直義は、夜着の白襦袢を着てきちんと座っている。
研ぎ澄ました小刀の柄を握る、必要以上に強張った自分の掌が在った。

「失礼します」

前に膝をついて向き合うと、小さく頷いて瞼を下ろした。

昔からあまり変わっていない。直義にあるのは、息苦しくなるような清らかさだ けであって、目を引く美しさでは無いのに。
だからこそ、きっと逃げられなくなる。



強張った外面でもなく、気を許した相手への豊かなものでもない。
私が目にする直義は常に凪であって、無、であったが。





今、彼はいない。
京にいる。

弟の髪に触れる私を見張る兄の視線が今、ある筈も無いのに、不思議と背はちり ちりとした感覚を覚えていた。




真っ直ぐな髪に刀を宛てたその時、廊から声が掛かる。
苛立ちと安堵の溜息を飲み込んで身を引き、立ち上がって戸を開けた。来訪者は 声で分かっている。それ故に黙って会釈し、招き入れた。

憲顕、は適当な会釈を返し、ずかずかと室に入った。瞳は真っ直ぐ直義を捉え、 その口元には得体のしれぬ、だが親しげな何時もの微笑がある。


「重能、ではないが、その早馬が戻った」
「ご苦労様です。で?」

見開かれた直義の瞳が鋭く光った。

「…まあいい。終わってから話そうか」

これから何をするのかを把握したらしい憲顕は、平然と胡座をかいた。口元に宛 てがった長い指が、彼の唇を全て隠していく。
続けてくれ、と身振りだけで示し、すうと視線を横に流し何かを思索し始めた。
冷風を浴びたように、ひやりとした。

絶対的、補食的なこの男が見せる懐疑。
都びとを匂わせる武人の気配は、引き絞られたように雄々しく鋭い。
私には、苦手な冷淡さだが。


「師秋」
「…はい」

名を呼ぶ声に促されて、もう一度小刀を握り直す。少しほっとした。直義は何も 変わらなかった。
人差し指と中指で、髪を挟む。その前髪の裏側に小刀を宛て、人差し指の線に沿 って手前に引いていく。
真っ直ぐに。音も無く切り離された短い髪が、直義の白い顔と身体に落ちていく 。真正面で左右の均衡を見直してから、そっと背に回った。
それを見計らっていたらしい憲顕が、口を開く。手は、傾いた右頬を支えている 。



「直義殿」
「はい」

「答えたくなかったら、答えなくていい」

「…何ですか」

背についた後ろ髪を、櫛で梳いていく。こうしていると、まるで女のような後ろ 姿だ。その背に隠れるようにして、私は憲顕の視線をやり過ごす。
深く利己的な ようでいて、ただ純粋な興にも見える憲顕の鋭さ。私は俯き、髪を切り揃えるこ とだけを考えようとする。直義は今憲顕と話をしているのだ。
その告白を求めたのは、私ではない。
襦袢に触れる毛先の先が少し茶色く透ける。黒といえど、色の薄い髪。

「貴方は何故、宮を殺したのであろうな」

薄い背にゆっくりと意識を辿らせて、直義はおそらく友人を見返している。

「もしも邪魔だと言うだけなら、どうしてあの時機である必要がある?」


凍り付いているのは私だけだ。


憲顕は、眼だけで笑った。答える声は静かだった。

「殺したのは、あちらの力を削ぐためだけではない。私自身に、拭え無い罪人の 烙印を押したかった」

「何のための」

笑いを消して問う瞳と、間髪入れず問い返した低い声。思いの外真剣に、憲顕は 答えを請うていた。
襦袢を着た背と床に、また切り落とされた髪が落ちる。

「兄上は来る。そして戻れない。罪人を庇ってしまったら」

笑い合っているのか、憲顕が笑みを刻んで直義を見ているのかはわからない。
た だ憲顕は体をずらし進み出て、直義に近付いた。押し出されるような気がして、 私は何気ないそぶりで身を退き、距離を置いた。
男の指が直義の目の下や頬を、掃っていく。落としただけで、集めてくれるわけ もない。
そしてこんなに面倒臭そうに触れるなら、放っておけばいいのにと思う。


急に、既視感に息を呑む。

−…直義の白い頬を掃う男の指。


「ならばさして驚きもしないだろうがな」

片付ける為、といった体で憲顕の後ろへと動いた。まるで自分自身に抵抗するか のように、私は直義がどんな顔をしているか見たいと思った。

「尊氏殿が京を発ったそうだ。勅は下りていない」
「そうですか」

遠い昔、温かさと優しさで満ちた筈の海辺の光景が明滅する。その時眺めた薄い 海猫の瞳が、今冷たく暗い光を放って、直義の中にある。それがゆっくりと細め られ、笑みを形作る。
尊氏が愛おしげに彼の頬に触れた時と同じく、甘く笑う。

「嬉しいか」

確かめるように掌でぺたりと髪を押さえ、直義は無邪気に笑っていた。自分がど んな瞳を持っているのか、彼は知らなかった。


「しかし慣れたものだ。私にはとても出来ぬ」

小刀をしまっていると、突然話の先が私へ向いた。驚いて見返すと、例の微笑を 浮かべた憲顕と目があった。

口先だけだ。この男がそんなことをやりたがるわけがない。でも彼は実際とても 上手に直義をあやし、支えることができる。

「師秋はとても器用なんです」
「ほう」
「彼か紗和にしか頼みません」
「いい加減、手先の器用な下女の一人や二人つければよいものを。執事殿や奥方 に頼むことではないぞ」

「そうかもしれませんね」

冗談ぽく言われた言葉に、内心酷く動揺していた。
憲顕、だけでない。上杉は腹のうちに獣を飼っている一族だった。隠すこともな く、だが刹那しか現さぬそれで、いつのまにか喰らい尽くしている。
最低限の真情と忠誠で、憲顕は直義の信頼を得る。
尊氏より余程薄っぺらく、器用な慈しみ。小手先だけの、だが確かな。 憲房によく似ている。


上杉は上杉として、足利の為に動いている。
不思議と怒りは無かった。私はそんな彼等を、心の何処かで尊敬しているのかも しれなかった。




直義の室に毛が落ちぬように、何時も私の室を使うことにしている。

憲顕が去った後、懐紙を床に広げると、直義は私より先に、散らばった髪を指先 で拾い始めた。摘んでは白い紙に乗せていく。その所作は本当に自然で、俯いた 無表情な顔は穏やかだ。

どんなに歪んでいたとしても、直義は無垢だ。 黙って倣い、床に指先を這わせながら、じわりと染み出すものを噛み締めていた 。

私の為ではなく、ただ自分が気になるだけなのかもしれないが、その指先は誰よ り真剣で、一途だった。


尊氏が来れば、直義は満たされる筈だった。
今以上に。


それは私にとっての安堵であり、もしかしたら幸福なのかもしれなかった。










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