「もうこぎょう?」

「猛る虎ですよ、兄上」


春というのはこんなにも暖かく感じられるものだろうか。冬の寒さが終わり、ひさびさに弟を外に連れまわすことを決めた高氏の足は軽やかだった。
そして同じように、自分の隣を歩く弟も機嫌が良いのか、先ほど読んでいた詩について饒舌に語り始めた。


「どういう詩なんだ?」

「『飢うるも猛虎の食に従はず。暮るるも野雀の棲に従はず。野雀は安んぞ巣なか らんや、遊子は誰が為にか驕る。』」

「ふうん」


直義が何を楽しいと感じているのかはさっぱりわからなかったが、とりあえず高 氏は頷いた。
こんな青空の下で、弟の嬉しそうな声をもっと聞いていたい。


「意味は?」

「えっと」

「ほら、俺にもわかるように言ってくれ」

「…はい」

直義は、一生懸命に言葉を選んで述べ始めた。
対する高氏は受け流し半分だったが 、どうやら高い志を持つ士の心得のようなものを説いているぐらいのことはわか った。
高潔さだとか潔白だとか、直義はそういう話が大好きだ。そして自分は、 そういう話を説いている弟が大好きだった。
まるで夢を見ているだけのような論 に対して、笑わせる、と嘲笑したくなる時も実はあった。でも弟に必要なものな らば、高氏はそれを確かに清くて素晴らしいものだと感じたし、いつまでだって 聞いてやりたいと思った。


「わかりましたか?兄上」


兄を振り仰いで、少し得意げな笑みを浮かべた直義を見て、嗚呼、本当に可愛い 奴だと思う。


「少し」

「少しですか」

気を落とした弟の頭を抱き寄せて、引きずるようにして歩いた。





川沿いをぶらぶらと歩き続け、目的地が見えてきた。そういえば弟はあまり遠くが見えないのだと密かに思い返し、もうすこし近づいた。

「ほうら、人がたくさん見えるだろう?直義」

呟いて隣を見ると、直義は眉間にしわをよせて市の人ごみを睨むようにしていた 。
そうだ、弟はこういったことに神経質な質なのだ。

「兄上。直義は別に、毎日食べなくても平気です。だから無理して買っていただ かなくても」

「好きなんだろう」

「ですが、」

高氏は、懐に入っている銭袋の感触を手で確かめた。

「直義がいらないと言っても駄目だ。俺が買ってやるって決めたんだから」

「もう、兄上は」

「俺が買ってくる。直義はここで待ってて」

頬を膨らませた弟に言い置いて、高氏は駆け出した。途中振り向いて念を押す。

「いいな!」

「…はい」

兄は自分に氷砂糖を買うために、軽やかに走り去ってしまった。自分のことを考 えてくれているというのはわかっているが。


少し離れた所に、自分より少し幼い童たちが石を投げて遊んでいるのが見えた。
高くてはしゃいだ声が聞こえてくる。直義はその様子を、じっと目を凝らして見 ていた。
少し身体の大きな子が投げ込んだ石は、水の上でとんとんと跳ねた。周 りがはやし立て、競うようにしてまた投げ始める。
にぎやかな光景が、兄のいな い寂しさを紛らわすようだったが、子供達はやがて川辺を離れてどこかに行って しまった。

手持ち無沙汰に耐えられなくて、小石を手にとって投げた。水音は醜かった。
何 回繰り返してみても変化は無かったけれど、直義はむきになって投げ続けた。慣 れぬことをして直ぐに息があがっても、やめなかった。


だから、うっすらとした人の気配がすぐ真後ろに近付くまで、気付かなかった。

す、と影が落ちて、振り向こうとした瞬間に、二本の腕にからみつかれた。


「ひ、」


羽交い絞めにされたまま、後ろから身体を擦り付けられる。

ぞわっと、一瞬にして血の気が引いた。見知らぬ人間の体臭に包まれて、直義の 息は止まった。濡れているのにざらざらとした感触が、首筋を這った。

硬直している間に、何者かは離れた。あっさりと解放された身体はだが、まだ棒 立ちのままだった。怖くて振り向けないままに、足音は遠ざかる。直義は、全身 が震えだしたのに耐え切れずその場にうずくまった。
嫌な汗が体中から噴出し、 すぐに吐き気を催した。
這うように一歩水辺へ進み、地に手をついてそのまま吐 いた。掌にちょうど包まれるぐらいの川原の石の感触は、まろく、そして日差し で焼けるように熱かった。
やっと落ち着いてきたころ、川の水でそのまま口の中 を注いだ。少し泥臭くて、また吐いた。
濃い影の落ちた瓜実顔が、水に映ってい た。
衣の袖で何度も顔を拭った。

川原に蹲る弟の姿に、高氏は遠くから気付いた。
手に持っていた氷砂糖の袋を袂 にしまい、慌てて川べりを滑り降りる。

「直義!」

駆け寄って、しゃがみこむ。顔を上げようとしない弟の頬を包み、無理やり自分 の方を向かせたが、焦点が全く合わない。弟は憔悴しきっていて、その小さな頭 の重みをされるがまま自分に任せた。青と紫の血管が浮き出た首筋を、冷たい汗 の雫が滑り落ちている。撫でるように拭ってやると、触れた袖がぐっしょりと濡 れた。

「どうした、気分が悪いのか」


ここで詰問するのは逆効果であると、高氏は冷静に考えた。弟はとても、壊れや すい存在だった。なるべく穏やかな口調で話しかける。言いながらさすってやっ た背中の衣も、汗で湿っているようだった。

直義は何か言いかけているようだったが、結局言葉にはならない。

「何かあったのか?」

さらさと流れる水の音に紛れて、直義はすこしずづ息を吐き出した。しかしその 度に大きく吸い込もうとするので、逆に呼吸が荒くなった。
ひい、ひいと苦しげ な音がして、肩が上下しはじめた。高氏はもう何も聞けず、黙って背中をさする 。ただ救いだと思うのは、ここらの空気が水の流れでとても澄んでいることだ。

重くなった肺が身体の中で大袈裟に動くので、上半身の筋が疲れてきた。
縋るよ うに見ると、兄は思い切った動作で、直義の口を掌で塞いだ。
胸をふくらませる 空気が、鼻からでていくのにつれて、高氏は掌をゆっくり離していった。

いつし か呼吸は整っていた。

「直義。帰ろう。」

「……」

「ほら、汗をかいているから」

前髪を除けてやった指先も、うっすらと濡れた。
高氏は辛抱強く、優しく言い聞 かせながら、青白い肌に張り付いた汗を拭った。兄としての責任を果たす事を決 めた彼は、健気だった。

「風邪を、ひくから」

こくんと頷いたのに安堵し、高氏は微笑んだ。よし、と頭を撫でてやり、自分で も単純だと思いながら、そのまま上機嫌になる。

「おんぶしてやる」

自分より少し、大きいだけのはずの背中。直義は躊躇った。

「早く、」

両腕を回し、胸を預けきってしまうと、その心地よさに泣きたくなった。

高氏は弟の膝の裏あたりを持って、よたよたと立ち上がった。振り落としてしま うかと思うぐらい揺れたが、踏み出す足は断固とした意思を持って地を踏んだ。 一度歩き出すと、そのままの勢いで進む事ができた。

背で揺られていると、涙が頬を流れてきた。こんなことになっている自分が惨め で仕方がない。
ちっぽけで、結局兄に迷惑をかけてしまう自分を消してしまいた いと思うと、余計泣けてきた。


「……ふ、うっ」

首の後ろから嗚咽が聞こえてきて、高氏は戸惑った。ずり落ちる身体を無理やり に背負いなおしながら、しびれる腕や足をごまかして前を睨んだ。

弟に、何かし たやつがいるのだったら、殺してやる。俺が、殺してやる。

まるで当たり前のようにそう考える少年のこめかみにも、いつしか汗が滲んでい た。

「ごめんなさい」

小声で告げられた謝罪に、高氏は首を振った。

「直義には」

「…はい」

「俺が、いるから」

紡がれた少ない言葉が、直義に溶け落ちた。苦しげであるにも関らず、強い芯が 通った響きに、愛しさが募る。高氏になら、見つめられたいし、触れられたい。 この人が好きだと思った。額を肩に押し付けて、直義は目を閉じた。


「…ずっと?」

「ああ」

「死ぬまで?」

「…死んでも。」


嘘をついているとは思えない。自然と、笑みが零れる。一番大切なものに包まれ 、触れていることは至上の幸福だ。そして、自分にそう思わせることが出来るの は、高氏唯1人に違いなかった。


大好きだ、と心の中で何度も繰り返す。

もう自分はまともには生きられないと思いながら、満たされていた。









「頑張っているな」

「…あ、た、高氏さま!?」


緊張で棒立ちになった少年が、そのまま折れるように礼をしたのを見て、高氏は 微笑んだ。

まだ、兵とは呼べぬ程幼い。そして何処と無く、その頼りなさが弟に似ている気 がした。

「いいか」

「…はい」

「こうやるんだ」


後ろから抱き込むように手を添えて、握り方を示してやる。

その光景を、直義は遠くから見ていた。全身の毛が逆立つかのような心地がして 、思わず自分の腕をぎゅっと押さえた。


「その調子」

励ます言葉を掛けながら、何回か一緒に木刀を振り、型をなぞる。
高氏の笑顔は、明るくて優しい。
少年はまぶしいものをみるような気がして、照 れた笑みを浮かべた。

直義はその光景を、呆然として見つめる。見たくないと思いながら、目が離せず にいた。

兄に触れているのが自分ではないことに、違和感を覚えた。そしてそれは、胸が 焼けるぐらいの不快感に変わった。

自分は兄の背や胸の硬さだとか、指の長さだとか、体温だとか。真っ黒な瞳から 注がれる視線だとか。
そんな色んなものを全て、誰より知っているはずであった 。
そしてそれら全ては、自分のためにあるはずであった。ああやって触れられる 感触を誰より享受しているはずであった。

「、あ!」

あにうえ、と呼びそうになって言葉を飲み込んだ。たった今頭を駆け巡った考え と、自分の思わぬ行動が急に恥ずかしくなり、耳の先まで赤くなる
。幸いにも、 誰も、誰も自分には気付いていないようであった。

己の胸に渦まく、強い強い嫉妬の感情に、直義は愕然とした。まさか兄をまるで 自分のもののように考えていたことを知る。自己嫌悪とせつなさで、目が潤んで きた。

さりげなく視線を巡らせた高氏は、立ち尽くす弟の姿に気づく。少年の肩を軽く 叩いて離れてから、無邪気に駆け寄った。


「お前も、稽古をしたかったのか」

「いいえ、私は」

自分では兄の相手にならない。ちっぽけな己の身体と非力さを憎み、またぎゅっ と腕を握った。
握りつぶしたいと思うほどだった。
白むぐらいに力の入った 指に気付いた高氏がその手に触れようとすると、直義は我に返ったように、ぱっ と手を後ろで組んで隠した。


「ちょっと考え事をしていて。それで」

「考え事?」

「はい」

どんな、と訪ね返せないような研ぎ澄まされた気配を、高氏は感じた。
直義が、 無表情にも見える様子で視線を泳がせる。自分で自分に掴まって、やっと立って いる弟。
こういう一瞬がきまって、高氏を不安にさせた。


「兄上、汗をかかれたままですと、風邪をひいてしまいますよ」

「…ああ、」

室に戻りますね、と軽く会釈をして、直義は廊を歩いていった。

その後姿が寂しげで、高氏は切なくなる。何故だろう。こんなに大事にしている のに、弟からは孤独の影が完全には消えなかった。

もっと、もっと何かをしてやらねば、という気にさせた。

そして自分には見透かせない時の弟は、不思議と美しくもあった。




室に入った直義は、衝立の後ろに、崩れるように座りこんだ。しばらく放心した ようにじっとしていて、やがて寝転んで目を閉じた。

目を開けたときには、この感情を忘れていればいい。






好きになったのは、自分の方が先だと思う。

欲しいと思ったのも、たぶん先だと思う。