南北朝「太平記」時代の年表です。重大な出来事だけを掻い摘んで載せておりますので、省いたものがあります。 室町幕府成立まで
室町幕府成立後からはこちら
| ||
1321年9月 | 正中の変 | かねてから打倒鎌倉幕府を企てていた後醍醐天皇が、京における幕府の重要機関である六波羅探題を襲う計画を立てる。が、未然にバレて失敗。 |
1333年5月 | 鎌倉幕府滅亡 | 元弘の乱とも呼ばれる1331〜1333の全国的内乱を経る。挙兵した後醍醐天皇の軍はいったん敗北するものの、護良親王や楠木正成 の活躍により幕府軍は分裂。足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め鎌倉幕府は滅亡。光厳天皇を廃す。以後1336年まで後醍醐天皇による公家一統政治建武新政が行われる。 |
1333年12月 | 鎌倉将軍府設立 | 相模守足利直義、後醍醐天皇の命で皇子成良親王を奉じて鎌倉に下向。鎌倉将軍府を開創。 |
1334年10月 | 護良親王流罪 | 足利尊氏と反目した護良親王が、謀反の疑いで逮捕される。翌月鎌倉へ流罪。 |
1335年7月 | 中先代の乱 | 北条氏最後の得宗高時の息子時行、信濃で兵を挙げ鎌倉を攻める。直義、護良親王を暗殺し西走。 |
1335年8月 | 乱鎮圧 | 尊氏、後醍醐天皇の許可なく時行征伐に東下。鎌倉奪回後も京に帰らず。 |
1335年12月 | 尊氏朝廷に離叛 | 足利軍、尊氏 追討のために差し向けられた新田義貞軍を箱根・竹ノ下で破る。 北畠顕家、尊氏追討の命を受けて奥州を出る。 |
1336年1月 | 足利軍入京 | 後醍醐天皇の叡山に逃れる。尊氏軍、入京を果たすも、義貞・顕家に破られ丹波に撤退。翌月九州に敗走。 |
1336年3月 | 多々良浜の戦い | 尊氏、菊池武敏を筑前多々良浜で破る。翌月、博多を出発し東上。北畠顕家、義良親王陸奥へ帰る。 |
1336年5月 | 摂津湊川の戦い | 楠木正成敗死。後醍醐天皇再び叡山に逃れる。 |
1336年6月 | 再び入京 | 尊氏、光厳上皇を奉じて入京。名和長年戦死。 |
1336年12月 | 南北朝分裂 | 11月に尊氏は後醍醐天皇から三種の神器を受けおさめ、持明院統の光明天皇を擁立して北朝を建てる。この時建武式目で政治方針を制定する。翌月、後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れ、北朝に渡した神器は贋物だと主張。光明天皇の皇位は正統ではないとして、吉野に南朝を開く。 |
1338年5月 | 北畠顕家死亡 | 顕家、後醍醐天皇に「顕家諫奏」(建武政府に対する6か条からなる意見書)を納める。同月、高師直勢と和泉国堺浦で交戦して敗れ,討死。享年21。 |
1338年7月 | 新田義貞死亡 | 新田義貞、越前藤島の戦いで戦死。 |
1338年8月 | 尊氏征夷大将軍に | 光明天皇、足利尊氏を征夷大将軍に任命する。 |