外つ国の古典を思い出す。その手に覇権を握った男が、腹より生まれ落ちる朝、母親に陽の夢を齎したという。燃え上がる様なその光はだが、暖かく降り注いだ。男は晩年変節するまでは確かに人を良く用い国を治めた。その女は、以前にも星を産む夢を見ていた。月を抱いたその夢は、やはり陽の男が兄の生まれくる前夜に。快活に全てを統べる力を持った彼はだが、質は寧ろ灼き尽くす陽の其れ。苛烈な其の性は、男が命を若くして散らせる程高く燃えた。

…そういえば歴史書の彼らも、兄弟だった。今更のような思考は、散り散りに落ちゆくばかりに。







沸き立つ様に暑い。初夏を越え、益々暑気盛んな時期。立ち尽くしているだけで汗の滲む熱気は、ゆらりと回廊の種々の意匠を揺らがせている。京の夏を過ごすは初めてのことではないが、慣れ親しんだ鎌倉の其れとは違いすぎる。山から海へ抜ける風は、夏とて背伝う汗を冷ました。午を越す前に、主に従い出仕してきたのだが、官服の煩わしさに辟易するは決して自分ばかりではなかったようだ。

なのに眼前に立つ壮年の男は、その様な暑気など何処吹く風と言わんばかりに涼しげな顔だ。ごく自然に刻まれた笑みは泰然と、常に男の余裕を浮かべている。この男が慌てふためく姿を、過去に自分は傍らで見たことがある筈なのだが、それが夢幻だったが如くにすら思う。


「執事殿、殿は室にいらっしゃいますかな」
「憲房様、…尊氏さまは先ごろお出掛けに」

そうですか、と飽く迄笑みを崩さぬ憲房を無言で見返す。面当てのように睨め、自分でもその視線が次第に尖るのが分かっていた。尊氏にこの場を見られれば、心底呆れられそうなものだ。憲房はちらと視線を流し、某を思案する様に態とらしく黙り込む。睨み付けるその行為にすら疲れて、肩を落とす。暑さに任せて、いっそ自分も館から奔り出てしまいたい程だ。―…何故、尊氏の周りはこういう人種ばかり集うのだろう。婆沙羅と呼ばれたかの者にしろ、憲房にせよ…帝にしても。もう少し真っ当な人間がいても、良い気がするのだが。溜息を殺し、そもそも尊氏が真っ当かどうかとまで考えて、諦めてその思考を擲った。



上杉憲房、尊氏の母方の伯父である。尊氏の父、貞氏は病がちで長く床に臥せていた。貞氏の側妻として一人家を支える妹を哀れんでか、憲房はあれこれと世話を焼いた。有能な宮人であって、京に館を構えその任を果たしていた憲房はだが、それ故に屡々足利荘を訪った。

憲房はどこか底知れぬところのある男だった。権謀術数渦巻く宮内で能く立ち回り、上杉が家の隆盛を担ったは他でもない憲房である。付け込む隙を見いだせさせず、情よりも理を重んずるは、ある意味当然と態度と言えた。

だがそんな憲房は、幼い跡取りの尊氏だけは無条件で可愛いがった。尊氏にしても、憲房には甘えて接する様に見える。若殿はお父上の跡を継いで立派な君主となられよ、と厳しく勉学を説きながらも、市中に尊氏を連れ出して喜ばせていた。

元服を見据える年頃にはそこまで頻繁に足利荘を訪れることはなかったが、やり取りは多く、節々の儀では必ず顔を出した。十五で初めて上京した尊氏の世話を焼いたのも、憲房である。



「それで、本日は如何様な御用事ですか」
「…殿に於かれましては定めし、阻喪なさっておいでかと」


ぎくりとして伺うが、瞳に浮かべる沈痛な色合いは、真情の其れだ。密かに独り言ち、戒める。…少なくとも、憲房は尊氏の敵では無い。寧ろ庇護者なのだから、不用な隔意は尊氏が為にもならぬ。…だが。


「……未だ鎌倉に兵至ることは無きと、聞いております故、辛うじては」
「…不味い時期に中りましたな」



北山殿の手入れがあったのはつい先日だ。

今年に入って各地で北条の遺臣が蠢動を繰り返していた。別段大げさなものではなくその都度抑えられてはいたが、度重なる其れは確かに新政に大きな影を落としていた。元々新政不信の民心は高まる一方である。楮幣による物価高騰はもはや収まるところを知らず、絢爛な都の影は見えぬ場所で確かに深まり続けた。尊氏と宮の対峙にしても、公武の違和の、正に両者の頂点での発露である。

中央のそれらの不穏に付け込むが如くに、大体新政のきちりと建つ前から動乱は度々繰り返されていた。だが今年の蔓延の状は、単なる蠢動の域を越えている。

外患に憂える正にその矢先。朝廷の重臣たる、西園寺大納言が帝を陥れ奉る企てをしているという話が浮上したのだ。大納言公宗と言えば家柄は七清華の一人、臣の栄を極める北山殿、重臣中の重臣とも言える程の人物だ。その北山殿が館で、北条残党の輩が匿われ今や今やと帝を手にかける機を伺っているとの知らせ。即日館に手入れが入り、匿われていた数人と大納言の首が忽ちに飛んだ。未遂とはいえ正に青天の霹靂。朝廷の深部からの裏切りは、大きな波紋を招いた。

…これが六月二十二日の事。そしてこの事件は、それだけでは終わらなかったのである。


「…憲房様、宜しければ今から尊氏さまのいらっしゃる処へお連れしますが」
「ご存知でしたか」
「…珍しく、最近は気遣って下さいますので」


笑みを張り付かせた貌で、憲房は続きを促す。いい加減逆に繕う様に険相を浮かべるのも莫迦らしくなってきたので、素直に問いを継いだ。

「こんな時期に、余計な事をして…何をお考えなのですか」
「…全ては殿が御為に」
「尊氏さまが納得尽であろうと、私は承伏しかねます」


しらりと嗤う憲房は、至極穏やかな色で此方を見返すだけだ。尊氏は何故こんな伯父を慕うのだと、今更また八当たるように嘆く。


「―…重能どのが鎌倉に向かったは、出奔ではなく、命なのだと尊氏さまに伺いました」
「殿が命なればこそ」


ふいと踵を返し、厩の方へ歩を進める。そんなに遠くではないが、帰りには日が暮れるかもしれぬ。馬を牽いた方がいいだろう。


「白々しい事仰らないで頂きたい」


呟きにしては聞こえよがしの大声だった。案の定策の拙さを嗤われたのが分かったが、構わずに続ける。…午を超えても日は、未だ厳しい。


「ただでさえ微妙な時期ですのに…上杉が意故の事だとするならば、看過出来かねますが」
「執事殿、…いえ、では詫びましょうか。しかし此は時期が読み違い、専ら私の不明によるものであって、その点でのみ殿には心底申し訳無く思っています」

「……」


昨年の年暮れ、捕らえられた宮が鎌倉に移送と決まり慌てたのは当然、受け入れる鎌倉の直義達であった。京から遠くそしてかつ尊氏が力の及ぶ地など、他に選ぶべくもないが寄りによって、あの宮、だ。その移送には様々な思惑が入り乱れた。尊氏にしても、真っ先に直義が宛て長々と書状を認めるが精一杯で、各種の調整に心を砕くことしきりであった。そんな最中に、不意に重能が京を出たと聞いた。更に聞けば、宮護送にと急ぎ発ったらしい。だが宮を預かる形となっている近江守、佐々木道誉すら未だ京を発たぬ内の事だ。訝しみ尊氏を問い詰めれば、今一歯切れが悪い。別途に憲房が尊氏に説明をとその日朝早くに目通りしたことを知ったは、数日後の事だった。

宮が脅威の取り除かれた直後、当時は腹に据えかねると迄はなかったが、今の状況下となっては痛い手落ちである。裂かれた手が上杉が独断であるとしても、直義の事を考えるが故に、尊氏は自身の整理を付けかねている。


…北山殿の事件と共に齎されたのは、北条が計。曰く西園寺卿が手引きで帝を弑虐奉るに併せ、亡き高時の一子時行を掲げ、関東総大将とし蜂起するというもの。途方もない陰謀に戦慄する朝廷を嘲笑うが如く、北山殿の手入れのあった数日後、確かに示し合わせて北条の旗があがった。信濃、加賀、能登、越中と続き、入念に練られたゆえか隙のない進軍を続け、瞬く間に各地の守護国司等の軍を打ち破った。…そして一路、鎌倉を目指している。鎌倉にも軍はいるが、到底その勢いを止められはしないだろう。

―…そしてその鎌倉には、直義が、いる。








馬を走らせた先は、開けた草原の中、小綺麗な井戸の佇む池のある小さな場所だ。
探す姿が見える前に馬を下り、手綱を低木に括る。憲房を振り返り、此ばかりは暫し迷い迷い言葉を紡いだ。


「―…尊氏さまが迷うのを、厭うておいでですか」


無言で抜ける様な蒼天を見上げていた憲房は、だが静かに首を横に振った。


「執事殿、殿は迷うている訳ではありません…迷いの中にあらねばならぬ、と思われているだけです」
「…?、…」

「…直義様の方は、不肖の息子共にお任せ下さい。殿がお嘆きになる事にはならぬよう尽力させましょう。…ただ殿が、直義様が。お二人がご決断為さった事で、他に如何な事を誘引するか…それは私にも分かりませぬ」


事は火急を要し、鎌倉は多勢に無勢。だから自身が鎌倉に下り、直義に援軍となしたいという尊氏の奏上はだが、受け入れられることはなかった。同時に請った、征夷大将軍の印綬…これが公家の反発を買っているのだ。

繰り返される各地の蠢動を抑えるに、幾度となく帝が頼っていたは他ならぬ尊氏であった。八方手配し敷かれた軍政に、確かに足利が名の力は弥増すばかりだ。公家にしても朝廷を守るが為には背に腹は、といった態度であったのだろうが、その権の増す自体を喜ばしく思う筈も無い。ましてや、軍事全権の委任となってはいわんやである。足利の力を削ぐには、先々朝廷に降り懸かる災禍を顧みず、ただ短絡に直義を見殺すが吉とすら思う者もいる。

毎日の様に参内する尊氏が、日増しに苛立つは兵の進みに較ぶべきも無い、裁可の遅滞にあった。


「…、重能どのが何も言わず直義どのが処へ向かったことに、尊氏さまが何も感じなかったとお思いか」
「…いえ、実際、お伺いしました」
「…は、」


さくりと踏みしめたしなやかな緑は、だが見た目にそぐわず力無く折れ拉げる。水の匂いが鼻腔を掠め、ひやりと抜けた。



「……殿は、殿が御自身を持て余してらっしゃる」
「其れはどういう、」
「いえ私からは…勘違い為さらないで下さいよ、私にもよく、分からぬのです」


ただ、御自身を何より恐れるが如きに、私には。酷く平坦な声音が、そろりと足下に落ちる。じりじりと漂うような曖昧な暑さは、蟀谷を伝う雫を掻き消すには足りぬ。晴れ渡る草原なのに、逼迫した息苦しさに顔を顰める。

決めねばならぬ事は多い。待たれている選択はだが、最早ただ一つのみが浮き上がるように目の前にある。

…尊氏がその選択自体を恐れるのではないとするならば、一体何が脅威足りうるのだろう。



頷きかけて、憲房と共に遠く見える井戸の方へ歩む。
尊氏を案じる憲房の双眸は、だが何処か凍らせた冷厳を以て高く輝く日を見据えていた。



「…―尊氏さま」

涼やかに広がる池に、飛び石の様に疎らに突き立つ岩々。尊氏はその一つに腰掛けて、薄衣を脛に上げ下肢を水に浸していた。戦ぐ風に時折垂れ髪を遊ばせる横顔は、しかしいっそ楽しげに綻んでいる。

「ああ師直…と、伯父、上?」

当惑顔で首を傾げた尊氏に、憲房は困ったように笑み返した。池辺に佇む此方へと振り向いて、だけれども尊氏は動く気配を見せず座り込んだままでいる。


「どうか、しましたか?」
「いえ偶々殿の御機嫌伺いに参らば、この様な風変わりな目通りになったまでで」

それは、と尊氏は悪戯を咎められた童の様に首を竦めた。微笑ましいとすら言えるやり取りなのに、側に立つ気配が緊張を帯びるのを否応無しに感じる。
…―切り崩されているのは、朝廷がその力だけではない。脅かされているものが、鎌倉の直義である限りは。

御機嫌伺い、と皮肉げに口先でなぞって尊氏は肩を揺らす。再三繰り返している奏上。抑えられ恐れられ、堪えることは新政下に於いて常に尊氏に課せられたことだ。投げやりに口の端を歪める様はだが、最近の捻くれた情勢下には力無く浮かべられるのみ。

不意に尊氏は水面に目を戻すと、凝っと中を覗き込んだ。



「…俺は立ち回りが下手なのでしょうね」


遜って、先兵足ることだけを望めば叶えられるでしょうが。漏らされた言葉は、自嘲にしては極々冷ややかに滑る。そもそも公家の反駁を重々見据えた末の奏請だ。上滑りするは、語調それだけでは無かった。ちらと尊氏は視線を呉れると、池中を綯い交ぜるかの様に足を揺らした。


「…てっきり、伯父上は俺を説き伏せにいらっしゃったのかと」
「殿、」


ようやっと笑みを収めた憲房は、気遣う様に言葉を遮る。だが尊氏は構わずに、響きを乗せた。


「…―大逆人の肩書き其れ自体は、別段悪くもありませんが」
「尊氏さま…!」


戯れるように述べながら、切り捨てるが如き物言い。唐突に走らされた咲みは、礪がれた刀の鋭さ。

尊氏が帝へ抱くは、実のところ公家共が描くより余程輝かしいまでの忠心であるように見える。其は此処まで敵愾心を抱かれながら、いっそ愚かしいまでに率直だ。だからこそ後醍醐の方にしても、切るに切れぬと図らずして贔屓分も露わといった節がある。
六波羅が動き、それは尊氏の胸三寸に託されている。また同じくして、尊氏を朝廷が兵として掲げ挙げるも、京に縛るも…そして尊氏が示唆する其の様にも。その処遇も全て帝が一存の如何にある。

「…過ぎた言葉は危うきを招きます」
「伯父上、飾らねばならぬのは俺の言葉ではありません」
「……」


沈痛に言葉を途切らせた憲房は、だが躊躇いつつも黙り込んだままでいる。
先程聞いた言葉が耳に蘇り、つい尊氏を見返す。…尊氏が迷いは一見明らかに思えるのに、憲房は其れは違うのだと言う。

北山の手入れから一月が、経とうとしている。聞こえくる敗残の悲鳴ばかりが鮮やかに、屍を並べるまでの窮状を告げる。


「尊氏さま、鎌倉は危殆に瀕しております。…一両日の内に、攻め落とされるとの噂、さえ」


吹く風が水面を叩き、弧を描く。己が足に寄せた細波を見やり、尊氏はふと声音を落とした。


「俺が望めば、叶うか」


暗い、声色ではない。だが何処かぐらりと煮立つ程の暗憺を覗かせた。

「殿」
「望まれれば、良いのでしょうか」

唐突に足を引き抜いた尊氏は、岩の上を裸足で踏みしめて向き直った。踝に伝う水滴が、遠慮を知らず日の光を弾き煌めく。漆黒の瞳は濡れて、此方を見据えている。慕わしい、主の其れが。切り研ぐままに問いを継いだ。


「そのようにあれ、と」


もし、尊氏が印綬を得ぬ侭に京を出るならば。

喉を灼く乾きは、紛う事なき歓喜。

そうであればいい、…そうであれ。印綬など、帝のそんな下らない執着など、尊氏には無い方が、いい。京を出て鎌倉を獲り、今こそ武家を取りまとめてしまえば。そして尊氏がその上に立つならば。抑えられ恐れられ、堪えることなど、もう必要ない。そうであればどんなにか。

一瞬で駆け巡った慾が、酩酊したかの様な心地を引きずり出す。ぎくりとして我に返れば、決まり悪げに眉を顰めるは、傍らの憲房とて変わりがなかった。





…夢を見るのだ。

日を月を、産むかの様な輝かしさ、腹の底から冀う渇えを満たす夢を。尊氏が上に描き、そうであればと。夢を齎す力、それこそが尊氏自身の統べる全てを確かにするような。出来る、叶うるだろう。尊氏が望むのであれば。

「殿、それでも…殿が御自身のお望みのままに」
「……」


今度こそ惨憺たるまでに食い散らかされた痛みを隠さずに、尊氏は嗤う。


澄み切った池に足を浸し、尊氏は凝っと鏡写しの己が姿を覗き込んでいた。死んでゆく鏡像を、悼むでもなくただ瞳に収めてゆかねばならぬかの如く。


足利家は、武家が名門。その当主として、尊氏は立っている。今のところ、は。 人を統べ望みを叶え、そうして国をも掴む。絵空事ではない、既に引かれた様に鮮やかな軌跡として、尊氏の道程を導くだろうに。―…其れは誰、が望んだことだったか。

御自身を何より恐れるが如きに。脳裏で繰り返される台詞が、目の前の主の姿に重なり思わず瞑目する。泉下に弔われ悼まれるものが、尊氏の中では既に決まっているというのだろうか。



夏日、時は七月の十九日を数えた。
気だるく漂う暑さの中、嵐の到来を告げる遠雷の響きが木霊している。




「…、師直」
「は、い」

思いの外穏やかな声に仰ぎ見れば、綺麗に笑んで尊氏は言う。

「沓を失くした」



全ての事を決め、選び取りそして棄てねばならぬ。軋んだ金輪同士の弾ける様に、 それは崩れ落ちる刹那に、全てが。身震いする程生々しく、その気配は自分を、そして目の前に立つ人を席巻している。


うっそりと主は笑う。嗚何もかもを、持て余すばかりに!








補足
泉下の泉は、当時は所謂黄泉のことだったらしいです。  

この時点で師さんは兄貴の動向を知り得ないので色々決め付け。
伯父上の方はわかってて敢えて否定してないだけ。


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