風のない夜の庭に、音が溶けた。
喉と体の奥から最後の息を絞り出すと、同時に熱い血がかっと頭に上った気がして、左のこめかみが低く痛みだす。緊張しきっていた指が緩み、笛を滑り落としそうになった。仕舞うことも億劫だったので、そっと床に転がしておく。
「…はぁ……」
ゆっくりと床に倒れこんで息を深く吐き出す。軽い眩暈は落ち着いてきたが、まだ昂揚している心を抑え切れぬままだ。口元が綻ぶのをとめられない。
最後の息、心地良い疲労。こんな風に音を出せたのは久しぶりだった。
「…大丈夫か?」 「はい」
この縁側はよく、拙い私の、楽の舞台になる。ふぅふぅと息で笑いながら視線を上げた。見上げた先で兄上は少し強張り、戸惑ったような顔をする。
「良い音だった」 「そうですか?」 「ああ」
「どんな風に?」
問い返しつつも、手応えからひそかに、褒められるその言葉を予期していた。今日は上手く吹けた。言うならそれだけだ。とても嬉しかった。
答をもらう前に笑い返してはしゃぐ程、兄上の戸惑いは深くなるようだったが、沸いた頭では何も考えられない。
「音が生きているみたいだ」 「嬉しい」
喜びに任せて持ち上げた頭を、兄上の右膝の上にすとんと落す。もう片方の立てた膝に頬杖をつくような恰好をしている兄上は、見下ろすその顔で驚いた。すぐに目を細め、笑ってくれたことに安心して、私は浮かれたまま語りかけようとする。
だがその時自分の視界の端に映りこんだものに気付き、視線を止めた。
「今日は、なんだかとても遠いものに…音を届けられた気がするんです」
「遠い、もの?」
例えるなら、あの満月のようなもの。
膝の上で、夜空に頭の向きを変える。眺めて、見上げて、いつもはそれしか出来ない筈なのに、今は少し近くに在るのではと感じる。
山吹より薄い色、銀より暖かい色。焦がれるのが後ろめたくて、だが何処かで通じ合えるのではないかといつも淡い望みを抱かせた。そわそわと気の落ち着かない時は、気付けば満月の夜が多い。
思わず腕を伸ばして、掌でそれを掴む真似をしてみる。しかし二三度繰り返したところで、叱るように後ろからの手に押さえられた。
夜の木床の冷たさが、甲に触れる。それも心地よい。
「…妬ける」 「え」
「俺のために吹いたのではなかったのか?」
声の主を敢えて振り返らず、代わりに膝に頬を寄せて笑う。
「たまにはよいでしょう?」
「たまに、なら」
「兄上が聞いてくださるから、吹く。それはずっと変わりません」
頭の後ろで、緩く息を吐き出した気配がした。潔く仰向けになって兄上と目を合わせると、私は急に不思議なくらい静かになって、動けなくなる。意思という程のものもないまま、そうしてしばしじっと見ていた。
「顔が真っ赤だ」 「少し頑張りすぎてしまいました」
凛々しくて時々少し物憂い兄上の、その真っ黒な瞳が何かとても強いものを持っていることを、私は幼い頃から知っていた。そんな人に無条件で自分を委ねられる瞬間は、いつだって甘い心地よさがある。でも同時に、少し痛みがあって切なくなるのだ。思いを噛むようにふと瞼を下ろし、目を閉じた。
手首にあった温かさはふと離れ、やがてそっと頬に落ちてくる。
「こうしていても、嫌じゃないか?」
不思議に思って目を開く。今更そう問い掛けるのは何故なのか。頼りない表情の筈なのに、身動きがとれないくらい、私を心地よく捕らえられるのは何故なのか。
「兄上だと、とても安心できます」
「……」
「でも、重いですし。すぐ起きますから」 「いい」
頬の手は滑って、私の目を塞いだ。そして温かくて狭い闇の中で、ふとあの月が隠されたと思いこむ。
「何も見えない」
「そうだろう」
誘われるように引き下ろした己の瞼が、知らずその闇を受け入れている。
たぶんこれが、答。
一年前、『子がいる』と打ち上げられた時、あれは一つの入り口だった。兄上には私の知らない、誰か大切な人がいた。そして私の知らない誰かが、兄上を大切に思っていることだろう。全て当たり前のことなのに。
これからもきっと、色んな人が兄上に出会い、兄上を好きになる。私はそれを一番知っている。 仕方がない。だって兄上は『支配』出来る人だ。きっと皆好きになる。
「もっと上手く吹けるようになりたいです」
「…あまり、頑張りすぎなくていいからな」
だから傍で聞いてほしい、と肝心なことが口に出せない。もどかしくやる瀬がなくて、指先が騒ぎ出す。床を掻きむしるように、あの笛を探してしまう。今この感情を押し付けたくなってしまう。
慰めて宥めて閉じ込めるが如く。兄上は優しい手つきで、髪を梳いてくれた。
知っているなら教えてほしい。
躊躇うくらいなら奪ってほしい。
どうして今更胸が痛いのか。
何も、考えたくはないのに。
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