久方ぶりの京。
兄上と大塔宮の対立ももう引き帰せぬところまで来ているらしい、との憲顕の話を聞いた数日後に私は鎌倉を発った。
相模守に命ぜられて京を出たあの日、都は降りしきる雪に包まれていた。
まるで追い立てられている様で振り返る気にもなれず、ただ逃げてなるものかと手綱を頑なに握り締めた。
六波羅を倒すがために、兄上と勇んで入った都
だがそこには私の望んだものはなかった。
むしろ、望まないものばかりで嫌気がさしていた。禍禍しい、とまで思った。
そんな私の気を知ってか知らずか、こうして訪れた今も京は私を拒んでいる。
暗い夜の闇を振り払う様にして馬を進めた。憲顕も直冬も一緒ではないし、連れはほんの数人しかいない。
それでも、見ず知らずの誰かと共にに馬を進めることへの抵抗が薄れてきただけ、私は変わることができたのだと思う。
館に着くと、門が静かに開く。
前もって使いを送ったものの、突然の来訪に兄上は驚いているだろう。不思議に思うかもしれない。
別れてからもう十月近くなる。
どんな顔をして会えばいいのだろうか。
一人になることに耐え、そしてそれ以上に、一人だからこそ出来ることを考え続けた。
何かに追われるような日々を自らが望みながらも、兄上のことを考えない日などなかった。
だが私の想う兄上は私の傍らにいるときの『記憶』であって、今の兄上の姿ではない。
その隔たりと向き合うことを恐れて、なかなか鎌倉を離れることが出来ずにいた。
だから、宮のことなど本当は都合のよい言い訳にしか過ぎないのかもしれない。
私はずっと、兄上に会いたかったのだから。
京にはほんの少ししかいなかったけれど、見覚えがある兄上の屋敷。
私が降りた馬を、師秋が何も言わず引いていった。
急に不安になる。
それでもとぼとぼと、足を進めた。
向こうから、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。
「兄上」
「直義、久しいな」
廊まで迎えに出てくれたらしい。
久しぶりに見る姿に安心する。自然と足が早まり、最後は走るようにして近づいていく。
向けられる視線は強く、温かい。嬉しいというよりも切なかったが、唇を軽く噛んで耐えた。
「急に訪ねてしまってごめんなさい、」
落ちた肩に、兄上は優しく手を置く。
「会えて嬉しい」
「・・・はい、」
「ずっと案じていた」
ふ、と息が抜け、堪らずその身に縋り付いた。兄上はうん、と頷きながら背を撫でてくれた。
変わらぬこの感触に、やっと会えたという思いを噛み締める。
「とりあえず中に入れ、直義。」
「で、どうだ鎌倉の方は」
杯に酒を注ぎながら兄上が尋ねる。何とか落ち着きを取りもどした私は、微笑みながら答えた。
「別にどうということもありませんよ。それなりにやっています」
「何だ、おもしろくない」
悪戯っぽくそう言った後、ぐい、と杯を呷る。
兄上の潔い飲みっ振りは、見ていて気持ちが良い。私も決して弱い方ではないものの、一度として適わなかった。
昔、無理矢理飲み比べをさせられたことがあったが、勝てなかった。
というより私の記憶が途中で不自然に途切れ、気付いたら朝になっていたのだ。
おそらく酔い潰れたのだろう。
その間に何があったのかは、結局今もわからない。
「…で、何かあったのか」
殊更真面目な顔つきで、私の顔を覗き込む。
「何かあったのは兄上ではありませんか。私は兄上の心配をしに参ったのです」
私が何か相談をしにきたのだと思っていたのだろう。
兄上は一瞬驚いた様だったが、極り悪そうについと顔を逸らした。
内容を察したらしい。
「もう鎌倉にまで知れているとは、侮れんものだ」
苦笑まじりに呟く。
その表情からも、対立はかなりの段階に来ていると見て間違いない。
「私は丹波の伝から、先日聞いただけです。ですが私が京にいた時から、少々不穏に見えましたし」
出来るだけ何でもない風に言って、少し酒を舐めた。
建武新政下、大塔宮は自らその功を誇り、帝に強請して征夷大将軍に任じられた。兄上が鎮守府将軍にしかなれなかったのは、この宮のせいもある。
勿論父親である帝は、喜んで位をあげたにちがいないが。兼ねてから大塔宮は、何かと兄上を競争相手の様に見ていた。そして必要以上に敵視し
ていた。それはこの状況というよりも、帝の恩寵を受ける兄上個人への嫉妬だと見える。
「…あいつは、俺を殺す、とも言い出した」
「冗談、ではないでしょうね」
「幕府を倒したと思えばすぐこれだ。」
ふぅ、と小さく溜息をついて、やれやれという風に首を振る様子にふと笑い、しかし急に思い出したように自分の瞳から凍り付いていく。。
「…兄上。」
「ん?」
「兄上は、幕府を倒して朝廷が立ち、それで終わると、そうお考えですか?」
「…」
目を細めて、はたとこちらを見た。場が少し、緊張を帯びる。
「どういう…意味だ。」
聞かずとも、本当はわかっている。その目の奥に浮かんでいるのは間違いなく迷いだ。
今いる状況に対しての迷い。鎌倉幕府にいた時と、同じ。
「鎌倉には、新政に弾かれた武士達がたくさんいます。中には優れた能力や心ざしを
もっている者も、新しき世を創るために身を尽くした者もたくさんいる。
なのに、ただ帝に気に入られていないというだけで、彼らには活躍の場すら与えられな
い。」
ただ黙って聞いている。何の言葉も挟まれなかった。
「確かに幕府は倒れ、新しき政治が始まりました。しかしそれは、人々が望んだもので
しょうか。兄上が望んだものでしょうか」
「…だが、帝は…。」
そういって、兄上は言葉を切った。自分の中で、答えを探している様だった。
「ごめんなさい。兄上を困らせたかったわけではないのです。ついつい愚痴をこぼして
しまった様ですね」
重くなった空気を和らげる様に、いつもの口調で言う。
「とにかく、身の回りにはご用心下さい。私が力になれることがあったら何でも致しま
すから」
「あぁ。大丈夫だ。」
まだ何かひっかかる様な顔をしていたが、兄上はしっかりと頷いた。
大塔宮のことは、近いうちにけりがつくだろう。そのうち、動き始める。
だが、帝は。
帝のことについて、まだ迷っているのだ。そしてこれからもきっと、迷い続ける。例
えその首に、刄をつきつける瞬間でも。
それでは駄目なのに。何も変わらない。
どうすれば動くだろう。その迷いを、断ち切って。
「せっかく大好きな『兄上』との再会だったというのに。杞人の憂いでいらっしゃいますか?直義殿」
そう切り出した憲顕に少し視線を送りつつ、彼をここまで案内した師秋は丁寧に戸を閉め出て行った。
「内憂外患、帝様々です」
外患ね、と笑う彼は、小箱から砂糖を一つ摘む。一瞬退屈そうにそれを見下ろし、今度は物珍しそうに指先で一度撫でた。
「直義殿。そういえば留守を預かる間に、よからぬことを耳に挟んだ。信濃の諏訪氏に匿われている北条高時の息子の動きが、最近何やら活発らしい」
顔を上げて伺う視線は、口調と裏腹にだいぶ鋭い。
しかしそれを気にするより早く、憲顕の報せは私の頭の中で全く別の構を成す。
余計なものを真っ白にして、意味と『使い方』を考える。
見る見る積み上がる。
出来上がった目録が、どす黒く、だが望みの為に輝きだす。 微笑を浮かべた。
「すっかり忘れていました。兵でも集めていたら大変なことになりますね」
「…まぁ確かに、大事になるだろうな」
大事、になる。そうすれば。
「しばらく様子見でいいでしょう。何も起こらないうちから慌てていても、しょうがないですから」
軽く頷きながら、憲顕は親指と人差し指で挟んだ氷砂糖を私に差し出す。
「憲顕殿が、食べていいですよ?」
「うん。いや、まあ受け取れ」
怪訝に思いながらも、掴む彼の手に引かれるままに手を伸ばし、掌を上にして開く。
示すものを図りかねて首を傾げても、妙に無表情な彼がそれに答える気配はなかった。
「手を打った方がいいと、おっしゃりたいのですか?」
「いや、」
ぱら、と音がした。
掌には、砂のように崩された白い砂糖が、粉と歪な塊として落とされていく。
「・・あ・・」
「異論なんかないさ。直義殿がそうおっしゃるなら」
全て滑り落ちきる前に、憲顕は指先を自分の口元にもって行く。そして舌先だけで一度舐めた後、呟いた。
「たいした献上菓子だがなあ。まあ今度は何か、私も気の利いたものを奉るか」
「・・・・ああ、楽しみにしています」
まだ驚きの抜けきれぬままの私に、彼は宥めるようにして目を細め、笑い返した。
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