「…、っは…ぁ……は」

喘鳴のような音が五月蝿い。

息苦しさに眉をしかめて咳をすれば、立て続けに喉をつく。反射的に口の端を拭おうとした手が、何か酷く生々しい感触を伝えた。

粘り気のあるそれは、指を滑らせ


「……っつ、あ、」

赤く滴る液体が、ぼたぼたと握りしめた刀からつたう。薄暗く歪んだ視界にその色は強烈に映えた。

「…ぅえ」
「…!直義!」
聞こえた声に打たれたように顔を上げる。座りこんだ直義の姿が目に入り駆け寄った。
…否駆け寄ろうと、した。

凍り付いたように固まる足に、自分で驚いて目を見開く。引き剥がすように念じて足を上げれば足の下で、くちゃりと濡れた音がした。

…赤い、それが足元に飛び散って広がる。足を引き付けるそれはどろりと流れた。

「……」

よろよろと不確かな足場を踏みわけて近付いていく。歩を進める度に濡れた音が響くのを何処かひとごとのように聞いた。

「…直義…怪我は」

手を伸ばそうとして、その手にもべったりと赤が付いているのに気付く。直義の衣を汚してしまうかもしれないとぼんやりと考えて、結局中途半端に浮かせたまま手を止めた。

「…兄上、いいえ……」
「…なら、いい…」

安堵の溜め息がふっと洩れ、少しずつ力が抜ける。笑いかけてやろうとしたのに、奇妙に歪んで困ったような顔しか浮かべてやれなかった。

「でも兄上、  が」
「え?」
じっと此方を見つめる目を見返せば、直義は立ち上がってこちらに手を伸ばした。
汚れる。
反射的に身を引くと直義は少し怒ったようにぐいと左腕を掴んで身を寄せた。

「…痛くありませんか…」
「…、」

そっと撫でられたこめかみはぬるりとした感覚を伝える。他の全てに混じって分からなかったがどうやら自分のものらしい。殴られた時に切れたのだろう。だが不思議と痛みは無かった。…というより、全ての感覚が何処かあやふやだったのだ。

「…痛くは、無い…」
「…兄上」

袖口で頬を拭われて反射的に目を閉じる。明瞭になった視界に、今まで流れる赤に塞がれていたのだと分かった。

「… が出てますから…動かないで下さい」
「…ん」

へたりと膝が砕けて座り込んでしまう。手をつこうとして右手の堅い感触に気付いた。握り締めたままの、刀。

指を開いて離そうとしたが、ぴくりとも動かない。指の間を伝うものがべったりと柄に張り付かせて、固まってしまったかのようだった。

刀を握ったままついた手は少し痛い。
些か途方に暮れてぼんやりと手を見ていたら、白い手がそっとその手を取った。

「兄上…大丈夫ですから…」

どこかで、同じ言葉を聞いたような気がした

「…兄上が…守ってくれましたから…」

一本ずつそっと指を剥がされていく。

「……直義…」
「兄上」

へたり込んだ自分を背伸びするように抱き締めた体にそろそろと手を伸ばす。

からからと刀の転がる音が、した。


段々と開ける視界。
 が
一面の赤が

血、が

夥しい量の血が
塗りたくられたようにあって

そこに伏す影。
動かないみっつの


生々しい重みを思い出す
瞬間の感触を思い出す
信じられないというように見開かれた瞳の色を思い出す

そして消えゆくその色

自分がけした

消した

ころ、した


「高氏さま、直義さま!」
「!若…」

足音が止まり、廊から息を呑んだような気配が伝わる。

「…お、じう……」
突っかかるものに咳き込んで言葉にならない。軽い咳を繰り返せば直義が手に込めた力を強くした。

「…お二人とも、お怪我は」

静かに歩み寄ってきた叔父が、ゆっくりと言葉を乗せる。

「…兄上が少し頭を切って…」
「……若殿…お手当しますから…」

その言葉に、直義がこちらを覗き込む。小さく頷き返して衣を握っていた手をそっと離した。

「ぁ…?」

小さく震える指先は自分のものではないもののようだ。顔を歪めた叔父がゆっくりと肩を抱いて立たせてくれた。

「直義さまも…身をお清めなさいませ」

こくりと頷いた直義が、そっと手を取る。

「…兄上」

伝わる熱が酷く熱い。びっくりして見つめかえせば、気遣う様に見る瞳には自分の姿が映っていた。

青ざめた顔に、氷のように冷たい手。

「…う…ん」

室を出ようとゆっくりと歩む。繋いだ手からとくとくと伝わる音に、そっと心が凪いでいく。

「…直義、」

握る手を少し強く握り返せば、真っ直ぐにこちらを見る目。漸く小さく笑いかけてやれば、見慣れた笑顔が浮かんだ。

安堵とそして
ちらりと後ろを振り向く。凄惨な室に横たわった男の、顔。





……初めて、此の手で殺した相手を見たのはそれが最後だった。





逃げ帰った残りの対処を叔父にまかせて一人ぼんやりと空を見ていた。
どんよりと重かった雲はとうとう雨粒を零し始めてあたりに降り注ぐ。色々なことがよぎっては消えてゆく。混乱してるのかとも思ったが、夏の雨を見るに酷く穏やかだった。

室は今頃綺麗になっているのだろう。廚は夕餉の支度でもしているのかもしれない。何一ついつもと変わりはない。直義だって無事で今は室に


ただ一つ違うとしたら


そのまま館を抜け出して歩く。…雨に、あたりたかったのかもしれない。綺麗に落とされた汚れはしかし濃厚な香だけがつきまとった。


…失われた色に愕然とした。
でも既にそれは過ぎたこととなりつつある。

驚いたのに、
きっともう大丈夫だ。

一度越えたものに容易く、あれるだろう自分を知った。
それで守れることを知った。

生々しい感触だって慣れてしまえば、その重さは寧ろ確かにあれるものだ。

うそ寒い感覚は、灼けるような熱と混じり合って渦巻く。

出来る
出来てしまう

怖い
嬉しい

きもちがいい
きもちが、わるい

…雨は夏の空気に温くてあまり気持ちよくはなかった。



無意識に進めた歩は市へ、そして掛かる白木の橋へと辿り着く。あの男もこんなところを通らねば良かったのだろうに。込み上げた笑いは思いの外冷たく響いた。

…あぁでも、もしそうだったならば

ざぁざぁと叩く音が響く。

見開いた目を閉じることは、出来なかった。
視界に映る全てがけぶるように淡い。

…淡い

のに、
雨の振る夕方、人通りだって多くは無い。それなのに、向かってくる姿は迷いなく此方を目指していた。

「……なん、で?」
「…お会いできると、思いましたの」

目の前に立つ青い衣の。そうして髪には赤く、紅く挿された。

どこまでも澄むように清涼な空気に、眩むように纏った血の香が交じる。

「…霞」
「…高氏、」

差し掛けられた傘に雨は遮られぱらぱらと音をたてる。

「濡れて、るのね」

ぽたりと髪から滴る水滴が肩に落ちる。頭に止められた血止めさえもがぐっしょりと濡れていた。冷えた体に触れた手はやはり熱くて、思わず身を震わせる。

「…冷たい」
「……」

引く手に為されるがままに、足を進める。降りしきる雨の中で白木の橋は浮かび上がるように美しい。渡りきってからちらりと見れば、よく知る向こう側がけぶりまるで全くの違う地のように見えた。



「…」

ぱたりと閉じられた障子の透ける文様を何とはなしに見つめる。その場にずるずると座りこめば、霞がそっと巾で髪を拭った。

よく、分からない

全てが眩むように歪んで渦巻く。
濡れてまとわりついた衣が少し煩わしかった。

「…、高氏?」
「あ…」

霞が手を止めてこちらを見ている。どうやら無意識に払おうとしてしまったらしい。

「…雨が、お好き?」

乾いた巾の感触が気持ちよい。するりと首筋を拭く感覚に目を細めた。

「…そう、かも」

でも今日の雨はあまり好きではない。蒸すような空気に温まった水はべったりと重く、こうして室の中の空気さえも重たくさせた。

「…暑い…」

暑い
熱かった。
消えやらぬ香は湿って重たい空気に染み渡るようで、ぐらぐらと頭を揺らす。

「…あつい、の?」
「…ん」

ぼやけた視界に、するりと伸ばされた白い手が映る。さらさらとした感触に、ぴくりと肩が揺れた。べたべたとした衣を少しはだけて、そっと拭われる。伝う冷たさが気持ちよくて強請るように擦り付けた。拭う手がだんだんとゆっくりになり、落とした視線が絡む。

「…今日は…あついですから…」
「…か…」
「じっと…してて」

近付いてきた顔に静かに目を閉じれば、塞がれる様に合わされる。ぞくりと背筋を伝う感覚に身を震わせば、撫であげる冷たさがそっと這った。

「…ん、ぅ」

反射的に止めようとした手は、だがやんわりと包まれる。ひんやりと乾いた感触で撫であげられるのは気持ちがよかった。ばさりと衣の落とされた肩口に、そっと熱が伝わる。少しぬるりとした感触には覚えがあった。
指先に、伝った―…

「……っ……」

紅く染まった視界がちかちかと光る。噎せ返るような香りなど、疾うに無い筈なのによみがえるそれは生々しすぎた。

身の内を灼き尽くすような熱が駈ける。苦しさにぎゅっと眉を寄せれば、鳴るような声が耳元で響いた。


「……忘れて、しまいなさい…」


不思議な低さで囁かれる声が、しんなりと沁みる。

「…忘れさせてあげるから」

伸ばした手で強く抱く。じんわりと熱が伝わって、濃厚な死の匂いが薄まるのが分かった。

「……ね、?」

漏らされた吐息が、舐めあげられた耳朶をひんやりと掠める。

縋るように抱き締めた腕に、熱が弾けた。



そして、ねつを、帯びて



血の匂い
熱

暑い
熱い

あつく、て


瞬きとともに反射的に流れた一筋の涙は甘く吸い込まれていった。







…小降りになった雨はしとしとと断続的な音をたてていた。薄く開いた雨戸が、昇る立待ちの月を見せる。

「…霞…」

気だるい感覚にゆっくりと髪を掻き上げる。ばさりと散ったそれは肩口に落ちて流れた。横たわる四肢にそっと打掛をかけてやれば、くすくすと鳴らすような笑い声が洩れる。

「…たかうじ、」

とろりとした声に呼ばれて、そっと腕をつく。

「…優しい、のね…」
「…」
「…霞って呼んで下さいませんの?」
「…呼んで欲しいか?」
「そう…また、先程のように、呼んで?」

揶揄かう口調でくすくすと声を紡ぐ。背中に走る小さな痛みに、そっと苦笑する。つけられた爪痕は甘く痛んだ。

「あんなに甘く呼ばれてしまってはどうしようもないもの。ね高氏…」

少し迷うようにして囁かれた言葉に簪に伸べた手をとって、そっと握る。

「…ふふ、嘘つき。そんなところまで優しくなくて、いいのに……」
「…霞…、」
「いけない方」

ついと撫でられた背中の傷に小さく痺れが走る。少し眉を顰めて睨めつけてやれば、微笑むように口の端をつりあげた。

「…お帰りになるのでしょう?」
「……あぁ…」
後ろめたい何かに、少し落ち込むが、霞はゆっくりと首を振る。
「…いいの。ね?」
きらりと月の光を照り返す瞳は酷く美しい。
自然零れ落ちた笑みに、手を伸ばすと霞は笑った。

温かい

血濡れた温かさは
しっとりと沁みて広がった。


昇る月は冴え冴えと輝いてある。


渦巻いたまま仕舞こまれた全てを、等しく照らしていた。




鏡花水月へ(落花狼藉たそside)