※描写はほとんどないですが、直冬と女性のそういう事後的な場面というか雰囲気があります。 苦手な方は、お戻りください。
砂地を、鎧を着た男が、背を向けて歩いている。具足が地を踏み締める音と、繋
ぎ合わせた武具の隙間から、また、音が。
彼が歩いた後には、足跡ではなく、太い帯状の線が続いていく。
何かを引きずっている。
私の意識は、飛ぶように滑らかにその何か、に近づいていく。
人、の形をしている。
後ろ襟、を男に掴まれた、人、の屍であることがわかる。 手足を投げ出して座っ
たような姿勢で、下半身を地で擦り減らしながら引きずられていくのだ。
彼も、また、鎧を着ている。その胸には深々と矢が突き刺さっていて、血が流れ
出している。 傷口から離れたところはもう乾き始めていて、男が、随分と前から
この屍を引きずって、砂地をさ迷っているであろうことを知る。
私は、俯いた屍への既視感に、胸をざわつかせ始める。
まさか、
細い肩と手足
…まさか、
小さな頭と、
よく知った耳の形
私は息を呑む。
そしてその時、振り向いた男が名を呼ぶのだ。
笑みを浮かべて。
……、と。
優しく、
名を。
「…違う、!」
身体を起こすと背中を汗が滑り落ち、私は荒い息をついた。 額を拭うと、手の甲
から腕までが濡れた。呼吸を落ち着けようとしたがおさまらず、目が冴えたまま
、沸いた熱を持て余す。
「ちがう」
そんな筈はない。あの人が私を置いて死ぬわけがない。死んでいいはずがない。
行灯の火を増やし、室を少し明るくすると、私は手ぬぐいで汗を拭き、衣を替え
て袴をつけた。
そしてまた灯を一つだけ残して、他は吹き消した。
今夜はもう眠れそうになかった。
この館には見咎める門衛もいない。
土を踏む草履の音だけをさせて、半分の月と、まるで砕けて散らばったような星
の光を見上げながら、川沿いに道を歩いた。
「まさか、夢の通りじゃないよね」
川沿いに下りた先には、町がある。
白壁にもたれ掛かってただ、待つ。
そうして、声をかけて来た女にこう尋ねる。
「嫌な夢を見ないで済むには、どうしたらいい?」
眉の形の綺麗な、小柄な女だった。息を呑んだように、私の顔を見ている。
「教えて?」
闇の中、白く浮き上がるその手を掴む。僅かな間の後、女はそっと握り返してき
た。
こうして私は望んだ通りの時間を得て、やっと暗くて深い夜の中に沈み込む。
麗しい快楽はやはり心地良く、まるで自分が誉められるべきことをしているかの
ように思えてくる。肌を合わせている時、不器用に笑いかけてやれば、相手はも
っと幸せそうな顔をして私を抱きしめるから。
「女は、寂しそうな人が好きなの。」
身体を起こし、床の脇に脱ぎ散らかしていた衣を手繰り寄せた。座ったまま羽織
って、ぼうと戸の隙間から外を眺めていると、女は後ろから、私の髪を優しく撫
でた。
貴方みたいな人、と付け足してくすりと笑う。
湿っぽい裸の胸が、衣腰に私の背を温めた。
「じゃあ、男は?」
「…そうね」
ゆっくりと腕を回し、頭の重みを乗せてくる。私は、ただ続きの言葉を待った。
「男は、寂しがりやの人が好きね」
「…寂しそう、と寂しがりやは同じでしょ?」
「違うの」
夜は必ず白んでいく。
こうしてまた繰り返し、私とあの人の新しい時間は別々に流れていくだろう。
「まだ坊やね。綺麗なお武家様」
「そう?」
「ええ。いくら大人びていてもわかるわ。」
私は曖昧に笑うとそれとなく女の白い腕を外し、立ち上がって帯を巻いた。 襟を
きちんと合わせ、袴の紐も結んだ。
「自分に無頓着だもの」
「仕方ないんだ」
帰ったら直ぐ、水で身体を清めよう。
完全な朝がくる前に、あの人の無事だけを祈らなければ。
「ねえ、答えたくなかったらいいけど」
「何?」
高くて細い、鳥の囀りが聞こえ始めたら、もう夜が終わってしまう。耳をそばだ
てた。
「…貴方、幾つ?」
「十五か六」
すんなりと口にした自分に、女は驚いたようだった。そして、わざとはぐらかし
たいかのような応えをしてくる。
「曖昧ね」
「自分がいつ生まれたか知らないから」
「……そう。」
これ以上は、互いの微笑だけでは埋められない。しかし、彼女がこの沈黙を望ん
だのだから、それこそ仕方がないのだ。
「有難う。貴女の話は面白かった」
「そんなお礼なんて要らないのに」
女は冗談ぽく口を尖らせた。しゃがんで枕元に銭を置く私を、じっと見ている。
そして、呆れたように呟いた。
「私のこと、気に入ってくれたんでしょ?」
「うん」
「なのに、名前も聞かないなんて」
無頓着、繰り返して見ると、成る程そうかもしれないと思う。昔、そんなことを
言われたような記憶もある。
「貴女もその方がいいんじゃない?」
「ふふ…やっぱり、綺麗すぎる人は冷たいのかしら」
なまめかしく首を傾げた女の肩を、黒い髪が滑った。その軌跡に未練を感じた時
、途端に私は、この人に慰めてもらったのだと悟った。女は、慈しむような目を
して私を見ている。そして、ほっそりとした手を振って見送った。
本当に自分が欲しているものが分かった気がして後ろめたくなり、私は目を逸ら
した。
「またね。綺麗なお武家様」
「うん」
後ろ手に戸を閉めると、私は、人のいない小路を足速に歩いた。 風もないのに、
衣の下の肌は妙に鋭く大気の冷たさを拾う。まだ人恋しいような、清々しいよう
な気になって、女を抱くのはもう何度目かと知れないのに、まだこの感覚には慣
れないのだと思った。
だから、寂しそう、寂しがりや、という女の言葉を反芻し、あの人に当て嵌めて
みようかなどと考えるのだった。
いつか一緒に市を歩いて、氷砂糖と饅頭など買いに来たことを思い出した。 目を
伏せて申し訳なさそうに笑うあの人に、私は確かに寂しさなんてものを見出だし
ていたのかもしれない。それはもしかしたら、私が勝手に重ねた影なのかもしれ
なかったが、何も不都合はないように思えた。
−−…欲しいものは何でもあげる
−−…直冬がいないと駄目だ
ぼそぼそと囁かれた言葉は、確かに嘘ではなかった筈なのに。
虚ろに前だけを見つめて、帰り道を急ぐ。
…あの人は、私を満足させる気なんてないのだ。
だってその屍すら、あの男に与えるのだろうから。
朝が、もう近くまで来ている。
こうして一つ、嫌な夢をやり過ごせたことを喜ぶべきだ。
あの男がどんな風に義父上を呼ぶのか、私は夢の中でしか知らないけれど。
梅 回想の氷砂糖の話は『孤城落日』を参照。『蝶よ花よ』より前の時期で、足利兄弟が筑紫に落ちた頃(本編よりもう少し進んだ頃)です。 室町幕府が立つまで、直冬は義母(紗和)と義妹(あやめ)と共にどこかに疎開中。
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