「だめです」
「……だめか?」
「もうじき日が落ちますから…、市に出るには遅すぎますよ」
「んー直義…」

尊氏は胡座を掻いたまま、弟の方へにじりよる。対面する兄の幼い仏頂面に苦笑しながら、直義は眼前の卓上に積み上げてある書をより分けていった。

「明日、行けばいい…この前行ったところですか?」
「今、行きたいんだ」
「…何か欲しいものが?」

少し考えるように頭を傾げ、だがすぐに尊氏は首を横に振る。膨れ面のまま、卓まで漸く辿り着いてだらりと其処に凭れた。何とはなくその旋毛を見下ろして答えを待つ内にも、直義の手は着々と書を纏めていく。白い指の動きを目端で追いながら、尊氏はぽつぽつと言葉を零した。

「お前と、…どこか行きたい」
「……明日、行きましょう、ね?」

弟の窘める口調は甘く、伏せたまま上目にその軽く落ちた眉の形を見上げる。覗く耳の薄い膚が、ほんのりと血の色を透かせ色付いている。傾き始めたばかりの日の色、其の鮮やかな朱を先取りしたかのようだ。

「…今は」
「我が儘言わないで下さい」

軽く微笑み、実際笑声混じりの戒めは酷く軽やかだ。じっとその瞬きを見つめて、尊氏は苦笑を浮かべる。兄が漸く寄せていた眉を解いたので、直義はまたひとつ明るく笑んで見せた。


「………直義」
「はい、」

次の書をと眺めていた手元から目線をあげれば、唐突な感触。思わず手を滑らせ、掌中の書は大袈裟な音をたてて落ちた。驚いた形に、うすく開いた唇のすぐ横を、軽く啄んだだけで近すぎる体は離れる。にんまりと、幼げなのにどこか凶悪な笑みを見て、直義はゆらりと視線を揺らした。


「赤いぞ」
「…兄上」

がしゃがしゃと無造作に半ば卓ごと押しやって、尊氏は座ったままの直義の首筋を引き寄せる。額にまた唇を落として、態とらしく音を立てた。

「だ、だめです」
「だめか?」
「だって…ええと、まだ明るいし」

少し混乱した台詞に、兄は喉奥でわらいを転がす。その響きに一層焦って、直義はじゃれつく重みをそっと押し返した。

「少し、だけ」
「…だ、」
「あれもこれもだめ、だめ、じゃ聞けないぞ」

白地に面白がる口調で、尊氏は絡めとった腕に口を寄せる。すこし上に引くようにして、滑り落ちる袖口を追うように舌を伝わせる。うす青く浮かんだ血の管が微かに濡れて、てらりと光を弾いた。


「ん…、何でそんな、」
「直義が駄目だと言うから、…何だちゃんとしてよかった?」
「ちがいます、!」
「はは、冗談だ」

首筋に甘く噛みついて、耳裏へと舌を伝わせていく。ひやりとした感覚が背を落ちて、直義はひくりと肩を跳ねた。だがそれでも手を止めずに、後ろに回りこむようにうなじを追っていく。体の横で支えに付かれた兄の腕の筋を目線で追いながら、ざわざわと沸き立つ面映ゆさに俯く。膝の上で手を握り、じわりと伝う汗に益々顔を赤らめた。俯いたかたちで、露わになった背骨の上に、痕を付けるよう尊氏は強く啄む。

「や、そんな所に」
「見えないさ、平気」
「…そうですか?」
「見せつけてやればいいけどな」
「意地、悪…」

熱い掌が滑らせた衣が肩をそっと落ちていく。剥き出しになったしろい背中に、生々しい感覚が伝い、ちいさく息をのむ。強張るように背が伸び、余計にその熱を請うかのような姿勢になって、その艶めかしさは尊氏を喜ばせた。

「…舌を出せ」

弟のほそい顎を後ろから包むように、てのひらを宛てがって、薄い唇を指先でなぞる。恐々とだが従順に突き出された舌を、二本の指で弄んだ。

「あ、ふ…っ」

閉じられない口の端から零れる雫までを拭って、そのまま背を伝わせる。指先が描くなめらかな線が、しっとりとその膚を濡らしていくのに尊氏はじいっと見入った。

知り尽くしている気がするのに、その瑞々しさはひどく見慣れぬ色で彼を煽った。弟のからだで、彼が触れていないところなど、ないのだけれども。


「ひゃ、擽った…ぁ」
「いい声、」

ぴんと伸びた背筋を、ゆるゆると上から下へ舌を伝わせていく。そのますぐな清廉さが、熱を持った今でさえ常の潔癖さを透かせるようで、妙に暗い喜びがある。肉の薄い痩せぎすの背は、微かに段のある骨の形を浮かせる。そのほねの一本一本までをも、触れて愛でていくように丹念に舐めていった。

「ふ、」
「んん…兄上、」

帯の上に落ちかかって、固まっていた衣のぎりぎりまで愛撫してから、漸くその背から顔を上げる。途端にかくりと糸が切れたように、細い体躯は前に突っ伏した。

後ろからでも分かる上気した頬と、あがった息に尊氏は意地悪く笑った。


「夜までお預け」
「……本当…意地悪ばかり、」
「いい顔で笑うから止められなかったんだ」

腑分けでもしているようなある種過剰な丹念さは、恐らく貪欲な獣じみた性故で、直義は密かに息を吐く。そんな風に求められて、悦んでしまうのがどこか後ろめたかった。

尊氏も、只管隅々まで触れて、愛で嬲っていく欲の止めどなさにどこか気抜けた気分さえ覚えた。こわれもののように心を砕くのに、傷つけたがってもいる。無茶苦茶だと、わかってはいたが、その破綻した理性の先こそが、彼を満足させるのだった。



もう一度突っ伏した背を軽く舐めあげてから、抱きかかえるようにして身を起こさせた。腕の中にすっぽりと収めて、その暖かさに浸る。そろそろと乱れた衣を整えてやって、二人して一心地つくまで、そうしてじっとしていた。


「…明日、約束だからな」
「……ふふっ、分かりましたよ」
「呆れ顔だ」
「兄上は、とんだ駄々っ子ですから」

ふと気付けば、まだ日は落ちきっていない。粘るように空に留まり続ける光が可笑しくて、尊氏はつられたように笑った。

「甘えたくもなるさ」

よく言う、と似合わぬ口調で返した直義は、くるりと身を捩る。先程不意打ちで兄が掠めたのと同じところに、軽く唇を寄せた。

「…仕返しか」
「仕返しです」
「あぁ…虐めるんじゃなかった」
「ふふふ、」

殊更に艶やかな笑みに、尊氏は素直に困った顔で首を傾げた。

「…だめか?」
「だめですよ、…夜までお預け、なんでしょう?」

妙に初心な態度で照れてみせた尊氏は、返答代わりにひとつだけ瞼の上に口付けを落とした。