轟々と荒風の吹き荒ぶ中馬を走らせる。掲げた足利の紋は、絶え間ない雨の中でも鮮やかに翻った。嵐の進みに乗るように東を目指していれば、当然その荒天は道行きに付き添う。しかし重く穿つような雨粒の中でも兵の気炎は衰えることはない。誰もが酷く高ぶり、雨幕の中立ち上る熱気に陽炎さえ見えるようだ。 京を発ち然うして進みを重ね、三日が経とうとしていた。
「尊氏さま」
一日中厚い雲に覆い隠されていた弱々しい日も傾き、夜営の陣を張る為に漸く今日の行軍は止まった。兵の勢いは意気衝天、とはいえ実際穏やかな道中とは言い難い。連日の雨に因る崖雪崩や出水に路は乱れ、行く手を整える間の立ち往生や、時には大幅な迂回を迫られることも多かった。
とりあえずは、と急ぎ張られた尊氏の陣の中、据えられた卓の上に書簡の束を並べる。ずら、と名ばかりの書き連ねられた其れからは真新しい墨の香りが漂った。
「今日の分でございます。大体五百程でしょうか」
「あぁ、」
濡れた鎧を脱いでいた尊氏は、湿った掛衣までをも脱ぎ捨て身軽になり小姓の差し出した布で顔を拭った。床几にどさりと腰掛け、卓の上に手を這わす。少し押しやるようにしてやれば受け止める形で一つを繙いた。
勅許を得ず無断東下した尊氏に、しかし在京の武士たちはその進みを追い縋るかのようにつき従った。その誰しもが今こそは、という期待に満ち溢れている。足利に近い者のみならず、昨今の宮廷での争いを静観していた武士らには、元々この時ばかりを待っていたらしき節があった。軍勢は日に日に膨れあがり、六波羅を出たときは千に満たなかった兵の数は、今では五千を優に越している。今日とてその名を並べただけの書は、尊氏の手から溢れるばかりの量となっていた。
すぐさま向けられると思った追っ手はだが、一向に影を見せない。後列から加わった者に聞くところには、一度は義貞をして尊氏を討つという案も上がったらしいが、なんと公卿どもの中で反対が上がったらしい。あれ程足利を警戒した公卿どもはだが、いやだからこそ、戦になることを避けたいらしい。後三年の役の義家の例までをも持ち出し、朝命無き戦の正当性を主張しているらしかった。 この先どの様な趨勢なるやは定かではないが、今この時、それは何とも好都合である。悪路が続くとはいえ剣を交えることなければ、三四日で尾張の草原を渡りきり、三河に辿りつけるであろう。
「…、」
ふと書面から視線を上げた尊氏は、何か物言いたげに此方を見据えた。
「何か御座いましたか」
「あぁ…いや、お前昼頃何か人を走らせていたろう?」
そういえば聞きそびれていた、と呟いた尊氏は、促すように首を倒す。ちらと視線を向けて、一度迷ってから口に応えを乗せた。
「先の行軍路の村が、急な出水で川溢れを起こしたようでして…状況を、」
「そうか、…それで」
「幾名かを偵察がてら回しましたが、今は水が引いているようでした……川側の家の他は大事無く、馬を通らせるには問題ないかと」
逆に、痛々しい物言いになってしまったことを密かに悔いる。人死を一つ一つ気にかけて許される時ではない。尊氏は何も言わず、一つ頷いた。肩に垂らしていた白巾を手で引き抜き、濡れ髪を拭っている。言を封じてしまうような真似に、少しばかり意地の悪い言葉を継いだ。
「…皆、喜んでおります」
覗いた瞳の色は磨いた黒曜のもの。常のままに、濡れた彩は酷く静かだ。夕餉の支度が始まっただろう陣内は、さわさわと心地よい程度の騒がしさに充ちている。曖昧に頷くようにして、尊氏は卓に凭れ掛かる。まるで、そう、笑みでも浮かべているかの様に柔らかい表情で細く返事を紡いだ。
悪路を三日、進んできた。兵の勢いは逸るばかり、降り続ける嵐雨すらものともとしない。皆が望んだ、道行きだ。大志を、立身を、忠義を。抱く物こそ違えどその熱は一様に滾る。それに尊氏に限らず、皆それぞれが東国の空の下に親兄弟を置いている。 心ばかりが駆けて、望みばかりが先走る。
尊氏はこの三日間、一度だって京の動きを尋ねようとはしなかった。
ふと目が覚めて、身を起こす。篝火の赤が、暗闇に慣れた目に弾けた。幾度か瞬くと、身を縮めるようにして夜番の兵がかしこまっている。恐縮した態で確かめるように呼ばれ、彼の声で眠りから引きずり出されたのだと気付く。繰り返し頭を下げる兵に、軽く手を上げて外へと促した。
夜も深く、静まり返った辺りには微かに寝息ばかりが響く。この時期、野営にとっては悪い時期ではない。月は見えぬが、まだ朝には遠いことは分かる。疲労は気にならぬとはいえ、どうしても包み込むような闇夜には陣の誰彼も意識は深く落ちていた。
「どうした、こんな刻限に…何か急の報せか」
「はい、その…殿に直接お取次すべきだと思ったのですが、お寝みになられているかもと」
「?…誰か、使者でも参ったか」
続いて告げられた名に、軽く瞠目する。
「それは…構わない、兎に角尊氏さまをお起こし申し上げろ」
「は」
丁度見えるところにある尊氏の寝所へ、慌てて駆けてゆく背を見送る。先に何処に通したかを尋ねればよかったかと、暫しの無聊に今更ささくれもしたが、結局立ち尽くしたままでいた。
胸に染み渡らせるように、深く夜気を吸い込む。天には風があるらしく、見上げた夜空を流れる黒雲は矢鱈と速い。偶に瞬きが覗き、久々に雨の無い夜であった。
「師直様…、あの、」
目線を上げれば、慌てたように先程の兵が引き返し駆けてくる。浮かべた焦燥に大体の事情を察して、先んじて頷いた。
「見張りの兵も寝番をしている。この様な夜更、陣内にはいらっしゃるだろう」
「は、はい」
実際見渡せば、寝静まった陣内で立ち動く気配は割と顕著だ。見張りの立つ線を目で追っていけば、東の外れ方に朧気な人の気配。其れを示してやりながら、兵に尋ね人を連れてくるようにと言い付けた。
彼が踵を返しきる前に、夜隠に紛れもせず、ただ立ち尽くす人影の方へ足を向ける。歩を進めてゆけば、まるで寝所に入っていたとは思えぬ格好が見て取れた。くいと視線を宙に縫い止めてますぐに伸びた背は、頑強と呼ぶにはしなやかに過ぎるが。鎧姿でこそないとはいえ、重たい掛衣は立つ背に殊更その姿勢を強いていた。
五間ほどの距離を残したままに足を止め、ただその後姿を見詰めて佇む。気付かぬ訳もなかろうし、無闇に邪魔立てする気もなかった。
ふと吹いた風は、恐らくは明日も雨を導くであろう重たさを乗せた。ちらと振り返り背にした風上の方角を見やる。ここ数日、西風ばかりが続いている。正に斯うして駆ける進みには追い風、純粋な熱にも似た吉兆を嗅ぎとるものも多かった。 だが、どうにもその湿っぽさには覚えある陰鬱さが織り合わさっている。風は西から、起った彼の地より吹く。追い引き留めるように、若しくは縋り縛るように。…―その煩わしさときたら。
「は…」
知らず口の端から滲みた声音は、どうにも夏の暑さを引きずる夜には鈍く響いた。くぐもった嗤いがほんの微かに喉を鳴らすのを、遠くに感じる。ただそれは大層空虚な愉悦で、如何にも莫迦莫迦しいまでに底抜けた明るさばかりが響くのだが。
斯うして毎夜夜空の下に、打ち捨てられてゆくものは、一体何なのであろうか。
「お前には、どうも夜は長過ぎると見える」
不意に乗せられた声に、静かに歩を進める。面を向こうへ向けたまま、揶揄う如き軽やかな口振りで尊氏は続けた。
「まだまだ夜の短き季というのに」
「どうにも仰せの通り、性急な質で御座いますので」
頬の強張る線が分かる距離まで近づき、態とらしく姿勢を正した。それに気付いたように尊氏は身体半分で振り返り、眉尻を下げてみせる。徐も陣幕から離れたのは尊氏だ。
「心配ばかりするな、流石にこんな夜更に一人遠駈けはせぬ」
殺されては敵わん、と敢えての事を努めて明るく口に出す。主の自分への気遣いはどうにも不器用に過ぎる。ああも、人を惹く術を知悉しているようであるのに、この様な時は全く稚拙なものだ。
「ではいかがなさったのです?この様な夜長に」
くすりと笑みを漏らした尊氏は、掛衣の裾を捌いて身を翻した。それを視線で追いながら、そっと息を吸う。抑えている物が何であるのか、尊氏には見透かされている気がしてならない。無闇に痛々しい立ち姿に、乾いた苛立ちが喉を転がった。
「久々晴れたからな。この調子なら明日はもう少し進むだろう」
「待ち遠しいですか」
「何がだ、言ってみろ」
嘲笑に似た響きには、決して険は無い。まるで幼子のように、直截的な強さがあるだけだ。
「勿論、直義どのらの軍勢との合流が、で御座います」
刹那瞳を過った主の激情から、目を逸らして謝罪めいた言葉を紡ぐ。尊氏は複雑な表情で尚、矢鱈と明け透けな様子で此方を見据えたままで居る。一番近くにある篝火でも、その表情の陰影をはっきりと浮かび上がらせるには暗すぎる。
瞬いた空の灯火の頼りなさに内心悪態をついた時、唐突に目の裏に思い浮かんだ光景に一度瞬いた。
懐かしい光景。先程の急な覚醒、夢現に丁度思い描いていたのやもしれぬ。尊氏が未だその名を変えぬ頃、数年前のことだ。
少しばかり青褪めた顔で、高氏は一度二度と口を開きかけては言葉を途切らせていた。軽く頭を振って、そしてゆっくりと額に宛てがった掌に重みを預ける。沈黙はただ純粋な悲しみばかりを伴って落ちてゆき、痛ましい顔で若き主を見上げた伝令も、応えを促そうとはせず、共に静かにその悲嘆に浸っているようだった。ちらと傾けられた線に視線を走らせて、自分も軽く瞑目していた。
まだ、ほんの幼子であったのだ。恐らくは何一つ分からぬまま殺された幼子の、名を竹若。殆ど可愛がってやることすら出来なかった息子の死を、だがそのとき高氏はただじっと空を見つめて悼むのみだった。
六波羅にはためいた叛旗は、ただただ燦然とした決意にのみ彩られ。其の他の何一つとして、縁取りと成り得る筈がなかったのだから。
記憶の中で、傾けられた首筋が明け透けな悲しみを乗せていたことに、今更の様に何か苦いものがこみ上げる。今も、その如何にも強かでさえある態度の明け透けなことといったら。こういうところが、この主の狡いところなのだと、知っている。無防備に己を抛って見せるくせに、その身を容易く軽んじるのに。責める言葉だけをあからさまに隠し立てて、従容と諾ってみせる。
―…尊氏がこの三日間何を考えてきたのか、全く知らぬわけではない。
そう望まれればいいのでしょうか。幾度も、繰り返し戯れのように口の端に乗せていたその台詞を、尊氏が口にすることは、もう無い。
「待ち遠しい、」
告げた言葉をなぞる様に零した尊氏は、そしてそっと俯いた。
西から吹く風。東には。東には全てのものが尊氏を待ち受けている。彼の望み其の物である直義にせよ、尊氏を掲げる軍勢なども。…そして、漸く、京の呪を切り離し砕き去るだけの結果さえ。くすぶり、口に出さぬうちに消えてゆく数々の言葉を自らですら掴みかねている。熱情、暗い安堵、切り刻むような細切れの感情。一つ一つ今為されようとしていることを確かめる。
そうして自分が。…憲房や、直義が。積み上げてゆく一つ一つを黙って眺める瞳に、密かに笑みを噛み殺す。嗚呼この人は如何して、時にこうも残酷なのだ。
再度吹きぬけた夜風が、冷気を纏う。遠くから響く軽い足音に思考を引き戻して、少しだけ強張りの蕩けた肩に視線を向けた。
「実は、先程までぐっすり寝んでいたんです」
「そうなのか?」
顔を上げた尊氏は、何事も無かった様に穏やかな声音で応えを紡ぐ。首を傾げての問いに、頷いて促すように視線を向けてやった。
「使者が、参りまして」
此方へと恐縮そうに顔を歪め、夜闇の中慌てて先導してくる兵に比べ、連れられてくる当人は全く堂々たるものだ。炎が殊更赤く弾いた貌に、尊氏は少しばかり目を見張って、それから何処かしら幼げなまでの素直さを滲ませ彼の名を呼んだ。
「重能」
「お久しぶりです尊氏様」
手本の様に落ち着いた所作で一礼した重能は、尊氏の応えで顔を上げる。久方振り、そう、数月をも隔てた筈であるのに、その表情を見ているとまるで抜け落ちた時間を感じさせない。
何から尋ねればいいのか、困惑というよりは不意を衝かれた状態より抜け切れぬ尊氏に、先んじて問いを紡ぐ。自分の方にしても何とも名状しがたい心境にあるのだが、重能の態度に毒気を抜かれ逆に妙に穏やかな気分だった。
夜更に訪ねてきた使者。使者、と呼ぶには些か可笑しな様相でもある。…ちらと記憶に残る憲房の言葉を、喚起させる。ごく自然に、以前と全く以て変わらぬ応対が滑り出た。
「重能どの、こんな夜更に馬を走らせてきたのですか」
「いや…昨日には着くと思ったんだが、行軍路が逸れて」
今日、しかもこんな刻限に、と広い肩を竦める。くるりと雄快な笑みを刻み、重能はもう一度頭を下げた。
「此度はお迎えにと参上致しました」
先導してきた兵に下がる許可を与えてやりながら、尊氏の様子を窺う。これ見よがしの無防備さには変わりがないものの、驚きに僅かに朱を上らせた顔は唯其れだけの差異で、鮮やかに鋭気を滲ませる。一二度しばしばと瞬いてから、漸く言を継いだ。
「……重能、」
「はい、」
「直義は、……いや、いい」
差し出た口を叩くことも無く、重能はそのまま尊氏の言葉を待っている。
…迂回路を辿ってきた行軍の進みは、想定していた其れよりも寧ろ早い。街道を通れず、只管に遅ればかりに急いた兵が山道めいた悪路を、逆に駆け足で走破した為だ。阻むように溢れ水は途に傲慢に横たわっていたが、全く間の抜けている。
出水に浸かり、沈んだ家には糸の切れた体躯が浮んでいた。連日の雨だ、備えを怠った、というわけではないのだろう。恐らくはただ愚かしい慢心のまま、そして謂れの無き懼れのままに軍を待ちうけようとした彼らの屍を、走らせた伝令は酷く無感動に伝えてきたものだ。この行軍は蹂躙し、総てを嘗め尽くす道幸ではない。それでも、ただ東へと歩を進めるこの行為が、単なる旅路であろう筈もない。
犠牲とは、為されるもののために在る物だ。そんな下らない事は、確かめるまでもないのだが。
明け透けに哀しみ、笑う。尊氏は凝っと重能の顔を見詰めた。尊氏を見下ろす彼の視線は、だが決して睥睨する倨傲を思わせない質朴さを帯びている。
苦言や小言めいた周りの言葉に、結局は殊勝に幼げにも頷いてみせる主は、そういった面では実の所酷く分かりやすい性質をしていた。冬の終わり、重能が京を発った時、尊氏は何も知らぬまま、その様な出奔を考えもしなかったのだろう。慕わしい伯父に説明を受けても、打ち消してしまえない程には多分自責めいた事をしていた。全く、こういうときにこそ上手く振舞って見せればいい。我慢し堪えるような事柄が、愚かしいまでに原形其の侭でしか受け入れられぬらしい。
唇から発される問いは、数月の内に屈折した情を覗かせた。
「俺は、お前の信に足りぬか」
響いた声音は澄み、それでいて熱を孕む。痛ましげに、眉を顰めて見せればいいものを。若しくは思う様にならぬ苛立ちに、唇でも噛んで見せればいいのだろうに。ぼんやりとそんな事を考えながら、成る丈二人の顔を見ないように意識を逸らす。装ってもやらない主の表情は不器用と呼ぶには、恐らく無作為に過ぎるのだろう。
「若しや、お前に」
重能はやはりじっと聞いている。閨中の会話でさえ、もう少し取り繕って交わされるだろうに。最も、この二人が然うしたことを殊更気に掛けるかは甚だ怪しい所であるが。
「お前に、見限られたのなら、遣り切れぬものだと」
唐突に踏み出された足に、当惑に似た色で顔を跳ねさせた。ずいと、眼前に伸びた長身を、見返す濡れた黒曜が伝い上る。
「尊氏様」
伸びてきた腕が、尊氏の肩に掛かる。重くずり落ちていた掛衣を引き上げ、軽く埃を掃い叩いた。最後に為されるがままの棒立ちの胸を小突く。
そうしてから身を引いて、今度は大仰なまでに重苦しい動作で跪いて見せた。
「……」
声を詰まらせた尊氏は、今更に常の様に鮮やかに過ぎるほどの情動の苛烈さを取り戻した。今度は分かり易く、かぶりを振って顔を歪め、立たせる様に手を伸べた。
「…済まない」
「いいえ」
「重能」
「いいえ、尊氏様」
宥めるような笑みに、尊氏は居た堪れない様に視線を逃がす。朗々たる声が真摯な響きで紡ごうとした謝罪を、慌てて遮る。狼狽えた態で、暫く落ち着かなげにしていたが、次第に姿勢を崩して力を抜いた。此方を見た視線は、矢張り翳りを隠せぬ。その憂いは長く彼と共に在り、最早見慣れた物でさえある。
落ち着きを取り戻して、今度こそ重能を立ち上がらせながら、尊氏はニ三問いを重ねた。此処までの道のりがどうだったかとか、八月ほどの年月に何か取り立てた大事があったかとか。
そろそろ八つ時、元々雲勝ちな空には月も無く依然湿った気配を漂わせている。
「…尊氏さま、」
躊躇いがちに切り出す。
毎夜打ち棄てられてゆくもの、東へと一歩進むごとに深まり、消えてゆくもの、全て。尊氏の為に、唯それだけの為に紡がれて為されていくというのに。自分は、尊氏に何を、させたいのか。知っている、のに。
重能の表情は穏やかで、返答の一つ一つは丁寧に紡がれていたが、それは彼自身の性質だとか情だとかそうしたものだ。そしてこの男がそんな彼自身を極自然に平らげ、理や課せられた利を取れる男だと知っていた。上杉の名を冠す彼は、こうして主を安らがせているときでさえ、自分の目には矢張り何処か底光りする剣光を映らせる。
「重能どのは如何して態々使者など?」
「如何してって?」
「何か直義どのから急ぎの報せなどあったのではありませんか」
数日で、もう逢える。若し言伝があるなら其れは火急のものだ。
「言っただろう、お迎えに参ったまでで」
途行きを切るはそんなに奇異なことでもあるまいと言うように、彼は軽く頷く。
薪の弾ける音が高く、思わず其方へ目を向ける。赤々とした炎は程よい強さで吹く風に絹先を躍らせて靡かせている。
「労いを付けてやりたいところだが、こんな刻限まで馬を駆ったんだろう。明日もある、休むといい」
「お気になさらず、御存知の通り大抵丈夫に出来てます。何かお聞きになりたいのでしたら、―」
尊氏の視線に釣られるように、振り返る。先程は重能が歩んできたその路を、火を持たせゆったりと歩み寄ってくる彼の伯父の姿に目を細めた。その表情は、常よりも何処か暗澹としている。珍しいことだ、僅かばかりぎくりと自分の背筋に緊張が走るのが分かる。それが何ゆえの強張りか考えて、一度瞬く。重能とそして尊氏を窺えば、特段そこに軽い驚き以上の色は乗っていなかった。
「お邪魔致しましたかな、まだ差し出るつもりは無かったのですが」
控えている心算でしたが、と憲房は軽く苦笑すると、歩を早めた。
「殿にこの様な時間に手間を取らせては、申し訳ないですね」
「元々寝付けなかったのです、伯父上」
首を振って笑み返す。傍らの重能の姿を確かめるように見てから、尊氏は憲房に問いを重ねた。
「御用、は私に、ですか?」
「……そうですね、」
憲房は否定も首肯もしかねるといった様子で、その笑みを深めた。
如何にも夜陰にその笑みは尚更暗く、目を引く。珍しい、とまた思う。尊氏の前であるのに。憲房は尊氏へと向けていた視線を、ついと彼の息子の方へ流す。
「来たか」
笑み混じりに軽く応じただけで、重能はそのまま黙り込んだ。其れを眺め返す視線には何処か遠慮の無い険があった。肉親相手、憲房はいかにも厳格な父親であるようであったが、それ以外にも理由があるようだ。もしかして、憲房はつい最近も重能に会っていたのではないかと唐突に思う。それも文の遣り取りなどではなく、面と向かって。
「伯父上」
「はい、」
「重能とお二人で話したいのでしたら、俺の方は構いませんが」
「ああ、いえ…済みません、その様なことでは」
はは、と憲房が宥めるような笑みを浮かべるのは常のこと。
なのに、最も短い夜の最奥にあって、その穏やかさは逆に無性に鮮烈だった。
風が強い。何とはなしに切欠を失って、続ける言葉を飲み込む。
報せを黙って聞き、明け透けに言いたいことを言う。可笑しいと、哀しい、寂しいなどと。弱々しい言葉の並びなのに、立ち並べる姿は寧ろ其れによって隙を潰している。…状況の中で、許されている感情をはっきりと知っていた。あのとき許されたのが燦然とした決意のみであったならば、今此の状況で許されているのは一体何か。
暗澹とした憲房と視線がかち合って、反射的に息を呑んだ。己と同じ色で此方を見詰めた男、珍しい態度を隠し切れないのは。それが偏に純粋な危惧に拠るものだと、漸く気付いた。
ふと、落ちた溜息の音に首を巡らせれば、尊氏がすいと視線を逸らす。
ゆったりと憲房と重能、そして自分の顔を見詰めなおしてから、一度目を伏せた。
何処か億劫そうに口を開く。何か急に引き締められた空気に、ぴくりと指先が跳ねた。
「…重能、では聞いてもいいか」
「ああ、はい」
向き直った重能から、何故か一歩距離を取ると尊氏はぐるりと辺りを見回した。
「直義は息災か」
「ええ。流石にお元気、という訳にはいきませんが」
当然想定していた質問であったのだろう、応えは淀みなく返された。戦いを交え鎌倉を落ちてくる中で、直義などが負傷したという話は終ぞ聞かない。勿論その様なことがあれば、即座に伝令が立つだろうから、別段此処で尋ねなくとも当たり前のことであるのだが。そして疲労や苦痛に苛まれているとしてもそれもまた此の状況下では、当たり前のこと、だ。
「会いたい」
言葉には艶やかな切情ばかりが乗って、そのあまやかな響きは灼ける様な熱そのものだ。熱っぽい声に、狼狽のような感情が駆ける。当たり前のように注ぐばかりの情愛が強烈で、余りに唐突といえば唐突な訴えであった。
「伯父上」
「………何、でしょう」
「京へ帰りたいと私が言ったら如何しますか?」
凍りついたように、刹那全てが重苦しく固まった。思わず尊氏を凝視すれば、ごく柔らかく憲房を見遣っている。ただその口元には笑みが無く、濡れた彩には色が無い。たった今、その激しい熱情を零したばかりだというのに途轍もないその問いかけは、至極平坦だった。
「何、を仰います。お戯れには些か意地の悪い」
ぎこちないながらも、苦笑で返した憲房に尊氏は不意に顔を顰めた。
「全ての兵を反さずとも、難しいことではありません」
「殿、」
「この身一つでも、帰ればどうなるのでしょう?」
いかにも汚らわしいと言う様に吐き棄てる尊氏の口調に呆気に取られたまま、見返す。何を言い出したのかすら、把握できない。同じく驚きばかりに蹂躙されている二人に目をやって、混乱しきった頭を少しずつ冷まそうとした。同じく重能も、すいとその場の面々の顔を斜め見ている。ただ問いをかけられている憲房と尊氏だけは、視線を結んだままだ。
「斬首でしょうか?然し罪状が曖昧ですね、」
「殿っ、お揶揄いになっておられるのでしたらお止め下さい」
「……伯父上」
尊氏は一歩二歩と足を進める。憲房の眼前に立つと、切裂かんばかりの鋭さで伯父を見返した。
「今此処で、貴方に命じてもいい」
「!たか…」
不意に伸びた手が両肩を掴み、震える。筋張った掌が食い込んで、でも尊氏は凝っと伯父を見返していた。
憲房の顔には、すとんと抜け落ちたように色が無い。憤怒の形相を浮べているよりも、余程その煮え立つ肚の内を透かせている。その場には威圧めいた物さえ滲み、密かに咽を鳴らした。またも高く薪が弾け、けれどもその炎でさえも頼り無い星の灯火の様に篝火の辺りだけをただ照らすのみだ。
「……冗談が過ぎますよ、殿」
「…」
「鎌倉を取戻し、平らげるのでしょう?…そう、直義様をお助けになる」
「伯父上」
静かに、囁くように尊氏は声を落とす。
「全てを手にいれるのは、貴方だ」
「……ふ、ふっ…」
だらりと腕を垂らしたまま、尊氏は可笑しげに肩を揺らした。
「そんなもの」
「、殿」
「ご存知でしょう?」
急にびくりと首を竦めるように、尊氏は身を引く。其れが掴まれた肩の痛みのせいだと、寄せられた眉が語っていた。痛みに歪んだ顔を凝視して、憲房はそっと囁いた。
「存じております、殿のことですから」
「…」
「ですが」
底光りする眼光は、何処までも鋭い。怜悧な男、常に冷静沈着にどんな手でも迷い無く打つ、底知れぬ男だ。そして何よりどんなにしおらしく振舞おうと、その本質は飼い馴らされぬ獣の荒ぶりが覗いた。
「あなたの意志や心など、結局のところ私にはどうでもいいことです」
派手に金属の縺れ合う音がして、遅れるように高い音が響く。思わず肩を跳ねて目をやれば、向こうに見える旗台と其の近くの篝火台の所に立ち動く人影が見えた。どうやら強風で傾ぎ、ぶつかり合って倒れたらしい。俄かに静寂は慌しげに揺れ、崩れていった。
「……た、尊氏さま」
静かに憲房は腕を下ろし、そして酷く痛々しげに顔を顰めた。なのに、尊氏は寧ろ嬉しそうにさえ見える。笑っているわけでは決してないのに、その喜色は酷く鮮明だった。
「伯父上」
「……」
黙ったままの憲房に、尊氏は素直に頭を下げた。
「勿論そんなことは言いません。……有難う、御座います」
交わされた言葉の意味を、一つ一つ噛み砕いていく。背を伝った汗が、衣を張り付かせていて鬱陶しく重かった。些か青い顔で、憲房は尊氏を見返す。くるりと向き直った尊氏は、矢張り無闇に朴訥と名を呼んだ。
「重能」
「、は」
「本当に今日はもう休んでくれ、ご苦労だった」
「…はい」
少し複雑な顔で、重能は頷いた。今度は自分の方に向いた視線に、一瞬目が泳ぐ。
「お前ももう休め」
憲房と二人にさせろ、とその瞳は語っていた。反射的に反駁しかけて、ぐっと言葉を呑む。大人しく頭を下げて承諾した。
重能と二人で陣の中へと進み、そして兵に相応しい寝所に案内するように言い付けるまで、ただ一言さえ交わされなかった。別れ、自らの寝所へと踵を返すときもお互いにちらと其処に浮かぶ色を確かめただけで、殊更言葉に出すようなことは無かった。
見上げた空はもうすっかり重たい雲だけが立ち込めて、朝陽を待たずに雨粒が地を叩くのは避けられぬように見えた。結局のところ明日も雨の中の行軍と成るかも知れぬ。
幕の中に入り、据えられた卓の前で暫しじっと佇む。広げられたままの書簡には、増えてゆくばかりの名前の羅列、そしてただ歩んできて、これから進むばかりの地図が黒く描かれていた。
墨香の漂う鮮やかな線が目を刺し、ざわりと膚が粟立つ。口の端から零れる様に、哄笑が溢れた。
「…っ、く、…ははっ」
笑いは引き攣るように続く。
訪れる何もかもが。ひどく愉快だった。
何もかもが、尊氏を玉座へと押し上げる術となり糧となる。取るに足らない、屑のような犠牲の山積。醜女の執着のように、見苦しい京の醜態。暗鬱な天に、足元を乱すその道行の困難さでさえ、その行動を確か足らしめる。
尊氏に注ぎ込まれる言の葉の一つ一つが、危なげなほどにすんなりと落ちてそして拒まれてゆく。実の所、どうだっていいのだ。上杉が如何であれ、尊氏が悦び、それを導く方向としては何も揺らぐことなど無いのだから。今の所、其処に何の問題も無い。
尊氏が、何故あんな巫山戯た真似をしたのか、未だにその衝撃からは抜け切れないのであるが。…それでも尊氏は、彼が望むだけの物を手にした。ならばそれでいい。
自分はただ、主がそう、”全てを手に入れれば”と望んでいる。
お迎えに、と言ったあの明るい声が耳に響いた。そうだ、とまた笑いばかりが咽を転がる。何を言付かるでもなく、そして此処は京では、最早無い。
…直義は、いちどたりとも要請しなかった。兄に助けてくれと、言葉にし頼むことだって容易かったのに。決して、そんなことはしなかった。
全てそう、積み上がって行くものばかり。
数日で逢えるのだ、と反芻する。京を発って三日が経った。嗚呼もっと早くに時が過ぎ去ればいいのに。
置かれていた水差しから、そのまま咽を潤す。笑い、ひくついた咽には激しい渇きばかりが貼り付いていた。
記憶の中で打ち拉がれる姿に、噛み殺した愉悦。
尊氏が西から一歩離れ行くごとに、其処抜けた明るさが支配する。
気付いていた。尊氏が何かを失うたびに喜びが、身を灼くのだと。
失って、無くして、しまえば。手に入れることだけを望める。
夜が深い。
ただ唯一、それ以外を削ぎ落とされてゆく主の顔を浮べる。
そしてまた一夜ごとに、棄てゆかれるものの気配ばかりに包まれて、静かに眠りについた。
next
|