暦は九月の中旬を数え、めっきり秋も深まり早々と冬の前触れが衣の裾を閃かすような風情である。裂くまでの冷たさはいまだ帯びず、ただ凩が乾いた葉を巻き上げていくのみであった。回廊を行く自分の視界をちらちらと散りゆくのは、主の好む鮮やかな紅。艶やかに染まりきった椛が、重なり合って地を蹂躙してゆく様は確かに壮観だった。
薄らと白みがかった晴れ空の下で、響くのは剣戟の其れ。館に戻り、主の姿を探して足向けた先は開けた奥の庭園であったが、その当りは正しかったようだ。
「…つつ、重いな」
「それだと弾く合わせ方ですから、」
「ああ、俺が甘かったな…仕方ない重能。労い酒でも付ける、もう一合」
「其れは有難く」
高い音が上がり、又も銀刃の閃きが宙を裂く。合わせる腕同士の立つことを重々に知ってはいたが、刃引などしている訳もない煌きの躊躇いの無さは、偶に肝が冷えるような軌跡で振われた。
階をゆっくりと下りながら、その姿を眺める。
均整の取れた背からは、やはり如何にも強かさばかりが滲む。整った精悍な顔は、凡そその肩書きから思い描かれるものより涼やかなものになるのだろう。実際関東の田舎武者、武家の荒くれ者共の棟梁の筈の主は、斯うして愉しげに笑っているときなどまるで童の如き笑みである。適当に紐で括り上げただけの漆黒の髪が揺れ、零した刃の欠片の跡を追った。
「ん、師直か。御苦労だったな」
「尊氏さま、ええ…」
打ち合いに一区切りついたところで、主…尊氏はぱっと此方を見やった。息を切らせ、赤く上気した頬は汗に濡れている。常のように階の下に控えていた近習から巾を受け取り、尊氏へ差し出す。軽く笑んで其れを受けた尊氏はだが、するりとその笑みを深めた。
「足利の執事は御簾中にも明るいと、専らの世評だが…今日は何の謀りだ」
「聞こえの悪いことを仰せになりませんよう…、本日は本当に唯のご機嫌伺いです」
そうか、と軽く笑って見せた尊氏は、向かいで首を拭っていた重能に頷きかけて井戸へと促す。踵を返す刹那、だが尊氏はひたりと動きを止めて言葉を継いだ。
「それで、准后のご機嫌は如何したのか」
「相変わらず…、御不安拭い去れぬご様子で」
「……そうか」
踏みしめられた足元で、枯れた紅はさくりと乾いた音を立てた。
「鉛作りの大がたな…太刀より優に拵えて、か」
井戸端で喉を潤しながら、尊氏は縁石の上に投げ出した己の刀に目をやった。戦場に出る時とは違い、今日は一振りしか持ち出していない様ではある。二刀とも精緻な意匠の刻まれた柄に、青く見事な刃を持つ刀だ。
「あぁ先月の…落書ですか」
重能も己の刀に視線を呉れてやりながら、うすらと笑んだ。重能などからすれば余計にその文句はお笑い草であろう。実際言葉を継いだ様からは、隠す気の無い嘲笑が透けた。
「落馬は矢数に勝りたり…でしたか。なかなか良い文句です、其の俄武家どもなんかより学薄い謳い主の方が余程真面だと見える」
「違いない」
けらけらと肩を揺らせた尊氏はだが、困ったような笑みで溜息した。
「…本に、もう少し真面な輩が揃っていればな」
「………尊氏さま、昨夜捕らえた賊…新田党の者と吐きました」
尊氏の言を敢えて遮って告げる。変わらぬ顔で其れを聞いた尊氏は、ちらと目を細めただけで視線を流した。
「白状したならば放してやれ、いずれにしても賊一人惜しむ義貞でもあるまいが」
「…左様で」
「他は何も吐かなかったのか?」
問いを継いだ重能に目線を向ければ、呆れた様に首を竦めた。…何時ものことだ、頑として口を割らぬのは。
この頃では珍しくも無い、その賊らの掲げる刃が狙うは足利の棟梁。そしてその刃に大義名分を与える者の名は、決して口に上ることはない。恐らくは、と察してもその程度で勘責出来る相手ならば抑此処まで大事にはならぬ。
その相手…大塔宮。最早手段を問わぬ其れは、政の中だけの諍いでは収まりきらないものとなりつつある。
新政が始まり、最初に朝議を紛糾させたのは軍功の恩賞沙汰であった。北条を滅ぼすに際して帝へ尽力した武家すべて、それぞれに対し功に応じた沙汰を下すのはなかなかに困難を極めた。やっとの事で下された其れは、確かに名を知られた面々の連ねるもの。しかし世直しなどと息巻いていた武士達の浮かれ調子を叩き落とす程に、その内容は明らかに公家寄りのものだ。
尊氏はと言えば所領に加え左兵衛督に従三位の位官を許された。また自分や尊氏の弟にも相応の位が与えられ、帝が足利の功を評していることは確かに知らしめられた。だが、堂上で流れる足利に対する危険視の空気もまたあからさまで、朝廷の兵馬の権を握る武者所に配されたのは全て新田党のものであった。公家中心の御新政に、足利敵視の中枢が帝の子息大塔宮とならば其れは半ば分かっていたこと。足利勢も尊氏自身も苦笑し流すだけであったが、事態は其処で収まりはしなかったのである。
「…どうにもこう…長崎といい、宮といい、俺は一度嫌われたら取り戻すという事が出来ぬらしいな」
寄りかかった縁石に体を預け、尊氏は呟く。大して苦くも思わぬ口調ではあるが、目端に漂う酷薄は揺蕩うような怒りを滲ませていた。実際新政の要職に就けることを阻んでいた様な頃と比べても、最近の排斥は白地に過ぎる。
新政が兎にも角にも体裁を整え走り出した後も、足利は第二の高時、と詰ってやまぬ宮に対して、武家側も段々と不満を隠すことがなくなった。復古の御新政などという美しい言葉面の謳い文句は、与えられぬ所領の価値の前では何の足しにもならぬ。
また帝は帝で、足利に対して…尊氏に対しては別な態度をとった。排斥声高な息子を寧ろ諫め、尊氏を懐柔することに意を置いた。この様な入り乱れた世相の中で奇妙なことに帝は確かに尊氏を気に入っていた。尊氏にしても帝自身には身分無しにも強く出れぬ所がある。北条に倦んだ尊氏の手を掴んだのが、後醍醐帝であるからだ。
その懐柔策はそして形式だけのことではなく、夏には位官を更に一階上げ、鎮守府将軍への任……そして名に御名から字を下してまでみせた。高時の字を取っていた高氏の名を、後醍醐帝の御名、尊治から尊の一字を宛て改めさせたのだ。それはある意味尊氏の主の名を上書くそれに他ならないが、しかしその内々の意味合いより何よりも、その破格の待遇はどの陣営にとっても衝撃で迎えられることになる。
「尊氏様、今度の御幸ですが」
「あぁ、石清水へのか…?」
一度息をついてから姿勢を起こした尊氏に、重能は続ける。その様を見やりつつ、廊から此方を窺う小姓を手招いた。
「矢張り自分をお連れ下さい」
「……、」
迷う様に尊氏は視線を落とす。月の末に帝の参籠に付き従い、石清水へ詣でることとなっている。当然その場に揃う面々は、新政の重鎮…詰まるところ大半が敵である。過度な武装紛いな真似は、帝を害す為だと謗られること必定。実際自分は足利の執事として館で帰りを待たねばならぬし、随行も大した人数ではない。
「この様な状況では六波羅を離れれば、何が起ころうとおかしくありません」
「尊氏さま重能どの一人でしたら、そう目角立てて咎めだても出来ますまい」
「…そう、だな…あぁ。重能が居てくれれば心強い」
頷いた尊氏に、軽く笑みかけた重能はだが寧ろ引き締める様に表情を険しくした。小姓の持ってきた文の束を受け取ってから、そっと溜め息を吐く。
この状況…―宮だけでなく、新政自体、早々と決壊の気配が日に日に高まるばかりなのである。 建武の新年を迎えまず、新政に相応しい大内裏造営が決議された。だが既に戦を経たばかりの国庫は火の車であり、その様な余裕は何処を探しても見当たらない。そうして国費捻出の為に発されたのが改銭の詔であった。楮銭という紙の銭を新たに発行し、その財源と為したのだ。更に降って沸いた其れを普及させ、財源を補う二重の意味で歳入の二十分の一という新たな重税が課せられた。一度確かに広まったかに見える楮銭は、だが直ぐに使い渋られた。悪貨に重税、と混濁に喘ぐ世で朝廷が人心を平らげる為行ったのは落首であった。北条の重臣や罪人などをを片端から斬首にかけ、晒した。罪に対する処罰を明らかにすることで清い政を示し、また実際脅威となりうる残党を生かしておけぬ程朝廷の余裕が無くなったのだとも言える。
当然ながら人心は寧ろ荒れる一方で、新政の非情に白けた目線を送るばかりなのだった。先ほど尊氏が揶揄ってみせた落書にしたって新政への庶民からの痛烈な批判であった。
「どうせ、宮などは寧ろ物々しい構えで参詣なさるのです…実際勘ぐる様な真似を成すには多少軍勢連れても足りないでしょう」
「…師直、幾らこの場だけといえど何処に耳があるか分からぬぞ」
「……申し訳ありません」
形だけ叱責してみせた尊氏だが、結局呆れる様に肘を付いただけだ。尊氏に叛心あり、などと知らされても宮は今更それこそ矢張りと思うのみだ。ただその口実に力を与えるのは確かに良い手ではない。
「にしてもまあ、まさか宮自身が切りかかって来ることは無いと思いますけどね…」
「だといいが、」
重能の言葉に尊氏は肩を竦めてみせた。今のところどんなに激化してもあくまで影に紛れての刃であったから、一切合切を薙ぎ払うことが出きるのだ。宮自身が捨て鉢になればその限りではない…とは言え流石に其処までの事にはならぬであろうが。
帝が尊氏に示した破格の待遇に沸き立ったのは、当然まずは宮だった。
父帝に提言めいたことを繰り返し、一派を集めて謀略を練るのにも頻繁になった。大体最早白地に敵意を押し出し始めたのはこの頃からである。
次に沸き立ったのは、不平不満に渦巻く武家連中であった。新政に失望していた彼らは新しい主を挿げ替えることを望み、そしてその候補を探していたのだ。帝から立てられ、また足利家ならば文句のある家系の筈も無い。彼らが先の戦に望んだのは、まさに世直しそのものだった。
―…戦の仕上げには戦を…―
そして急速に深まり、顕在化した危機に尊氏は寧ろ慎重だった。新政に尊氏なし、などと言われども六波羅から出廷も控え寧ろひっそりとしていた。
だが其れで止まらなかった謀略の矛先に、尊氏がとうとう黙って居られない事態になったのである。
文の字面を斜めに追いながら、繰っていく。すると次に現れた手は見慣れたそれで、裏書きを確認してからそのまま主に差し出した。
「尊氏さま…直義どのから文が」
「!貸せ、」
引ったくるようにして受け取った文を、尊氏はだが酷く丁寧に繙く。押し付けるようにしてその文面を追っていた尊氏は、しばらくしてそろそろと顔を上げた。
「…大事ないと」
「よう、御座いましたね」
「あぁ…」
今更ながら恥ずかしげに目を伏せてみせた尊氏に、重能と目を見交わす。漸く、といった風情で柔らかい笑みを浮かべた尊氏は流麗な手で綴られた文を暫くただじっと眺めていた。
帝が下した其れに紛糾した夏が過ぎ、そして冬が訪れ建武新年を迎える直前のことだ。北畠顕家が奥羽鎮守にとあてられ、義良親王を掲げ東北へと下ることになった。そしてそれと時を移さずして、関東へも成良親王が下ることになった。関東と東北、両地に親王という朝廷の抑えをきかすことで各地の武士を牽制するというのがその題目ではある。確かにもともと北条は関東に栄え、実際其の地に残る禍根はまるで絶えることを知らぬ。
そして、その関東に下る親王に相模守として付き従うことになったのが、他でもない尊氏の実弟、足利直義だった。
足利尊氏が、その弟を片腕と頼み重用していることは周知の事実。その直義を遠い関東へと赴任させるというのは、尊氏を除外する一手であること露骨であった。
六波羅でどちらかと言えば慎んで日を送る様子であった尊氏も、此れには即座に顔色を変えた。しかし形で見るなら相模守への召し上げ、親王付きの重用と文句の付け所のない栄転である。幾ら宮側の意図が明らかとはいえど、尊氏の私言で如何にか出来ることではない。結果その十二月、顕家を追う様にして直義は関東へと下った。――…これが十月前のことである。
「…穏やかに過ごせているならいい…重能」
「は、?」
「憲顕はお前の義兄だったか」
唐突な尊氏の問いに重能は、暫し瞬いてから首肯する。
「ええ、その通りですが…」
「よく働いてくれていると、直義がな。伯父上にも御礼申し上げねばな」
「…………は、あ」
戸惑ったような間が空いて、重能は何ともいえない顔でもう一度頷いた。
訝しげに尊氏は首を傾げるが自分にもその訳は分かりそうにない。重能の義兄、尊氏の伯父上杉憲房の跡取り息子である憲顕には、尊氏の父貞氏の葬儀で見かけた位で、殆ど面識がなかった。尊氏自身もそうであるから、重能が視線を外すと別段言及もせずに文を畳んだ。
「関東は、矢張りきな臭いな」
「…そうですか、」
立ち上がった尊氏は裾を払うようにして、伸びをする。
関東の不穏さは勿論北条の残党、朝敵の蠢動が表に出てきた証でもある。しかし直義の文の伝えるところとなれば、其れは些か異なる意味を帯びる。関東、鎌倉と言う武家の本拠地に残る武士達を取りまとめる鎌倉鎮守府…その長である直義の言であるならば。其れは正に足利側にある武家たちの鬱積していく朝廷への不満そのものだ。…――彼らは”戦の仕上げ”を欲している。
激化する宮の排斥と、高まりゆく関東の気炎、どちらにせよ何か糸が切れる寸前のように張り詰めている。
その糸の上を歩む尊氏がどちらに足を傾けるか決した瞬間、その全てが織り成したものは、形を変えざるを得なくなるのだ。
「……心配させている。…もう、一月程も猶予は無いのやもしれんな」
「……」
立ち尽くした尊氏は、ついと秋空を見上げて黙り込む。厳しい横顔に漂うものは、先程までの色とは余りに違う。
尊氏が直義を片腕と頼んでいることは、確かに周知の事実だった。
だが尊氏が斯うもその弟を重んじていることを、理解しているものは幾人いるのだろう。年の近い二人だけの実兄弟として、幼い頃から常に共に在った。二人だけの間柄の深さはいうまでも無く、尊氏の公の態度にしても、弟に意見を求め要職を宛がい、と足利家当主の自身の重用をあからさまにすることで常に某かの牽制を行っていた。直義の方にしても、そんな兄に付き従いその手腕を奮うことでその地位を確立していった。
尊氏がただ直義が為に足利の家を継いだことを自分は知っている。直義がただ尊氏の為に己が意に沿わぬ朝廷の仕打ちを黙って受け入れたのだと知っていた。
「近いうちに、京へ訪ね来れるかも知れぬと」
「!そう、ですか…」
「……」
漏らされた声音は、矢張り隠しようの無い寂寥を帯びていて、そんなところばかり切なげだった。遠き地、しかも十月も離れること自体がこの兄弟には初めてのことだ。しかし向き直った瞳には、何処か暗く切り研ぐ様な光。
「終わらせる…近いうちに。」
ゆらりと見下ろす視線で風の軌跡を追って見せた尊氏に、密かに背を震わせる。穏やかに椛舞う庭で殺気めいた其れをあからさまにする姿は、戦場の其れよりも何処か昏い。血色に染まりゆく葉が、何処までも鮮やかなのはそれでもその彩が目を惹く美しさであるからなのだ。
実際、もう後戻りは出来ない。
准后の気に掛かることは世継ぎ。既に皇太子と定まっている御子はだが北条の血を引く准后廉子の子。対して大塔宮の御子は生粋の帝筋だ。陰口に過ぎぬ、今はまだ下種の勘繰りで済むような種に過ぎぬ。しかしその事実を不安に思うことが真であるがゆえに、その種は決してなくなることが無い。
――…撒いたのは自分、撒かせたのは尊氏だ。
近いうちに、必ず某かの帰結を迎える。
必ず。
「…重能、悪いが伯父上に言伝を頼んでもいいか」
「は、」
「月を変わって幾日かしたら…、一族郎党集めて頂くことになろうと」
「……承りました」
恭しく礼をした重能は、そしてから力強く笑んだ。尊氏も解れかかった髪を払って、ただ精悍な笑みを浮かべる。
如何なる事態になろうとも…、結局は自分のすることは変わらない。この主に従い、その道を開けばよいのだ。
吹き渡る青は、何処か薄い。地にばかり鮮やかさの増しゆくこの季節に、何故か一抹の寂寥と、最早別れだけが遺されたその余地への哀れみがじわりと滲んだ。
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