握り込んだ書き付けが、軽い音をたて撚れる。駆け巡る思考を抑えて、暫し黙り込んでいた。喜ばしいことでは無い、寧ろ忌むべき類の報せだ。灯火の点る刹那に空が揺れるかの如くに、明暗の判然としない狭間。その様なものに似た、曖昧な感情に満たされ小さく息をつく。

「…あぁ、」

ただ眼前に映るのはその灯されるであろう輝きの明るさ、そして残酷な迄に厳然とした差異だ。…差異、最早これ迄の様にはいかぬ。その差異を突き付けられる相手は、自分ではないのだが。
皺の寄った書面を丁寧になぞり、体裁を整える。今度こそ純然たる歓喜が口の端をさざめかせ、微かな笑声は床に吸い込まれ消えた。










薔薇園の角を曲がると、主の室に出る。小走りで廊を駆け、角を曲がろうとした正にその時、当の主の近習が顔を出した。

「も、師直様」
「命鶴丸か、如何した」

まだ幼さの強く見える顔には困惑の色が強い。躊躇った様に一度視線を逃がして、童は言を継いだ。

「お客人が。尊氏様が…その…控え間まで迎えにいけと」
「客?」

はい、とたどたどしい言葉つきで頷く。主に似たか、手先の武技ばかりに成長の目覚ましい彼は、未だ今一口下手だ。

「こんな時に誰が」

元々己がどんな用で出掛け、そしてこうして主へ告げる事案を持ち帰ったか考えれば、客人など暢気に迎えてる暇でもない。続けて問い質そうとし、響いた声に喉を塞がれた。

「やぁやぁ久しゅう執事どの、尊氏どのは室に?」

見れば毒々しいまでの赤の直垂に、髪をだらりと垂らした男が立っていた。底光するような眼光は鈍く、常に薄く笑みを含んだ口元はいっそのこと典雅ですらある。掛衣を着崩し、到底武士には見えぬこの男は佐々木道誉。狂人のような体だが、これでも近江の大名だ。婆娑羅、などと巫戯気た名で呼ばれる男だが、そんな名にすら収まらぬ逸脱者である。


「客人とは…佐々木どのでしたか」

無言で幾度も頷く命鶴丸を横目に、道誉はずいと一歩此方へ踏み出した。

「執事どの、今日は小雨の日和だというに…随分と暑そうですなぁ」
「…人の悪い、どうせ私が何処へ馬をあてたか知らぬでもないでしょう」

このような風体の男、到底信用など出来たものではない…常ならば。実際過去尊氏の敵と成ったことも幾度か。北条高時の腹心でありながらも宮中に深かった佐々木に、若い尊氏は大層苦渋を飲まされたものだ。 …それが原因かは分からぬが、否そもそもそのような性根が合わぬのだろう。直義などは珍しく蛇蠍の如き嫌いぶりであった。自分にしても到底、個に親交など持てそうな相手ではない。しかし何故かしら尊氏自身はこの婆沙羅を重用している。そしてこの男も、決して無能ではなかった。先冬の大塔宮の移送、否、抑々の初雪の宴。その小細工を仕上げたのもこの道誉だ。

軽く溜め息を吐いて、命鶴丸を下げようと向き直る。適当にあしらえるような相手ではない、この身に携えた報せを合わせれば必ずや重事になるだろう。



「尊氏さまには私から言っておくから、少し下がっていてくれ…ああ人を近づけぬ様」
「はい、…あ!…あの、お手当は…」

手のひらに白巾を握り、見上げくる視線には哀願めいた色が乗っていて、一二度瞬く。

「…まだしていなかったのか?」
「構うなとの仰せで…しかし薬師は必ず、と」


尊氏はつい先日供も付けず一人で遠駈けに出かけ、夜更まで帰らなかった。珍しいことではないのだが、ここ最近では無かったことだ。ふらりと単騎帰り来た時も、主の帰還に騒がしい周りにもかかわらず早々に室に引き上げた。当日は気づかなかったがどうやら指に怪我をしてたらしい。数日、おそらく毒草で深く傷つけた傷は小さいながらも膿み、熱を持っていた。


「はぁん?まぁた尊氏どのの悪癖ですか」
「佐々、木どのっ」
「そう睨みなさんな…でしょう?尊氏どの」


慌てて振り返れば、いつの間にか此方へと歩み来る主は軽く苦笑を浮かべていた。

「騒がしいと思えば…余り虐めてくれるな」
「ついつい、」

喉奥を鳴らす男をもう一度睨んで、主の顔色を伺う。しっとりと髪まで露を帯びた尊氏は、が、その微苦笑以外に陰りは見られぬ。…今から自分が齎す話を知っているのだろうに、この態度は些か不自然ではある。ちらと視線を落とせば左手には案の定巾も巻かれておらず、じくじくと赤く膿むそれは酷く痛々しげだった。


「尊氏さま…雨に濡れておられましたか。夏とはいえお体に障ります」
「大事無い…、お前こそ客人をこんな所で引き止めてないで早く連れて来い」
「はっは執事どの、分が悪いですな」
「…」

自分が叱られたかの様に首を竦めた童の頭を軽く叩いて、尊氏は一度頷いた。

「今日はもういい、休め」
「はい…」

命鶴丸はまだ何か物言いたげではあったが、尊氏にそう言われれば従う他無い。礼を取るとぱたぱたと走り去っていった。

「…また随分とお優しいことで。明日、への備えですか尊氏どの?」

はっと男を振り返れば、肩を竦め口の端を釣り上げる。

「室へ、行くか」











「―…成良親王に征夷大将軍の令が下された、と」

主の書院の中央で膝をつき、畏まって述べる。本日付けで正式に触れられた令だ。

室の奥、開かれた縁側から小雨の煙る庭が覗く。過ぎる夏を見送った庭は常ならば美しく映えるだろうが、絹糸のような雨の降る空はどんよりと暗く、ただ暗鬱に影は落ちていた。それに倣う様に室の中にもただ沈黙が落ちる。喧しい婆沙羅にしろ、そして奥の柱に凭れた尊氏にも今更驚くような素振りは無い。

今朝、…葉月の朔日。直義と共に鎌倉を落ち、一足先に京へ帰りきた成良親王に征夷大将軍の位が与えられた。再三、北条討伐にあたり尊氏が願い出ていたその位を、である。親王に与えられた位、そして足利派としての直義が、その補佐として体面上繕われているだけに、尊氏がその決に真っ向から異を唱えることは許されない。

これが朝廷の決であり、そして全てへの応えであった。

「尊氏さま…」


黙ったままの尊氏は、じっと何かを見詰める様に動かぬ。ただ時々髪の先からぽたりぽたりと、滴が首筋に垂れる。薄く紗をかけたような雨音のみが、細く聞こえていた。


「…“足利殿”の世上の取沙汰、聞き及んでおりますか?」

不意に道誉が声を上げた。滲みる様な不思議な声音で、まるで祝詞を読み上げるかのように朗々と継いだ。

「帝より御名から字を賜る程の御寵臣、八座の宰相の座にありて…輝かしい武家の名家、御当主の人望に翳り無しとか―…」
「道誉」

ひたりと視線を据えた尊氏は、しかし笑みの微片すら含まずにただ男を睥睨した。


「不忠不逞、罵られる謂われなど無い方であらせられると」
「戯言を」

道誉にしても胡乱な眼差しには尋常ならざる力が籠もっている。ちらと視線を流し、先日の情景を思い浮かべた。朝廷での位置。そして帝の情にも似た態度。尊氏が悩むべきことは確かに山積している様に見えもする。だが、大逆人の肩書きを取るに足らぬ、と尊氏は言った。

「…」

―…殿は、迷うている訳ではありませぬ。…ただ迷いの中にあらねばならぬ、と―

尊氏が己が望みが為に、如何なる犠牲をも厭わぬと知っていた。望み、そしてそれは彼の地を落ち来る、直義に他ならぬ。切り捨てゆくに迷いがないのに、では何を躊躇うのだろう。



「そして、“尊氏どの”?御出立は何時」
「明朝払暁に」

ごく軽い調子で告げられた言葉に、だがそれでも背筋に緊張が走る。此方へ流された視線に一度深く礼を取った。


「今日のうちに全て済ませておけ」
「畏まりました…触れを、出しますか」
「既に散々出している…あれで十分だろう」

さらと言ってのけた尊氏はだが矢張りどこか、暗澹としている。何かを尋ねるべきかと迷い、だけれども結局告げる言葉を見つけあぐねた。


「…明日は嵐が来るぞ」


吹く風は重たげで、重なる雲の厚みに終わりは見られない。尊氏が身じろぎして左手を軽くあげた。どうやら膿んだその傷を見ているらしい。


「手当なさいませ、小さくとも御手の傷は響きましょう」
「……」

不意に尊氏は相好を崩す。だがいい笑い方ではない。声を押しつぶすようにして咽で笑っているのだった。傷を口元に寄せ、尊氏は笑う。何を笑っているのかは分からないが酷く捻れた気を纏っていた。するりと歩を進め、尊氏は徐に口を開いた。


「師直、お前が知っているだろう?…瑕疵ばかりに濡れた主を見限るに、今以上の機はないぞ」


見下ろす瞳の漆黒は、寧ろ冴え冴えとしている。半分息を呑み、だが喉からは即座に返答が紡がれた。

「仮令然うでありましょうとも、私は君の為の階であります…尊氏さまが、ご存知であります様」

「…っくく、怒るな…怖い顔をして」
「尊氏どの、」

呆れた声で差し挟んだ道誉は、じわりと意地の悪い笑みを刻む。常に浮かべた其れと異なり、何処か鋭く研削された刃を内包した。

「いいのですね」
「あぁ」

一拍も置かず返された声は毅然と肯じる。―…彼れ程、長く懊悩の中にいた様に見えたのだが。

「…暫くこの京と別れですね」

ちらと見上げた先で、尊氏は何故か刹那可笑しげに目を細めた。










帝に無断で京を出る。それが何を意味するか、分からぬものは居まい。古来、朝廷の麾下にある武士には例のあったことではあるが。
尊氏自身にしても、その重みを重々承知しているからこそ今日まで待ったのだろう。 帝ではなく、武家が…足利が天下を取る。それこそが世の望む趨勢なのだと、公卿どもが気付く頃にはすべてが終わっている。朝廷でなく尊氏こそが国を獲るその初手、否そもそも恭順を承服した覚えなどない。一度だって、真の意味で足利尊氏が下風に立たされることなど。


話があるという道誉と尊氏を残し、早々に室を辞す。既に数日前から離京の支度自体は済んでいる。あとは号令を下すだけ、払暁、この雲行きでは恐らくは風雨に見送られての出立となろう。

―…鎌倉幕府の終焉、幕府の寵臣たる筈の尊氏が反旗を翻すと言ったとき、自分は何を思ったのだったか。新政が始まり、下らぬ嫉視や内実の伴わぬ矜持に縛られる主をどのような思いで見てきたことか。今、こうして京を離れる。…京は災厄の地だ。この都が尊氏に齎すものなど、瞑く凝ったものしかない。それはあの驕慢な帝、歪な政、新しい名、その全てに付随する。…―京はあの人を、迷わせる。

「……」

立ち止まり、回廊から霧雨に煙る塀の向こうを見た。今この六波羅に在るものは、まごうことなく総てが尊氏のものだ。けれども明日には此処はただの逆賊のあった跡地に成り下がり、蹂躙されるのだろう。取られる選択の意味とは、そういうことだ。 尊氏が、ああも軽く頷いた。今日の場に及んで、という事もあるだろうがそれにしてもそれはいっそ軽々しいまでに安易な選択にも見えた。




数日前から、この決は半ば予想されていたことでも在る。備え、主だった者は身を纏めこの邸内に留まったままだ。並ぶ戸を叩き、掻き消える雨音を背に述べた。

「憲房様、明朝と決まりました」
「そうですか」

矢張り驚くことは無く、淡々と頷いた憲房はだが少し怪訝な顔をした。

「殿は如何なさってますか」
「佐女牛からの客人を迎えておりますよ…どうやら尊氏さまの御味方らしく、振舞ってくれそうです」

肩を竦めて返せば、憲房も困ったように口元を緩めた。

「出陣の準備は出来ております、…お伺いしても?」
「はい」
「執事どのは、此度のご出陣、お喜びでないのか」


しんと落ちた沈黙には、先程主が部屋にたゆたった物のような静謐さはない。ただ交わされた歪な配意だけが、汚らしく床に散った。


「この戦は、この先暫く続くでしょう」
「ええ」
「尊氏さまが戦い続け、そして最後にお選びになる」


「…―安寧を?」


嘲笑。それが一番近い色だ。温厚で峻厳な伯父として尊氏に相対する際には決して見せぬ、冷徹な笑みだ。だがだからこそ、決して見慣れぬわけではない。


「其れこそ”望ませ”たいのでは?」
「邪推ですな、殿が選択の如何に関わらず私にも責務がある」
「私とて、同じことです。尊氏さまが出陣なさるのは喜ばしいに決まっておりましょう?」


目を細めた憲房は、出来の良い教え子を見守る目で降る流れを見やった。


「望まずともよろしいことだ」
「……」
「どちらにせよ、玉階を上るのが彼の方であることに変わりはない」



京を離れる、ただそれだけ、されどそれ程のことだ。尊氏が先程浮かべた笑みの意味を、薄々は知っている。

”…望まれればいいのでしょうか?…そのようにあれ、と”

尊氏は確かに知っていた、朝廷の決定的な別離上への自分の明け透けな歓喜にしろ、ただ窘めるばかりで抑えなかった伯父の真意も。



全てを獲ればいい、その為に今全てを捨てればいい。今日此の時を喜ばぬはずがあろうか。
…数日前、届いた報せ。それは帝の座すこの京で忌まわしく響く一報。喜ばしい、其れ。


曰く大塔宮が幽所で、虜囚の身のまま無惨に弑されたらしい、と。


最早、戻れぬところまで来ている。宮の死の原因、それは恐らくは考えている通りで間違いないだろう。だからこそ尊氏は、明日此の地を発てば、二度と帝の寵臣として京に帰ることは出来ぬのだ。


傷塗れの主を掲げるのかと揶揄った尊氏は、だが恐らくその諦観をも縛られて今立っている。


「尊氏様はそれでいい、と仰せになりましょうな。寛大な方だ」
「言葉が強いですな、まあ慶事でありますれば多少は浮かれもしましょうが」
「感じ入って、いるのですよ」


日が昇る前に、別れを告げる。
最後の最後まで雲に覆われた、薄汚い玉座になどではなく。

…それは恐らく、最後の安寧への道に。









翌日暁鐘の響く前に、嵐の荒風の吹きすさぶ中、尊氏は六波羅を発った。 雨をも弾き返すような熱気を帯びた兵の陣頭にあって、その姿は尚一層壮烈であった。こうなればもはや尊氏は止まらない。直義の待つ三河までは突き破るように進むだろう。それは変えることが出来ぬ行き先だ。その瞳が見据える先は、尊氏自身にしか分からぬところに在る。


ふと尊氏の左手に目が止まる。真新しい白が巻き付いた指が手綱を握る様は、酷い欺瞞に満ちているように見えた。望まれるまま進み、全てを叶え、願う主がその瞳に何を願うか。…たった其れだけの事なのに、それを誰にも理解できぬのだ。


恐らく、それは例外は無く。
そして願える余地も、また。







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