息苦しくないのか、とその横顔に尋ねてみた。
密閉された色も無い箱は、確実に軋みゆく。真新しい柱が橈み、天井がひび割れ
ている。
だが何処からも音がしない、静止画のようだ。
物珍しく、だが私は妙に穏やかに彼の傍らに座していた。
私が欲しかったものかもしれない、と思った。
過ぎて行った過去の時間の中で、幾度もこの沈黙を求めていた気がする。決まり
悪い、苦い、と投げ捨てた場面の中で幾度も。もう数える程も覚えてはいないが
。
煩わしいものが嫌いだ。
ただ此処ならばそれが無いだろうという、軽薄な理由と心だった。
当たり前のように、静謐で清浄な此処を所有している彼を、私は羨望していた。
なのに何時も何時でも、出口がない場所に取り残されたきりの彼を、哀れんでい
る。
口元に指を宛て、彼は少しの間思案していた。
――…どうなんだ?
綺麗に切り揃えてある爪が、唇に押し当てられる。白い歯が覗いた。虚に伏せら
れた目元と不調和に、上顎は意思を伴って動く。…滑りぶつかった前歯同士が、
音を立てた。
…がつ、
「……顕殿、」
「………ん」
「起きてください。もうすぐ、軍議ですから」
「、ああ」
瞼を開ける。直義がいつも仕事をする、室だ。そしてその主は、少しからかうよ
うな、だが曇った微笑を浮かべていた。
寝転がったまま、たった今自分の肩を揺り動かした白い手を掴む。力ずくで間近
に引き寄せて、指の先をしげしげと眺めた。座っていた彼は引きずられて腰を浮かせ、膝立ち
になる。
「あ、の…」
夢で見たそのままに、
「悪い癖だな」
「……何がですか?」
撫でてみれば、彼は急に私を振りほどいて手を引っ込めた。その頬が朱くなる。
そしてよたよたと立ち上がり、どうしてよいかわからないように私を見下ろした
。
己の親指の腹に残る感触が示すのは、撫でた人差し指の爪がいびつであったこと
。
「誰にでも悪癖はある」
「……」
「直義殿は行儀が良すぎるからな。むしろ安心した」
「貴方だって、人の室で居眠りだなんて」
「いや悪い、失礼した」
「でも眠っていてくれて助かりました」
胡座をかいて不躾に見上げれば彼の目は血く腫れ、雀色の瞳孔は細かく震えてい
る。
私が夢うつつをさ迷う間に、また何かがあったらしい。
「泣いていたのか」
「はい」
直義は頷いた。
もう全て済んでいると、暗に示していた。
書机の角と重なるようにと、きちんと重ねられた紙。閉じられた硯箱。
荷という
荷はもう何も、残されてはいない。直冬や奥方、姫君も数日前にこの館を出ている。
張り詰めたこの整然さのなかで、私は眠り、彼は泣いていたと言う。
「夢とは何を映すのだろうな」
「無意識の、畏れか、願いか。それが全くの幻想か、或は本来なら誰も知り得な
いような真実なのか。それすらも解らない」
「知る術もない、か」
「だから以前に、『たかが』とおっしゃったのではないのですか」
「まあ、ね」
廊に立ち止まった陰が、控え目に時を告げた。
済んでいると知りつつ、前を歩く細い背中に、それでも私は問い掛ける。
「何故泣いた?」
「渋川刑部殿が亡くなりました」
「そうか」
その続きを、直義は一度躊躇った。息を吸いかけてまた吐き、結局次の言葉まで
、僅かな時間を要した。
「彼は妻の弟であり、私の良き友人でした」
日が暮れはじめた空はうす暗く、空気は妙に湿り気を帯びている。さぞや寝苦し
い夜だろう、などと場違いなことを思いながら腰を下ろした。自分はさっき、あ
んな所で睡魔を貪っていたのに。
灯された行灯の炎が、却って室内に陰欝な影を落としている。
北条高時の息子、時行が兵を挙げこの鎌倉に向かっていた。
召集された将軍府の官僚共に、関東の地の有力豪族、大名、それと直義の近臣が
少々の合計十数人ばかりが、皆沈痛な面持ちで座している。
集められた理由を知らない人間など、この場にいよう筈もなかった。
皆が揃ったのを認めると、奧に座す直義が口を開く。
「ご足労有難うございます」
全員が静かに一礼する。
普段戯いもなく軽口を叩き合う三十もいかぬ同年の男に、一回りも二回りも年老
いた輩が頭を下げている。直義が将軍府の執権であり、事実上の主導者であるこ
とを今更の様に思い出した。
「状況を」
師秋が懐から書面を取出し、読み上げる。
「北条時行、諏訪頼重およびその子時継、滋賀一族に擁されて信濃にて挙兵。
同若狭五郎、芦名判官入道、那和左近大夫、清久山城守、塩谷民部大輔、工藤四
郎佐衛門以下宗徒の大名五十余人がこれに加わり、五万余騎。
時行、その軍勢率いて武蔵から鎌倉に攻上。
渋川刑部大夫、小山判官秀朝、武蔵国にて向いうつも敗れ、両人所々にて自害。
新田四郎、上野国利根川に支えてこれを防がんとするも、敵目に余るほどの大勢
なれば勢力を砕かれ大敗。一族家人自害。」
自害。
言葉の余韻も消えぬうちに、緊張と焦り、そして不安に満ちた空気が室内にたち
こめた。
聞き及んでいたものより遥かに危険な状況にある。
声にも顔にも出さぬものの、お互いの困惑が伝わっている。もはや隠そうとする
必要もなかった。ただただ何かに耐える様に黙って、誰一人微動だにしなかった
。
「時行の軍は三方よりこの鎌倉に迫っています。攻め入られるのも時間
の問題でしょう」
朗々とした直義の声だけが、鮮明に浮き上がって聞こえてくる。よく通
る声は、この様な場面に似付かわしくない様で妙に効果的だった。
沈黙が、更に濃くなる。
「ひいては、」
そこで一度口を閉じた。躊躇っている様な声色ではない。ただ、間をはかっている
のだ。
「鎌倉を捨てます」
「なっ…。」
動揺が走る。堪え切れず声を発した者もいた。
にわかに石が投げ込まれ塵が舞うかの様に、場の空気は乱れた。
直義は尚も続ける。
「速やかに鎌倉を経ち、東海道沿いに三河矢作へ向います。そして成良親王を京
へお移し申し上げる」
「だがしかし」
一人が勢い込んで声を張り上げた。
兼ねてからの天皇の親派であり、将軍府に睨みを利かせていた武将である。
「意見があれば聞きます。遠慮なく仰って下さい」
直義は表情を変えず、目線だけをちらりとその熟年の武将に移した。
「帝より賜りしこの関東の地。そう易々と見捨ててよいものではござらぬ。身を
投げうってでも北条が軍勢を向かえうち、帝に忠義を尽くすべきではないのか」
威圧的な低い声が響いた。
確かに正論だ。僅かに同意の声が上がる。
帝に忠義を、尽くすならば。
「盛敦殿は反対、というわけですか」
「いかにも」
直義は素直に軽く頷いた。この何気ない仕草に、言葉の意味を悟る。
確かに意見を聞くと言った。
だが「聞き入れる」気などは更々ないのだ。興味がないと言ってもいい。本当に
、ただ「聞いた」だけなのだと。 表面上は素直に、意見を伺っているように見えるだろう。至極
真面目に普段仕事をこなしているなら尚更だ。
こうでなければ、とおもしろがって見ていた。言葉の綾を、平然と、悪
怯れもなく使っている。
盛敦からじっと眼を離さぬまま、直義は淡々と言葉を紡ぐ。
「帝の忠義にむくいる。それを何よりも重んじるからこそ鎌倉を捨てよ、と申し
ているのです。鎌倉など一度捨てようとも京からの援軍を賜れば容易く奪い返す
ことができましょう。しかしながら帝の御子でいらっしゃる成良親王が御命は唯
一つ。その親王の御命をお守りし、安全な京へ御移し申し上げることこそ先決。
時は一刻を争うのです。北条を討つのはそれからでも遅くはない」
「…」
理には、適う。
帝への忠誠、という理由を逆に利用されてしまっては反論の余地などないだろう
。
理を立て、理を分けるという点に於いて、直義は優れている。しかし結論を決定
するのは常に直義の主観であり、必ずしも理ではなかったが、なかなかそれには
気付け無い。
返事を急かすように、彼は無表情のまま中指で床を叩いた。
叩いては止め、止めては叩く。
何かを数えているかのようなその規則的な音が、更に空気を重くし追
い詰めていた。
分かりきったやり取りが、退屈なのかもしれない。
直義はそれを敢えて示したいのかもしれない。
きつい男だ。
平然としているのに触れがたい。
諸武将と個人的な親交があるような気配は無く、始終静かな彼はこの場で間違い
なく威圧的であり、支配者であった。
「…意義、なし」
盛敦は小さく呟いて堪らず顔を伏せた。青菜に塩、という表現が相応しいかもし
れない。
さぞや屈辱であろう。
「では、盛敦殿。親王をお連れして、鎌倉をお発ちください。今すぐに、親王の
お屋敷に向って下さいますか?」
急を要しますので、と小さく付け足した。有無を言わせぬ口調だった。
「承知。」
静かに席を立ち、部屋を出ていく。他の幾人かも、同じ用件を申し付けられ退室
を促された。
数人去っただけであるのに、室内が急に閑散とした様に感じる。
直義は指の動きを止めた。そしてゆっくりと立ち上がり、ある武将の前
に歩み寄った。
「淵部伊賀守義弘殿。」
尊きものを呼ぶように、名だけが、凛と響いた。
俯いて畏まり、だが不安か期待かを堪え切れず仰ぎ見た彼の前で腰をかがめる。
そして目線を合わせると、そっと耳元に顔を近付けた。
…漏れ聞こえる音は、言葉を形作らない。
ただその真実を直接賜った彼に、ほんの少しいびつな劣等感が芽生えたりだとか
。
残る諸将を眺め渡せば、そんな色がたやすく読み取れる。
特別扱い、贔屓、それが直義の支配の形だ。意図的なのか、彼の性分では自然とそうなってしまうのか。
いずれにしろこの場では上手くいく。
義弘は直義の命通り、例えば大塔宮すら殺す、羽目になる。
「此処にいる方々はもう、支度は済んでいる筈ですね。明日、早朝に発ちます。
一路、三河へ」
この度の乱は、当然予め見通されていたものだった。鎌倉を捨てるということも、実を言うと一部の人間には数日前に開示されていた。
重能は義詮を送る為に、とうに消えている。
直義はここ最近の鎌倉の様子を手に取るように把握していたし、武蔵に諸将を送り算段を整えていた。
そして、命を惜しめ、とも命を与えていた筈なのである。
だが防波堤が崩れるのは思いの外早く、彼は義弟を失った。
ただの時間稼ぎをしてもらうつもりだったのだろう。策は成っていた。しかし実際の戦は、彼の策の通りには動くまい。
そうして生まれた尊い犠牲に受けた、直義の衝撃と落胆は如何程のものであったろうか。
此れからの戦は間違いなく、更に彼を蝕み、追い詰めていく。
「今日はゆっくり体を休めてください。鎌倉最後の夜です」
最後にやっと、感情の篭った微笑を口元に滲ませると、直義は席を立ち颯爽と出
て行った。
彼が議の後に早々と出ていってしまうのはもはや当たり前の事。
そして誰も、追い掛けようとはしないのだった。
「息苦しくないのか」
「何がですか」
「何とは言わず、全てだよ」
現の直義は、夢の中よりも余程くっきりとした確かな輪郭を持つ存在であった。勿論、心の上でも。
その証拠に、彼のあの悪癖を私に曝すわけも無く、ただ少し俯いただけだ。
「どうなんだ」
一瞬、見覚えのある虚ろな気配が漂った。しかし膝の上の手は動かず、彼は急に凛と私を見据えた。
「足利の名はともかくとして、大器も人徳も無い私が、こうして鎌倉のまつりごとを執る立場にあれたのは何故だと思いますか」
「頭が回るからだろう」
「いいえ、違います」
寄せた眉には、怒りに近いものが滲んだ。そしてまるで吐き捨てるように、彼はいつになく語気を荒くした。
「私が自由に価値を感じないからだ。息苦しい中にしか、きっと自分を形作れない。今だってそう、詰まる程の自己嫌悪と後悔に押しつぶされて、追い立てられて、
私はやっと歩むことができる」
なんと弱くて醜い、と、直義は囁く。声は萎み、続きは沈黙になった。
不思議と其処に哀しみなど弱いものはなく、ただ目の前のこの男をより明確に描き出しただけであった。
直義という男に、私はやっと今になって心からの言葉を投げるのかもしれない。
そしてそれは、何時も心の内にあったものと真逆のものであった。
「いいじゃないか。それは貴方の強さだ」
「そうでしょうか」
「羨ましいよ」
夢は『たかが夢』だ。夢に過ぎぬ。現より無価値で、愚かさに塗れた代物に過ぎぬ。
上手く手中に収めたと思ったのに、今になってこの男の存在の遠さを思い知った。
こうでなくてはおもしろくない。
哀れみなど挟む余地もなく。
握り締めるには脆く、この掌にに余るものでなくては。
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