落とされた声に、直義は身の芯を震わす。こんな声を、聞いたことは無い。鬱屈した熱を自分の為に堪えていた筈の、そんな高氏の視線に何を感じたこともないと言えば嘘になる。けれどもつい先刻まで、こんな切り裂くまでの熱は知らなかったのに。





大きく顫えた躯は痙攣するように熱を吐き出して、くたりと弛緩する。高氏はちらと笑みを含んで、潤んだ目元から滲む涙を口で掬った。

息を荒げ、総てを押し流してゆくような波に耐えた直義は、些細なその刺激に大袈裟に肩を竦める。

「…ふ、は…」

熱に浮かされたままで見やった顔に、寧ろ泣き顔に似た笑みを見いだして、直義はそっと手を伸ばした。垂れた汗は、ついと指先をひけば、こびり付いた黒を薄めて流れる。乱れた髪をかきあげるようにして背へ手を踊らせれば、高氏はちいさく、嗤った。




忙しなく上下する胸郭の上を、吸い付く指先が嬲る。辿る手先はまたも下腹へと踊り、未だ先刻の熱冷めやらぬ処を弄っていく。解し暴いていくその行為に、溶けてゆくような気がして、直義は怯えた。

「…嫌か?」
「い…ぃえ、!でも…」

思い切り握り締めた掌が、爪を食い込ませる。身を固まらせた直義に、不意にだらりと高氏は身を預けた。じわりと膚を染み出す熱が混ざり合って、ふ、と直義は息をつく。徐々に力を抜いていく体躯に、掻き抱くよう撫でながら高氏は言葉を継いだ。

「どうせ握り締めるなら俺にしろ」
「ふ、ふふっ、」

その言葉に艶やかに笑んでみせた直義は、こくりと頷く。肩に回した手が、恐々と汗ばむ背を掴んだ。



膚の擦れ合う音に、不意にがたりと大きく戸が揺れる。いつの間にか雨足を強めた天は暗青に染まり、吹き荒ぶ風は轟々と枝葉を叩きつけていく。だが耳朶を満たすは落とす息の荒さ、己が鼓動の音ばかり。刹那息を呑んで、高氏は身を進めた。



「―…っ!…あ!」

高い声はばらばらと崩れ落ちて、二人を打ち据える。受け容れることを知らぬ体は、痺れたように指先までをも強ばらせる。頑なな体躯を貫いた衝撃は高氏にも返り、鋭く息を吸った。痛みに仰け反らし露わになった喉に、齧り付く。また高くあがった苦鳴と共に、ぎちりと膚の軋む音がする。縋りつかせたしろい爪先が肩を喰い破るのに、高氏はうっそりと笑った。

ゆるゆると更に突き上げれば、強張った体は戦くように小刻みに跳ねた。くぐもった声が途切れ途切れに上がり、埋め尽くすまでにたかく鳴る鼓動を響かせた。

「待っ…ぁ、あ!」
「く、」

濡れた音と膚のぶつかる衝撃ばかりが空に滲み、叩き付ける雨に閉じ込められた室の中熱を籠もらせる。

狼狽えたような翳が潤んだ瞳に走り、ぽろりと大粒の雫が頬を伝う。痛みと快楽を溶かし込んだそれを舐めとり覗きこんで、とろける眼差しを縛り付けた。



「直、義」

ひくりと肩を跳ねた直義は、ぎこちない動きで反った顔を向けなおす。噛み付くように絡めた吐息の端から、つうと飲み込み切れない熱が零れた。

押し流す激情をそのまま叩き付けるように、体を開いていく。しろく伸びた足を抱え直し、欲するままに求める。引き攣った声音であげられる悲鳴が、痛みだけではない色を帯びてゆき、頭の芯から粉々に砕き去る。

「…う、ぁ…!」
「は、っ…」

最早高まりゆくのが快感か、それともどうしようもない切情なのかも分からぬままで、お互いを溶かす。おわりの気配に突き抜けていく感覚が走り抜けていく。

交わる境をも渾然とさせて、闇の中お互いの熱のみを辿る。

墨と華の香りを混ぜ込んだ、熱気。浮かされた其れを冷まさずに、ただただ包むかの如く雨は降り続いていた。












「…磨けば落ちるか、な」
「た、多分。…そうだと、いいんですけど」



気付けばすっかり日は落ちきっていた。身を起こして改めて室を見渡せば、乱れきった其処はひどい有り様だった。散らかりきった花や帯、何よりも転々と落ちた墨がくっきりと黒い。

「仕方ない、たまには磨き掃除でもしてみるか」

柔らかく笑った直義は、だが顔を赤らめて軽く俯く。人を入れるわけにもいかぬこの室の状況だ。高氏はあぁ、と刹那困った様に視線を揺らす。だが直義の顔にはたと目を留めてから、ざらと頬を擦る。剥がれ落ちた感覚に吹き出した。

「先に湯浴みに行こう、ひどい顔だ」
「あぁ」

そうですね、と笑った直義はぎこちなく立ち上がって衣を付けていく。時折庇うようなその動きを、後ろめたげに眺めていた高氏はだが不意に、動いていた直義の手を取った。


「?兄上、」
「そっちの帯を付けていけ」


これは俺が貰う、と妙に真剣な声音に、きょとりと直義は目を見開く。みるみるうちに顔を赤くして、手を離した直義は恐々と落ちていた高氏の帯を取った。ちらと視線を這わせても、直義の手からすり抜いた帯を高氏はさっさと身につけている。仕方なしに格好を整えれば、大していつもと変わるものがある筈もないのに妙に締めたそれが擽ったく感じられた。

「似合う似合う」
「…兄上…」

直義が軽く睨みつけるようにすれば、だが思いの外暗い表情で高氏は黙り込んでいた。

「…?」
「その…直義、俺は…。……すま」
「!兄上、」

躊躇い勝ちに告げられかけた謝罪の言葉を遮って、強く呼ぶ。喉を詰まらせ、断ち切った言葉に高氏はええと、と眉を下げた。言葉の採択に迷っていた直義は、ふと思いついて顔を上げ、にっこりと微笑む。


「……欲しいものを言えと、仰ってましたね?」
「あ、ああ何でもいいぞ」

ほっと息をついた高氏に、悪戯を仕掛ける様に直義は続ける。


「じゃあ、新しい帯が欲しいです」
「?書とか、そういうのじゃなくていいのか」

「はい。下さるんでしょう?…また斯うして、」


するりと身につけた帯を撫で上げて、ぽかんと表情を抜け落とした高氏に、直義は綺麗に笑う。優しげにただ帯を弄ぶ手つきを眺めて、高氏はかっと朱に染まった。

「わ、」
「……今更嘘だとか言っても、聞いてやらんからな」
「言いませんよ」

がばりと抱き竦めてきた腕が、だけれど動揺に熱を帯びているのに直義はくすりと笑った。



「…―私だって、兄上がいいです」



不自然に固まった高氏の腕を引いて、直義は湯へ向かおうと廊に出る。

いつの間にか雨の上がった天には、上弓張の月が白くくっきりと懸かっていた。綺麗ですね、と直義が振り向けば、高氏が両の瞳に映り込んだ月は青く鮮やかに映えていた。

…青が似合うと思った、と告げた声音が今更に脳裏に浮かぶ。

似合うかもしれない、と小さく呟く。我に返ったように覗き込んだ高氏は、聞き返しはせずにああ、と肯く。似合えばいいな、と続く声にもただ従順に頷いた。



「…綺麗だな」

月ではなくただ前を見据えた高氏はぽつりと呟いて、そっと伸びた手は頬を撫でる。暫しの間落ちた沈黙に、どちらからともなく笑みを浮かべて掠める様に吐息を交わす。



ただ甘く舌の上を転がるのは、恐らく花の蜜が如き、涙。
出会いと別離を悦んで絡む痛みは、二人の喉を静に伝い落ちた。