汗を拭い低く唸る。焦がすような日差しの中、下らない型に則って刀を無闇と振り続け、肩が酷く熱い。

「…た…高氏さま、」

そろそろと伺いをたてる師直の顔は、辟易を通り越し漂白されたように色がない。その何処かぐったりとした挙措に、気圧されるように動きを止めた。首を傾げ見上げてやれば、ふと困ったように柔らかく笑んだ。こういう時この五つばかり年上の執事は、少し戸惑う程に優しげに見える。

「休みを入れませんと」

火照り、跳ねたままの鼓動を持て余す。陽炎が如く、滴る汗が目に滲んで視界を揺らした。

「ん」

聞いてみれば確かさっきも似たような事を言われた気がする。少し上がった息を整えようと、大袈裟に肩を上下させれば伸びた手が刀を受け取り、替わりに巾で首筋を拭われる。

「…その、」
「なに?」
「…いいえ…今日はもうこのまま楽になさいませ」

袷を沿うように拭き離れてゆく手を追って、そのまま視線を絡ませる。只殴りつけるように強いばかりの陽を背負い、揺らいだ顔には何か読み切れぬ色があった。火照りは一向に収まりそうにない。頭から水を被ろう、と考えてはたと止まる。

「後を」
「はい」

早速片付けを始めた師直を少しだけ見詰めてから、くるりと踵を返す。

奥庭の木に向かってぶらぶらと歩いていけば、斜めに切り取られたように鋭い線が庭の角を横断している。昔父が建てさせたという、少しばかり真新しい室。据えられたその室は喧噪を避けた、風の通る方角を向いている。そのまだ白々としている壁の線はくっきりと地にその境界を刻み、僅かに揺れる緑濃い木々の狭間に凛とした佇まいを見せていた。

横の廊へあがらず、丸窓が備えられた白壁のそばの低木に登って腰掛ける。枠を叩く前に、窓戸は薄く内側から開かれた。



「兄上」

覗いた表情が、何時もの様に腰掛ける枝の強度を案じるように揺れる。それも開けられた桟に手を伸ばせば、軽く緩んだ。足を振ってそのまま桟にくたりと半身を凭れかからせる。見上げた先の瞳が瞬き、ちかりと日の光を弾いて琥珀に透けた。

「暑い」
「もしかして朝からずっとやってたんですか?」

頷けば直義は室の中へ引き返し、水差しごと抱えてきた。口を付けようとして、何故か躊躇う。器に注ぐか窺ってる直義に傾けるよう促して、掌に水を受けた。水は指の隙間からするすると抜けてゆき、木の根の上に散る。ぱたぱたと軽快な音は足音の様だ。唇を濡らす程度に手の内に残った僅かな水を啜る。指を伝う冷たい感触が心地よいというより、殴りつけるように鮮烈だった。

もう一度注がれた水が指の間をすり抜けて、流れを散らす。何故かどこか艶めかしい感触のように感じられて、少し後ろめたかった。握った痕の付いている掌が、内側からの熱に疼く。

矢張り、暑い。


「ただよし」
「なんですか?」
「指、触らせて」


きょとんと刹那無垢に表情から綾を落とした弟は、多分殆ど反射的に首を縦に振る。

濡れたまま軽く桟にかけられた手を触れれば、改めて驚いたように指先が小さく跳ねた。甲から撫でるようにすれば、軽く浮かせた手が此方へ差し出される。てのひらを向き合わせて、少しだけ自分よりも小さな指先に触れる。鏡に手を付いたような格好になって、思わず笑った。

「くすぐったい」

少しだけ指をずらして、絡ませるように掴む。自分の指先から垂れた水滴が伝って、じわりと濡れた。
濡れた自分のより、伝わる指先のほうが冷たい。自分の手の甲はもう少し乾いているのに、したしたと滴を滑らせた手はひんやりとしている。

「…兄上の手、あつい」

少し困ったように瞬いた直義は、そっと首を傾げた。

「今日はこんな天気だから、日が上りきる前に止めると言ってましたよね」
「うん」
「どうしたんです?」

汗が滴り、視界を揺らす程に暑い。ただそれよりもっと、足元から湧き上がるような熱が、熱くて仕方なかった。体を動かせば、何故か少し、熱を抑えられる気がした。

「…なんか熱に浮かれたのかも、でも」
「わ、」
「冷たくて気持ちいい」

握った掌が、少しずつ熱を帯びる。そうして冷やされていく温度で、触れた部分が温く曖昧になってゆく。

「もう少し握ってていい?」
「はい」

少し細められた瞳が、優しげに揺れて、労るような色を乗せた。


こんな風に、なにも言わずとも分かってくれるのは、きっとこの弟だけなのだ。そんな感傷に身を寄せれば矢張り、何も言わずに肩に頭を寄りかからせて、そっと力を抜く。


あつくて仕方ない、
そんなことばかり考えている。


















八月八日、今日も叩くような雨が続いた。疾うに風足の速い嵐は過ぎ去っている。が、秋雨が合わさり結局京を出てから此方、大半は代わり映えのしない空色ばかりが続いていた。それでも進みは澱みなく、そして漸く此処までたどり着いた。

「殿、あと数里で御座います」
「あぁ、ご苦労だったな」

ちらと右から此方に向いた視線に頷いて、言を許してやる。師直は、伝う雨を拭いつつ斥候に問った。

「兵の逗留については何か?」
「はっ、今夜の支度は十分に済んでいるとの仰せで…、そして明日にでも此方側の全軍と纏めて征ることが出来る、とも」
「そうか」

他の数名に確かめるように視線を呉れれば、皆一様に問題はないと目礼を返す。

「分かった、下がっていい」
「は」

兵が下がると同じくして、数名を残してその場の面々も散っていく。とりあえず今日は日の高い内に休むことが出来るのだ、進みを叱咤する彼らの動きも軽かった。

……あと数里で、直義の陣営に着く。

「師直、」
「はい」
「任せていいな」

深々と礼を取るその視線は、寧ろ何処かしら安堵にも冷たさにも似た綾が絡む。少し苦笑して、言葉を重ねた。

「お前、もっと嬉しげにすればいいのに」
「…、尊氏さまの行軍において気を抜ける時はありませんで」

ぎこちなくも笑みめいた表情を刻むと、気にするようにもう一度雨を拭う。雨は確かに少しずつ強くなっていた。

「…なぁ、」
「先にお行きになりたいと、仰せですか?」

少し砕けた声色で言われた言葉に、素直に頷き返す。やはりどこか曖昧な顔で笑ってから師直は、ゆるりと向かいへ視線を流した。
黙って佇んでいた伯父は、師直にちらといらえを返し、此方にゆっくりと向き直る。口元に湛えた笑みは穏やかで、宥めるように一度目礼した。


「殿がお望みならそう致しましょう、もうこの距離で朝廷の兵があるとも思えませんし」
「お許し下さいますか」
「…何なりと、」

険を帯びるのは、師直の視線ばかりだ。こら、と軽く言えばあっさりと退く。それを眺めている伯父はだが何も言わず、そして少しだけ陰鬱な表情を浮かべる。

ぎこちなさの隠せぬやりとりだが、数夜前のことを考えれば仕方ないのかもしれぬ。師直に伯父と交わした内容を、そしてまたその逆にしても、黙って告げてやらないのは、恐らく自分の咎になると。…そう分かっているのだが。

ただ淵から思わされる深みを覗きこむように、苦みと愉悦ばかりが喉を転がる。この身を預ける相手を捜すような、母親を見失った年端のいかぬ幼子のような。そしてその拒絶ばかりを、受け止めるに聡いがこの二人。苦笑にしても、嘘はない。

「殿、といっても数名はお連れ下さいまし」
「馬が速い者なら誰でも構わん」
「重能、数名選んで殿につけ。元々先導に来たのだろう」

伯父の口調は何処か鋭い。子に厳しい質だとは最近まで知らなかったのだが。


「では、頼む重能」

頷いた重能は早速幾名かを呼んで、指示を出している。雨が、強い。








本の、指呼の間。それだけを駆ければ会える。そう思えば今更のように逸る気持ちが先走って、鼓動が跳ねた。

暫く会っていない。否、それだけではなく、こんな状況でも側にいない。ただお互いの危難を聞き案じることしか、出来ずに。

長く駆けてきた。ひどく遠くに感じるのは恐らく…恐らく、距離に付随するようなものではないのだから。

早く、早く

そればかり考えている。







馬を駆りながら、斜め前をゆく重能を見つめる。跳ねる泥飛沫を気にも止めぬ精悍な横顔は、時折几帳面に此方を窺った。

「重能、」
「はい?」
「伯父…憲房は、厳しい父か」

微かな逡巡のあと、重能は慎重に言葉を選んでいるようだった。

「…んー、そんな事はないですよ。勿論優しい、なんて事も更々ないですが。…そうお見えになりますか?」
「そう、だな…肉親には殊更柔らかな人に見えたから」

少し意外だった、と素直に言う。重能は視線を巡らすようにして、少し珍しい笑い方をした。

「この前の夜は、俺も驚きましたが」
「…難しいな」

はぐらかすように笑えば、それ以上は聞こうとはしなかった。その代わりに、軽く笑うように言い添える。

「兄に対してはまたもう少し違うんですが、…それも厳しさなのかどうか正直良くは、」

訳もなく少しどきりとして、手綱を握り直す。蹄鉄が石を弾く音が耳を掠めて流れた。

同じような問を重ねることに迷い、口籠もる。だが気付いていたのかいないのか、そのまま重能は続けた。

「…尊氏様のとことは、随分と違う感じですよ」

軽く苦笑混じりに言われた台詞なのに、どうにもぐらりと響く。自嘲気味に頬の雨粒を払い見返せば、急ぎましょう、と馬を促した。






何か時折滾るような熱が、自分を襲うのだ。

ぐらりと全てを席巻するように熱いのに、その波はどこか鈍重で沈滞ばかりを思わせる。勢い、燻るばかりで行き場のないそれを、冷ますのは容易ではなかった。ただそれでも、伝わる冷たさが変わらぬ限り、それがいつか消えゆくと信じられる。…この熱は弟の為で、そして弟が故なのだと。きっとずっと昔から、分かってはいるのだ。

抗えぬような熱が、それ故に冷淡に如何なる忖度をも顧みぬと知っている。

早く、冷ましてしまいたい。
ただそんな事、ばかりを。










ゆるやかな坂を一息に駈ければ、連なって延びる館の壁が見えてくる。門扉のあたりに見える数人分の人影が、段々と明瞭な姿を結ぶ。


例えば、今何処を目指しているのだとか。どうやって、何処を後にしてきたのだとか。流れただろう夥しい朱の量だとか、今、この時にもそこかしこで渦巻いている筈の一つ一つにしても。考えなければいけないことなど、山のようにある。ただ、その選択がその言葉面だけの意味しか帯びないような純朴な時代。…そんな時はもう記憶にもない、気がした。



だけれども。



頬を真横に雨粒が滑ってゆく。駆ける勢いを緩めずに、あとほんの僅かの距離を息急き切って詰める。早鐘の音で鼓動が喉をつき、灼けるように熱かった。もう、人影ははっきりと一人一人の顔が見て取れる距離。そしてただ一人、その中からたった一つの視線だけ、引かれるように目が離せない。

馬から飛び降りて、そのまま駆ける。足下を跳ね上がる水飛沫が、走りに遅れて後ろへ取り残されていく。

「……、」

乾いた喉が、音をたてずただ震える。軒先から此方を見て、小さく走り出てくる、姿。僅かに紅潮した顔。


上がる声をも、全てを握りこむみたいに。 駆ける勢いそのままに、飛び付くように抱き竦めた。



「…っ…!!」



腕の中強く強く抱いて、切れた息のままその熱を確かめる。確かに今腕の中にある、ただ一人。他のどんなことだって今はどうでもよかった。耳を自分の喘鳴が埋めているせいで、つきあがるような鼓動が喉を絞り、上手く言葉に出来ない。ただ只管にその存在だけを貪って、腕が震えた。

「…、」

恐々ほんの少し腕を緩めて、みる。そろりと顔を上げたその視線、たがうはずもないその彩がただ自分だけを映していた。


「直…義、」
「…兄上」


熱ばかりが荒れ狂い、何も続けられない。腕の中におさめたままに、片手をそろそろと頬に伸べて触れる。するりと自然に押し付けるようにして返された感触、手放しに安心しきったように弛んだ体躯に、いっそ泣いてしまいそうだった。


「直義、直義…」
「…はい、兄上、」

震える声で繰り返せば、矢張り返る声も揺れていた。どうしようもなくて、もう一度腕の中に閉じ込める。両腕一杯に抱いているのに、それでも砂地に水を撒くように餓えていた。

雨はもう煙るみたいな大粒のものが降り注いでいる。べたりと衣が張り付き、重く垂れ下がって手足に纏わり付く。なのに、一向に体が冷めゆくことはなく、ただその切っ先がまろく、宥められてゆく感覚ばかりが鮮明だった。

「…兄上」
「俺を、」

肩を埋めるようにして、喉から絞り出す。

「俺を呼べ」

呼んでくれ、と繰り返す。刹那息を呑んだみたいな気配があって、それからゆっくりと震える声が響く。顔をうずめるように押し付けられ、肩が燃えるようだと思った。

「兄上、兄上…あに、」
「直義…」

転がるような声が、浸す様に自分を沈めてゆく。ただ腕の中の熱だけに何処までも自分を預けて、全てを明け渡してしまいたかった。
何も考えられない。ただ、今斯うして弟がいて自分が居て、他に何が必要なのだ。





…―自分の肩に縋りつくこの掌が、他でも無く自分を求めて払った犠牲の大きさときたら。 ただただ滾るばかりの切情ばかりを持て余し、抱きすくめた力を抜けないでいる。


この熱だけが自分を生かし殺すのだ。


ただただ雨ばかりが、腕の中にいる直義以外を覆い隠して、降り続いた。






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