がくん、と膝が砕け座り込む。瘧のような震えが走り、なにか恐ろしいものを見た時のように、すうっと血の気が引いた。しかし、身の内に在るのは純粋な困惑だ。何が在った訳でもない。ただ不意に、真冬の川の中にでも飛び込んだように体から熱が引いていった。

床に突っ伏して、暫くじっと横たわったままでいた。動けないのではない、動くのが怖かった、と云うのが近い。真昼の、至極穏やかな日和。こんな風に空いた室で無駄な醜態を晒しても、誰に見咎められることもなかった。…何かの糸が切れたようだ。今のこの寄る辺無さは、張り詰めていた緊張がふつりと切れたときの感覚と似ているような気もする。神経質に幾度か痙攣して、身を捩る。続けて咳き込んだが、これではまるで淫に耽るような仕草だと思えば、酷く悍ましい。途端にぴたりと震えが止まる。だが引いた熱は戻らずに、いつまでも四肢は重く失われたかのように投げ出されていた。

つかれた。零れた呟きはくぐもって力の入らぬ唇の隙間から這出る。乾いた唇が半端に粘度を帯びていて、今度こそ心底厭になった。どうしたものかと、裡で冷静に問う声は確かにあるのに、切れた糸をつなぎ合わせる気力は沸いてこない。

何を見ても苛々とした。無駄に開いた戸から庭が見えて、その矢鱈瑞々しく無遠慮な枝振りさえ気に障る。遠くで人が立ち動く気配があれば、煩わしさが目の下を引き攣らせ、高く鳴き交わす鳥の声等はそのけたたましさが不愉快だった。重たいばかりの体など打ち捨ててしまいたい程苦々しい。

怯え、嫌悪に身を震わせた瞳を思い出す。崩れてしまいそうな脆さで、きつく縋ってきたことも。嗚呼ひとりになんてするんじゃなかった。そうだ――…むかし弟に、恐らくは下卑た意図、で手を伸ばした輩が居たことを不意に思い出したのだった…―。やはり体の冷たさは床に染み入ってしまうように変わらぬ。だけれど目の奥だけがちかちかと爆ぜる。

あのときのように真っ当に憤ればいいのに。そんな事さえ、出来なくなったのか。










「あ」

逃げるように敷布を手繰り身を進めるので、その動きを追って手首を握る。目に映る後頭に唇を落としながら、片手で薄い腹を抱き止める。

「んっ、」
「離れるな」

小刻みに震え、床に垂らされた首筋を舌でなぞれば、堪える様な高い声が上がった。薄い汗の味と膚の熱。覆いかぶさるような姿勢のまま、そっと身を揺らせば一糸纏わぬその体躯は大きく震えた。深く穿たれた儘に留め置かれ、その痺れに抗うように弱弱しく首を振る。這い回る手が敏感な部分を掠める度に、快楽を滲ませた声を断続的に漏らす。張り詰めた肩に甘く噛み付きながら、堪え切れぬ欲望を溢す箇所をわざと軽く弄った。

「…あ、ぁっ、…」

息を荒げて、身の芯から漏れるままに喘ぎながら、次第に其処には快楽以外の色が混じり始める。手首を押さえていた手を引いて胸元へ指先を躍らせれば、刹那身を引いた背が緩い弧を描いて、逆に自分の腹に押し付けられる。その感触に苦笑しつつ脇腹の方へと手を進めれば、いっそ怒った様な声が呼んだ。

「あにう、えっ…」
「なんだ?」
「そん…んんっ」

濡れた先端を指先で押すようにしてなぞると、切なげな嬌声が言葉を断ち切る。しかし直ぐに外された手に、また半端に身を捩る。続けて与えられる悦楽に身を戦慄かせながら、もう一度必死に言葉を紡いだ。

「、分かってる、癖にっ」

余裕の無い口調が稚くてじわりと熱を煽る。汗に張り付く髪を鼻先で掻き分けて、筋張った耳朶を啄ばめば、冷たく硬いはずの其処に一瞬で熱が点った。そのまま舌を差し入れれば、弾かれた様に身を引かれる。敢えて追わずにちろちろと舌先で外耳を嬲りながら、殊更ゆっくりと名前を呼んでやる。

「直義」

ひくりと歪に震えて、殆ど床に突っ伏していた顔が、恐る恐る後ろを振り返る。真っ赤に潤んだ瞳が責める様に自分を見上げて、口元が泣きそうに歪む。

「兄上の、意地悪」
「ふ、」
「……―だからっ、もう、」
「分かったから」

全く、その視線は卑怯だ。囁きが落ちるか落ちないかと同時に、漸くゆるゆると腰を突き上げる。焦れた様にその快感に噎びながら、それでも苦しげに腕が突っ張った。回して伸ばした手の方も逸らさずに弄ってやれば、散々苛まれた後であれば、直ぐに高められていった。

「やあ、あッ、」



月夜の闇の中に浮かぶしなやかな肢体も、ちらちちらと後ろから垣間見える感じ入る表情も、繋ぎ止めていた筈の理性を忽ちに砕いていく。押さえつける様に穿てば、上がった声は裏返り、息の音がひゅうと抜けた。



雨の無い、静かな夜だ。月見の口実に持ってきたはずの酒瓶は、何処かへ蹴り飛ばしてしまったが、もう疾うに中身も残っていない。火照った身を持て余した訳ではない。けれど、その熱を何処か言い訳がましく欲していたのだと分かってはいた。一人で、居たくなかった。



「…直義、…っ…」

不意に白い背を見つめていた筈の視界がぼやけ、それでも激しく身を進め続ければ、散った涙は尾を引くように自分自身に落ちた。

しつこく求めて、真っ赤に艶の上った頬はまるで普段とは異なる色だ。そうやって理性を溢れさせているのに、智恵あるしなやかな美しさがその横顔からは損なわれていない。



「…済まない、」

顔を歪め、過度な刺激に喘ぐ弟に、消えそうな声は届かない。そうと分かっていたから、こんな姿勢を強いたのかもしれない、とぼんやりと思った。

…言い訳など用意せずとも、受け入れてくれると知っていた。だから、こそ。



「あ、あっ、……!」

一際大きく震えた体を、その慄きまでも逃さぬように抱き止める。熱を吐き出して、弛緩する体からそっと身を離す。お互いに息が整って、高すぎる熱が引くまで暫く横向きに転がって視線だけを絡めていた。







薄く涙で膜を張った瞳が、澄んだ茶の彩を取り戻すのが何処か眩しい。

何時も以上に責め立て、その身を暴いて、けれども決して弟を嬲りたかったわけではなかった。欲に身を任せたというのも、少し違う。寧ろわざと虐めたてて、そして返るその非難がひどく欲しかった。

「直義…」

そっと頭を撫でれば、溶かすような柔らかい笑顔で笑う。

「兄上」

まだ僅かに上擦った声が、それでも優しさだとか喜色ばかりを滲ませて急に切なくなる。腕で滑る様にして、その胸へ飛び込んで視線を伏せた。

一人で居られない。自分の不安なら慾で塗り潰してしまわなければ気が済まない。弟の空白があるならば、全てを埋めて、奪い去ってしまわねば心が休まらぬ。

「直義…俺は、お前が居ないと駄目なんだ」
「え、…」
「一人じゃ何も出来やしない、…怖いんだ、何もかも」
「兄上…」

縋る声が震えるのを隠すように、答えが返る前に唇を塞いでしまう。歯列を割って這わせた舌が、戸惑うそれを絡みとって蠢く。零れた滴が喉を濡らしても、ただ只管に貪り続ける。どちらからとも無く手を伸ばして、また身の内を灼きつくす熱を煽り、恣にお互いを求めていった。








自分を好いてくれてるのだと。否、その全てを懸けて愛してくれているのだと痛いほどに知っている。なのにその存在が、貴さが、己を脅かす。どれ程求めても満たされない。満たされた先から更なる苦しみばかりを強いて、貪る様に食い尽くしていく。手の中にあるものを失うまいと強く強く握れば、壊してしまいそうになるのだと分かっているのに。それでも只管に愛して、愛されて、壊しつづけ、己の恣に蹂躙してゆくことを止められない。病の様に、患いは長くそして深みに落ちるばかりだ。

身動きも儘ならぬほどに憤り、目が眩むほどに悲しみは強く、そしてひどく弱かった。何からだって守ってやりたいのに、望むままにありたいのに、ただふとなにかに気づく度に足元から抜け落ちていくような弱さばかりが身を占めた。

手に入れば入るだけ、弱くなっていく。失うことを恐れて、その光を裏切ることを懼れて。深みに落ちれば落ちるだけ、強くなる。轟々と弾け、燃え盛る炎を収める術が無い様に。



そして突き刺さるような背徳感。それは偏に自分が心の底で弟と同じ罪の味に酔えないという、その一点に因るものだと分かっていた。自分が直義をどんなにか大切にしても。直義以外の全てを、自分の欲するままに切り捨てても。…―直義とどんな、口外出来ぬような行為に耽っても。自分が感じる罪は唯一つ、白い頬を流れる涙、それだけの為のものだった。

兄弟であるから。そのことに弟はさめざめと泣き、心を痛め、拉がれているのに。唯々その苦しみだけに自分の罪を見出しても、同じように兄弟であることに罪を感じられない。直義が悲しむのがひどく痛々しく、その懊悩が美しく哀れで身を切られる様に切ないと思うのに。何故直義が弟であることに幸せばかり感じてしまうのだろう。直義という存在が、そのままであれば他に何も欠けたものなどないと思うのだろうか。それはきっと仮令、兄妹、親子、親族、どんな関係であったとしても変わりはしなかったのだろう。そんな欠落が、堪らなく後ろめたい。

そして自分が弟のように罪を厭うことが出来ないのは、もっと深いところにある差異だ。罪に血に、慾に塗れて、そうやって自分は弟を愛することが出来る。我欲と傲慢、手をしとどに朱く濡らし、弟の背負う罪までもを奪い、その味に酔うように己を保っていられる。豪雨の中で水を浴びても気にならぬように、ただただ何処までも汚れたら、滴る鉄錆の味さえをも愛しく思える。けれどもそんな愚かしく醜悪で、歪んだ欲望ばかりを抱いていては。この手で触れることさえ躊躇われる刹那、その汚れに安穏とする己がこの世で最も疎ましくなる。嘘など無いのに、その相反するふたつは何時も絶えず己と共にある。ほんの些細な傷にも悲しみ、僅かな穢れをも厭い、そして何処までも底抜けに優しい弟に、結局自分は甘えているのだ。







傍らで小さく寝息をたてる直義に、そっと上衣を掛けてやりながら、僅かに欠け始めた月を見上げる。

こうして弱さばかりを押し付けて、弟を苛み続けてゆく。拒まれたら耐えられぬくせに、拒まないその従順さがひどく苦しい。安心しきって身を預けるのに、結局は弟を傷付ける汚らわしい輩よりよっぽど酷い行為を強いている。

―…愕然としたのだ。

殺してやりたい、とただそれだけを願えばいいのに。嫉妬、そして傲慢な所有欲、閃く怒りが純粋な殺意だけで彩られない。それは明らかな裏切りと堕落であり、手酷く蹂躙してしまうのと同じ位、自分を信じてくれている弟への冒涜だった。

薄汚く、卑怯だった。ただ溢れるように愛せたなら、縋り寄り添いあう為だけに交われたら。こんな罪悪感など、感じることはなかったのに。



深く眠る直義の涙の跡を指先で拭い、舌先で舐める。そうして今この瞬間死んでしまいたいような絶望に、必死に口に指の節を噛み締めて耐えた。