「大丈夫か?時行方に付く気だという噂もあるぞ」
「入江庄は元得宗領でしたが、朝恩によりこの二、三年で繁栄を賜ったそうです
。更に藤原北家の縁ですし。我々は官軍として三河に向かうわけですから、義に
厚い春倫殿ならば断れはしないでしょう」
直義の読みは正しかった。その日の夜には迎えが現われ、矢矧宿の陣でしばらく
汗馬の足を休ませられる運びとなった。そしてすぐに、京へ早馬が立てられた。
しかしこの頃、もう鎌倉は時行に攻め入られていた。
三河の空は厚い雲に覆われて、昼間といえど薄ら暗い。その色が耳障りな蝉の声
と不釣り合いで、何をせずとも憂欝な気分になってくる。
鎌倉を落ちてから、丁度七日目。
直義の前にはつい先程まで、剃髪姿の老年の男が座していた。
ここ二三日、再三春倫の詰問を受ける直義は内心辟易しているだろうが、それを
表に出すことは当然無かった。
それだけに追求は執拗になるのだが、彼は同じような文句を言葉を変えて繰り返
し、結局煙に巻いている。
直義の辛抱強さには脱帽する。それだけに、彼はまともではない。
帰れとも下がれとも言わない彼の代わりに、私が痺れを切らしてそれとなく退室
を促したのだ。
「よくもあの爺に付き合っていられる」
「くれぐれも春倫殿に失礼が無いようにして下さい」
彼は間違いなく憔悴していた。生気の宿らない眼をして、私を咎めた。
「宮殺害の報せはもう飛んでいるのです。私のような罪人を匿うあの方の心中も
察してください」
「わからんな」
上目に伺ってくる視線に、僅かな怒りが燈った。しかしそれを気まずげに外し、
もぞもぞと膝を抱えだす。顔を伏せて、直義は黙った。
聞きたいことがあったのだが、取り敢えず止しておくべきか。
「お疲れのようだ。大丈夫か」
前にしゃがみ、細い肩に手を置くと、硬い骨の奥に、水が流れているような不思
議な冷たさを感じた。普通の筈の、自分の熱が際立った。
「よく休まれよ」
「有難う」
「明日も必ず来る」
「はい、待ってます」
顔を上げた直義はとりつかれたように、私自身ではない私の何かを追った。そし
てじっとりと目を閉じ、耐える。
「大丈夫か」
…泣き崩れれば、まだ可愛いげがあるだろうに。
「何ともありません。兄上の為ですから」
人前ではよくも見事に面を変えるものだ。
壊れるのを見積もるもたやすい。時行が来るより先に、放っておいたらあの男は
一人で勝手に死んでいるかもしれない。
尊氏が来る前に。
重能は、義詮達を移した後、その足で今度は成良親王を朝廷側に渡すのに立ち会
っていた。同時に従者として紛れ込んだ父の手の者から、伝言を賜るためだ。
その彼が今朝、還ってきた。挨拶を終えて直義を眺め、私を引っ張って室を出た
。ふと思い付いたように瞬き、重能は首を傾げる。
「お前、直義様の面倒みきれてないんじゃねえの」
「痛いところをつくな」
はぐれた狼のような顔で、重能は思い掛けぬことを口にした。
「俺が代わってやるよ」
しげしげと義弟の顔を見たが、彼は平然としたそぶりで私の視線を流した。
この義弟が歪つな聖人のようなあの男を慕うというのも、妙にお誂え向きな構図
だろうか。
哀れだと、そっと目を細めてやる。
どんな時でも、重能は自分たった一人で立つ人間だというのに。
「お前は直義殿が好きか」
「まだわかんねえ。けど、」
「…けど?」
「いい人だと思う」
「どうだかな」
素直にそう思ったが、自嘲のようだった。それを敏感に嗅ぎ付けたのか、
弟は眉をしかめる。
「偽善だよ。無意識の」
「へえ」
傍にある木の柱に手をあてると、芯の冷たさが掌に響いた。
その感触は、昨日の直義を思い出させた。
「ああそう兄貴、髭から伝言」
「…何て」
「『直義様の御身に万一のことあらば…』」
「いや、もう解った」
どうせ『万一のことがあったら許さない』と宣うのだろう。
「簡単に言ってくれる。父上」
「は、簡単だろ?」
言うやいなや戸を開け、重能は室の中に叫ぶ。
「直義様!」
直義は最早驚く気力も無いのか、目だけを少し見開き、応えるように頷いた。
「此処からだと近いですし、俺はまたひとっ走り京に行こうと思います。いいですかね?」
「いま」
妙なとっかかりを喉に絡ませながら、言い直す。
「今、お帰りになったばかりでしょう?」
「そうですが」
「少し、休んでください。もしも、いち早く朗報を持ち帰る為というお気遣いでしたら、必要ありませんよ」
自信なのか強がりなのか、いまいち図りかねた。
険に似たものを宿らせ、直義は目の前に垂れている前髪の先を指先でいじる。
しかし重能も、ここで引き下がる程まともではなかった。
「説得じゃあない。まあ、出迎えみたいなもんです。俺は京の近くまで行ってきたんですよ。そこらへんでどんな虫が騒いでいるのかぐらいわかります。
尊氏様はもうすぐ発たれましょう」
直義はそっと立ち上がった。そしてとぼとぼと私と重能に近づいてくる。あれ程逆立っていた気配が、水に塗れたようにしなり張り付いていた。
ぴったりと彼を覆う空気、それは硬質で白くひんやりと冷たい。誤りなど許されるはずもなく。
私の斜め前で、重能を正面から見上げる。頭一つ程違う背丈の重能は顎を引いて、彼を見下ろした。
「では行ってきてください。でもくれぐれも京に入らないでほしい」
「解りました」
何故、と重能は聞かない。
だから直義は理由を語らない。ただまっさらに、自分の中の正しいものを突きつけようとする。
「そういえば、重能殿は兄上の部下でしたね」
「ああ」
「だからかな。一緒に帰ってきてくれると、信じられる」
重能がいなくなり、二人だけになった時、そう言った。
並んで見やる空から、糸の雨が降り出す。
通り雨ではなさそうだ。今はまだいいが、やがて酷くなるかもしれない。
「雨が、・・・兄上」
呼ぶ声は深く、祈りにしては艶がある。
その存在で与えられる生気は、私が知る彼を悉く裏切ろうとする。
「兄上」
甘さではない。
嫌な予感がした。
私が欲しいのは、その真っ白な器だというのに。
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