「失礼致す」

「・・・どうぞ」

ぴんと伸びた背中。手本の様に書机に向かう姿は訪れる度寸分も違わない。
流れるように走る筆を止めて、ゆっくりと顔を上げた。

足利尊氏の弟、相模守直義。
後醍醐天皇の第七皇子成良親王を奉じて鎌倉に下り、関東十カ国を治めている。
この親王はただのお飾りで、実質統治権を握るのは補佐という名目のこの男だった。

鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇は新政を開始した。
だがふたを開けてみれば天皇独裁の官僚政治。「新政」の名のもと行われた「親政」には早くも不満が噴き出していた。
たった一年と数ヶ月で、地盤は揺らぎ始めている。
この鎌倉将軍府は、いわば都に入ることが許されぬ武士達の拠点なのだ。

「どうぞ楽になさってください、憲顕殿」

元々丹波を本領に持つ上杉氏。
父憲房、つまりは直義の伯父の命で私は鎌倉に下った。
元々世の流れを変えるような渦中にいなかった自分に、突然任されたのが直義の補佐だ。


都合の悪いものは圧力で握り潰される。
遠く離れた坂東の地に伝えられる知らせは、当然朝廷にとって都合の良いものばかりだ。
それに気づかぬ者など最早いない。
だがその見え透いた座興を見て見ぬ振りをするのも、一種の決まりごとには違いないのだ。

だから欠けなく自らの役割をこなし、欠けを探すことで相手の足元を掬う。

直義はそれを当たり前のようにしてのける、頭のいい男だった。



「何か用意すればよかったですね。甘いもの、食べますか?」

直義が腰を上げかけると、廊から調度良く声がかかる。

「義父上、茶菓子をお持ちしました」

「ああ、直冬。ありがとう」
「いいえ」

軽く微笑みながら入ってきたのは直義の息子だ。盆の上には葛の菓子が二つ、乗っている。
少年とも青年とも言い切れぬ。だがとうに元服は済ませていて、物腰は立派なぐらい落ち着いていた。
直義は同い年の二十八、直冬はおそらく十五に満たぬ程。
さすがにこの年はおかしい。そして実際のところ実子ではないのだろう。色々事情があるようだったが、上手くやっているようだったし別に聞こうとも思わない。

「気が利くな」

盆を置いてから、丁寧に一礼をして下がった直冬を見送ってそう呟く。
はい、と頷いた直義は下を向きながら優しい笑みを零していた。


「大塔宮と尊氏殿の対立、益々深まるばかりとの報告。どちらかが行動に移られるのも時間の問題だと」


朝廷内の不和、特に尊氏に関わるようなことは、ほとんどこちらには入ってこない。直義に動かれると厄介だからだ。
だが直義は、ただうっすらと目を細めて頷いたのみだった。

「既にご存じか」
「あぁいえ、そういうわけではありませんが…。粗方予想はついていましたから」

そもそも、密偵を立てろと言ってきたのは彼だ。
だがその立場と便宜上、私が本領に残っている弟、憲藤に遣いを送り様子を探らせている。
本当は父憲房に頼む方がよいのだろうが、敢えて外した。『同じ川の水を引くな』と言う直義の言葉に従ったのだ。


ともかく、なんだかんだで私は彼の右腕にまで収まっているが、ここまでの仲になったのにもちゃんとした理由と道筋がある。

最も、鎌倉に下り初めて挨拶に行った時、彼には全く取り付く島がなかった。









室に入ってきた男は、清げな瓜実顔をしていた。
座ったまま姿勢を正し礼をする。頭を上げて前を見ると、相手はまだ入り口の近くで立ち止まったまま自分を見下ろしていた。

『これが直義か』

不自然にならぬ程度に目を凝らす。 立ち姿から見るに、痩せ型というよりも線が細いといった方が似合う。
きちりと整えられた真直ぐな黒髪に続いて、首から背まで綺麗に筋が通っていた。

「わざわざご足労頂き有難うございます」

直義は警戒した険しい視線のまま、唇だけを動かす。

「足利直義と言います。二人だけでお話をするのは始めてですね、上杉憲顕殿」


よく通る声だが気やすさはない。表情も始終おとなしかった。ぎこちない物言いは、自分のことを知らぬということをわざと示しているようでもある。
距離を作ろうとする直義は、綺麗な所作で少し離れた正面に座る。
膝の上に置かれた手の甲の 皮は厚さも色も薄そうで、寒色の衣から浮いて見えた。



「父から直義様のお噂はかねがね」
「…そうですか」

直義は何か引っ掛かったような顔をしていたが、それをどうやって表していいかわからぬらしい。
ほんの一瞬動いた視線は、すぐに元に戻った。


そもそも直義の周りには人が少なすぎた。
世話はほとんど息子がやっていたし、必要な時以外人を連れようとしないのだ。
彼が避けているのか、周りがわざと距離を置いているのか。
おそらくはその両方であるのだが、だからといってこれといった不満を耳にするわけでもない。


父の念押しもあったにはあったが、単に私としても興味を持ち、ごく軽い調子でまめに彼の館を訪れた。
そして不思議なことに、直義は一度も私を拒まなかった。
どう接していいのかわからないといった不安は垣間見えたが、それも徐徐に緩んでいく。


「同い年なのですから堅苦しい言葉はやめて下さい。私は友人として憲顕殿とお話がしたい」

直義がそう口にしたのに付け込んだあの晩が、本当の始まりだったと思う。


「では早速、一つ伺ってもいいか」
「はい」
「直義殿はあまり、人を好いてはおらぬな」
「・・・そうですね」

横に座る私を通り越して、三つの燭台に夫々灯った炎の一つだけが、彼の瞳に移っている。
彼はいつも執務の為に使っているこの室だけで人と会う。自室にあげない。それは私も例外ではなかった。

「なのに私を、こうして迎えてくれるのは何故だ」

「知りたいですか?」
「ああ」

そう頷くと、直義はやっと視線を合わせた。

「もう二度と顔を合わせたくなくなるかもしれませんよ」
「・・・それは私が決めるさ」


あの時はまだ年の暮れ、冬の盛りであった。締め切った障子の奥にも、深い夜の闇が透けている。
さして広くもない室の中で身を固していた彼だったが、この言葉にふと安堵したように見えた。


「従兄弟というのは血の繋がりが深い。兄弟、父と母、伯父、伯母とその次ですから。 例え家臣という名があっても、私は赤の他人を宛にしません」

「血にこだわるか」
「ええ、血族だけは避けようもない一連託生。己の不利益にならぬ為に私に害は為さない」

躊躇いなくすらすらと答える。聞いてしまった、とちらりと考えれば、己と直義の前に並べてある二つの杯が白々しく映る。
だがそれだけが彼の全てだとは、何故か納得出来ない。友人として話がしたい、という言葉に偽りは無かった筈だが。


「利己なのか?」
「そう聞こえてしまうかもしれません。でも、私は嘘を付きたくないのですよ」


浮かべた微笑みは何処か淋しげではあったが、何もかも割り切ったように澄んでいる。
伺う私の視線に後ろめたさも感じず、彼は顔を上げていた。
その横顔を、私はただ単純に気に入ったのだと思う。


「私の為ではなく足利の為、引いては兄上の為」


直義はおもむろに杯を手に取り、酒を少量嚥下する。
細い首から浮き出た喉仏が僅かに動き、ふう、と息を漏らした。


「けれど貴方への信頼と今述べたことは別です。たぶん私は私の為に、こうして 憲顕殿と酒を酌み交わしたかった。それこそが、利己なのでしょう」

「口説き文句か」
「真実です」
「成程、合点がいった」

酒瓶を持ち上げ直義の杯に注ごうとすると、まだ一口分程残っていた。直義は慌てて飲み干し、空にする。
溢れる寸前まで満たされていくそれを、女のような指が支えていた。自分の杯にも注ぎ、手に取る。
直義は答えを待つように首を傾げて、私の動き一つ一つを伺っていた。



「では三世の契り、固めの玉杯といこうか」

「よろしいのですか?」

「然るべき、だよ。直義殿」



一気に飲み干した私を見て、直義は溶けそうな程柔らかく笑った。


零れた淡さが、不思議なくらいの余韻を残す。
魅せるためでなく落とされた雫は、ねじ伏せる力そのものにも似てただ無垢だ。
面食らった私になど気付かずに、直義は杯を呷る。


「金蘭とも成りますように」


耳を抜ける声は少しくすぐったかった。
普段は真っ白な彼の頬が、酔いか照れかで色付いているのを眺める。そして軽く、頷いた。

馬鹿みたいに無邪気で頑なな直義は間違いなく、私にとって価値のある相手であった。

押しつけられたと言っても罰は当たるまい。 条件などは掲げる余地もなかった。
知らず口の端を上げて微笑む。

強引で他人よがりなこの男と、私は進んで杯を交わしたのだ。








「尊氏殿が御心配ではないのか」

『私の為ではなく足利の為、引いては兄上の為・・・』


あの時の言葉の一つを思い出し、好奇心から尋ねる。


「心配でないわけはありません。が、兄上なら大丈夫だと信じています」

“兄上”への絶対の信頼と忠誠。母が同じだというこの兄弟はさぞかし仲が良いのだろう。そして尊氏は、足利の家督を 継ぐに相応しい人物だ、と直義の態度は物語る。

恐らくそれは間違っていない。こまめに文や使いなど交わしている様だったし、後醍醐天皇が彼を新政権の中枢に加えなかったのはその人気を恐れたからだというのは明白 だ。

だが直義が兄を語るとき、違和感があった。何処かちぐはぐで不安定な、 または彼自身を閉じ込める何か

そしてそれが直義を変えるだろう。

世を変える流れへと、変えるだろう。

突き刺すような声色を、私は顔を上げて待ち受ける。

「建武新政の崩壊など、時間の問題でしょう」
すうっと目の前の薄い瞳の色が、変わったような気がした。首を傾げて続きを促す。


「きっともうすぐ、新しい幕府が立ちます。兄上がきっと、…立ててくれる。大塔宮は邪魔なだけかもしれませんね」

「『兄上』が望めば、な?」







ほどなくして、直義は数日鎌倉を空けると言った。
京の兄に、会いにいくらしい。







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