ひさしの下に入って来た二人に、大きめの巾を一つ差し出した。
まさか直義が雨の中飛び出ていくと思っていなかったので、二つも用意が無かったのだ。
真っ先に受け取ったのは尊氏で、彼はまず弟の頬と首筋、手を拭った。そして半ば湿ったそれで、滴る自分の雨の雫を拭う。
「髪、切ったのか」
「はい。兄上を待っている間に」
直義は掌でぺったりと前髪を押さえて、はにかんだ。
「元服したての頃みたいだ」
「そこまで短くはないでしょう?」
「…ん、そうかな」
交わし合う一言ごとに、尊氏はほのかな笑みを浮かべる。素直に喜びをあらわに
する直義より、もっと深いところで感情を転がしているらしい声は低く穏やかに
聞こえた。
言葉が途切れると、尊氏は手持ち無沙汰のように、恐らく記憶より短いだろう弟
の前髪を、不安げに人差し指で揺らした。
そんな兄の燻りを読み取っているかのような間の後、直義は口を開く。
「ほとんどなにもかも、置いて来たままなのでしょう、」
「ああ」
もう一度弟の頬を包んでじっとその瞳を見つめ、でも、と尊氏は言う。
「お前に会ったら、全部どうでもよくなった」
「…兄上」
尊氏がいれば尚更、私は直義の傍に侍る必要が無くなる。
じっと見ている訳にもいかず、だが急に離れるのも不自然だ。何とも居づらくな
って少し退き、二人から目を逸らし周りを伺った。
憲顕はもう、尊氏を出迎えた場所をはなれて縁側に上っていた。
半分程開いた扇で口元を隠し、部下に何か耳打ちをしながら談笑している。
相手は上杉の家宰、長尾景忠で、控え目に頷きつつ微笑を零していた。
彼とは何度か言葉を交わしたこともあるのだが、憲顕より、二三歳上だと聞いた。
終始家臣の身分を弁えた、私にとっては話しやすい相手だ。
直義の右腕である憲顕もまた、自身の右腕を有している。当然の筈のその図式に
、今更気付かされる。
というのも、憲顕は直義の傍にいる時、全く自分の地位や力、家族に関してのことも、誇示しないのだ。
人や立場、彼自身の顔。
今、直義が憲顕に関して知っている以外のものも、たくさん持っているにちがいな
いのに、憲顕はその気配を上手く消す。
おそらくは直義の性格を考慮する故。流石に立ち回りは計算高い。
たった今もそうだ。気を抜いているようで、常に周囲を伺っているらしい彼は、
すぐに直義が自分を探していることに気付いた。
勢いよく手首を振って扇を閉じ、同時に笑みを収め、草履をつっかけて歩んで来る。
「改めて紹介を」
見上げてくる直義に頷き返してすぐ、意外にも丁寧な所作で恭しく地に膝を折り、憲
顕は尊氏の前に深く頭を垂れた。
「ご挨拶が遅れました、…殿。」
憲顕がひざまずいたのに合わせ、弟の重能をはじめ、彼の部下達もみな、その場
で膝を折った。
統制された動きには急に差し迫ってくるような威圧感があって、
息を呑む。
「上杉憲房が嫡男、憲顕。殿のご到着をお待ちしておりました」
地に落とされた低い声は、それでも朗々と響いた。
尊氏は複雑な色で、目下の従弟を凝視する。場は静まってしまった。
上杉は部下であり、同時に紛れも無い『勢力』だ。そして今この時にそれを率いる権利を持
つのは、重能ではなく憲顕なのである。
「よい。立て。」
視線を伏せながら起き上がった憲顕の背丈は、向かい合う尊氏と調度同じ程であ
った。
直義は憲顕が行う一動一動に満足をしているらしく、期待混じりに兄の言葉を待っている。
「弟が世話になっていると聞いた。俺から礼を言う」
「まことに恐れ多きお言葉にて」
「畏まらずともよい」
憲顕の言葉を遮り、尊氏は人の良い、雄快な微笑を浮かべる。
合わせて緊張は緩み、落ち着きを取り戻した。
こうもたやすく場の空気を変えられるのは、昔からの尊氏の徳だ。直義ではこうはいくまい。
「お前、歳は」
「直義様と同じにございます」
「落ち着いているな。…やはり伯父上の息子だ。」
「いえ、どうでしょうか」
苦笑混じりに笑んだ尊氏の表情を冷静に観察しながら、憲顕は返事をした。
そして、曖昧さと、妙にこざっぱりとしたあきらめのような気配を滲ませながら心持ち頭を下げ、ちらと直義を伺う。
憲顕からの視線を受けとった直義は、嬉しそうに助け舟を出した。
「兄上、憲顕殿は伯父上のお話が苦手だそうです」
「そうなのか」
「私も、いつもかわされてばかりなのですよ」
「何せ、父と私では、種になるようなたいした話もございませぬ」
憲顕は少し笑んでそう述べてから、尊氏の前から身を引いた。そして重能の近くで、控
えるよう佇む。それは、直義の部下としての振る舞いに違いなかった。
何か隔たりを残したようなその態度を尊氏は訝しんだようだったが、弟に呼ばれ、直ぐにそちらを向く。
「夜までには、行軍も着きましょうか」
「ああ、後数刻もかからんだろう」
「では今晩軍議を致します。今の状況を、皆様にお伝えしなければなりませんし。よろしいですか、兄上」
「わかった」
直義は、はたと気付いたように目を見開き、そのままこちらへ振り返った。
「師秋」
「…は、」
「兄上に湯殿のお仕度を。その後は重能殿にも」
「畏まりました」
縁側に腰掛けた尊氏が具足を外すのを手伝い、脱いだ鎧を侍従に手渡す。
「師秋」
「はい、」
返事をして見上げたが、尊氏は黙り込んだ。ただ髪と顎の先からぽたぽたと垂れ
る雨の雫が、唯一目の前で動いているものであった。
「………何か、」
「いや、やはり、後でいい」
いつも尊氏は私に何かを聞こうとして黙り込む。それはたいてい直義を思っての
ことなのである。
上杉兄弟に何かを伝え、またこちらに戻って来た弟をじっとみつめ、尊氏はもどかしげに首の辺りを触っていた。
重能はまた何処かへ向かったが、憲顕は従ってきた。
すると、兵が一人直義に駆け寄り、何事かを伝える。
直義は表情を変えず頷き返したが、不自然な強張りが見えた。
「どうした」
兄の問い掛けに直義は眉をしかめ、そして尊氏を避けるように視線を下げた。
その様子を見た憲顕が口を開く。
「ならば私がお相手をさせていただこうかな」
「くれぐれも、」
「分かってるよ。失礼はしない。ただ、詰問はこれで最後にして頂こう。後は明日の見送りだけ
でいいとお伝えしようか」
「、…はい」
「夜まで、兄弟水入らずで休まれよ」
「……ありがとう」
直義の肩を軽く叩いて、廊を進んでいった憲顕の後に、さりげなく景忠が従って
いった。
「直義。まだ答を聞いていない」
「いいえ、」
「何があったのかと聞いている」
詰め寄り、しかし辛そうにしているのは尊氏の方であった。
「俺が、俺が来たんだから。…そんなに気を張るな」
「わかっています、兄上」
直義はふわりと笑いかけた。それは彼がいつも兄を宥め、安心させるためのもの
だと私は知っていた。
室に行きましょう、と直義は冷えた兄の手を取る。従う尊氏の視線はまだ、弟を
捉えたままであった。
びしょ濡れのままもう一度弟を掻き抱く尊氏の腕。
そして、下から回し返される、直義の腕。
戸の隙間から一瞬見えた光景の、残像の中で。
ずり下がった袖からのぞく直義の腕は、何時になっても細くて生白い。
そして一人の男を搦め捕るに相応しい良いかたちをしていて、それを見るたび私
はぞっとせざるを得ないのだ。
直義という存在と、それを作り上げた尊氏という存在。
その両方に、ぞっとせざるを
得ないのだ。
互いに縋るようにして確かめ合う愛情は、肉親、のものだけではないのだとした
ら。
黙って背を向けた障子の向こうから、濡れた息の音が一つ漏れた気がする。
しかしそれもまた、私の自分勝手な想像なのかもしれなかった。
「……湯の、仕度が調いました」
戸より二三歩離れた廊から声をかける。
返された尊氏の声は、少し掠れていた。
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