水鳥が気だるく身震いをするように、彼は一度長い直垂の裾をはためかせた。

見るからに上質とは言え、狩衣より余程素朴簡単な武家装束を纏っているのに、公家、もしくは貴族に似た所作を時々ちらつかせる。 指先まで染み付いた、しかし何故かこの男の印象は其れ程癖のあるものではないのだ。
というよりも、何度か顔を合わせてはいるが、彼、上杉憲顕のことはよくわからない。

この鎌倉で瞬く間に、直義の右腕へと上り詰めた。
かの上杉憲房の嫡男、即ち直義と同年の従兄弟である。
早くから尊氏のもとへ奉公にだされた重能に対し、この憲顕はずっと本領に残っていたと初めに本人の口から聞いた。


『私のような放蕩息子を御眼にかけて、恥を曝したくなかったのでしょう』


彼は苦笑してみせた。
何故、という疑問を予め摘み取るかのようだった。






「執事殿、」

「…はい、……いえ…師秋で結構です」

ほんの薄く身構えれば、緩く微笑んで腕を組む。
振り返った様は正しく、京の貴公子、などと言ってしまえる。
だが素直にそう評せないのは、直義と同じ歳、つまりは九つも年若いというのに、落ち着きというには過剰なほど何か諦観した表情と振舞いをするせいだ。

「直義殿のお加減はいかがですか」
「過労、かと思います。元々はあまり、お体が丈夫な方では」

言い終わらぬうちに、彼はでしょうねと頷く。そして視線と共に、私への意識を廊の向こうへ逃した。

「今は?」
「直冬様が付いていて下さいます」
「気も効かせず押しかけてしまって申し訳ない。…まあ、昨日から少し気掛かりではありましたが」

ええ、と曖昧な返事をした。こんなに長く傍にいるのに、直義の様子の変化に疎いままだ。 彼の方が余程、気が付くというものだろう。
憲顕は黙り込んだ私をじっと観ていたが、組んでいた腕を解き足を踏み出した。 その時はたと、私は自分の役を思い出す。

「直義様は貴殿を、心より信頼しておられます」
「身に余る所存」

引き止めようと掛けた声に、彼は仕方なさそうに足を止めた。こういった時、彼は驚く程素直に自分の不快感を露にする。 相手が私だと解っているからなのだろうか、と思う。 しかしそれが癖意なのかどうか確証がないのは、彼は私だけでなく、これといって誰にも角を立てないからかもしれない。

「もしも上杉様がいらっしゃいましたら、何時もの室にてお待ち頂くよう、仰せつかっております故。もう少々、こちらでお待ちください」
「成程ね」

ふう、と浅く息を吐いて、だが全てを解したように、憲顕は今仕方出てきたばかりの室に戻る。
予めこの場所に、直義は火鉢で暖を取らせていた。彼を迎え入れる為だ。病の身体を起こして。


「ああそう、執事殿。」
「はい、」

「もしも此処に誰か尋ねてきたら入れてくれないか。私の連れだ」
「直義様は、・・・ご存知なのですか」

此処は直義の館である。ましてやその主人が、見ず知らずの人間を厭うことを彼が知らない筈は無い。 いぶかしんでいる私に気付いているであろう彼は、初めて目元から笑んだ。


「必要はないでしょうが、まあこれから一応話をするつもりではいます」
「・・・え」
「執事殿も、相手を見ればわかりますよ」
「、はい」

これ以上語る気も無さそうな彼は、ひらひらと手を振って見せる。結局追い立てられたような形で、戸を閉めた。


足利家を上に頂く、高と上杉という二つの武家。
その形がまるで当たり前のようになったのはいつからだろうか。 憲房の名が話に上り、そして何度か見かけたこともあれど、分家である自分にあまり実感を伴う存在ではなかった。
しかし今となって思い返してみれば、尊氏を頂くのはいつのまにか師直ただ一人では無くなっていた。


そして、この鎌倉で


室を離れた廊ですぐ、直冬を伴った直義と擦れ違った。
夜着から直垂に着替えている。そして思いの外足取りは確かで、私の取った礼に何時も通り小さく頷き返した。







「ああ、えっと久しぶりだな。その、・・・そう、たしか、師直じゃない方の執事の、」
「師秋、と申します。重能殿」
「悪いな。顔は覚えてたんだけどよ」
「お気になさらず」

憲顕の連れ、元より彼の義弟である重能は気まずげに中指で頭を掻いた。
日に焼けて引き締まった顔立ちと、目を引く長身。まだ歳若い彼とは、直義が尊氏と京で別れたあの日以来である。この前の訪問では、顔を合わせなかった。
以前からも、本人と顔を合わせるより、ため息交じりの師直の口からその名を聞く方が多かったことを思い、苦笑する。
確かに、相性というものがあるのだろうと。

しかし、不思議ではある。
尊氏の側近である筈の彼が、どうしてこの遠い地、鎌倉にいるのか。

それも、宮が到着するの十二日前である、今日に。


「俺の話は通ってるんだろ」
「え、・・・はい。上杉様から伺っております」

「兄貴から?・・・直義様、でもなくて?」

何故か一度眉を顰めた彼だったが、くく、と下を向いて笑った。

「あんたは俺がこっちに来るっていつ知った?」
「・・・たった今、こうしてお迎えをして初めて、で御座いますが・・」

感心なのか関心なのか。彼はにやにやして頷く。そもそも何に対しての笑みなのか。

「はは、さすが徹底してんのな」
「・・・・・?」

「いや、どうでもいい話さ」

軽い口調で話を仕舞いにしてしまうと、重能は視線を廊へと促してみせた。
これ以上訪ねる術もなく、すたすたと歩く彼の足音に急かされるように前を歩く。 そして室が見えてくると、重能は待っていたように私を追い抜いてしまった。

「ここまででいい。どうもありがとさん、・・・師秋、で合ってたよな」

はい、と頷き返せば彼は得意そうに笑った。それがあまりにも屈託無かったので、この表情が何に続いていくのか、私には見当もつかなかった。

「俺はさ、師直よりあんたのが執事っぽい気がしていいんだけどよ。遠慮を知ってるっていうか」
「・・、・・・有難う、御座います」

唐突な彼の言葉に面食らったまま、反射で礼を述べる。彼の鋭い八重歯が、ちらと覗いた。



「でもそれだと、俺達には勝てないんだよな」

「・・・え、」

「俺は腹の中に溜めておけない性格でさ、憲顕と違って。だからまあ、仲良くしようぜ。同じご主人様になるわけだし」


ぽんぽんと気安く肩を叩いた後、彼は颯爽と踵を返す。
そして何事か声を掛け、躊躇い無くあの室に入っていった。



重能の言葉の意味が、そして憲顕の真意が解らぬわけもない。
だがそれを咀嚼し、飲み込むことが、自分一人に出来る筈も無かった。

途方もなく、彼がいなくなった後の廊を眺める。

ほんの一刻前に擦れ違った直義の、あの涼しげな顔が頭を過ぎった。
そして取り繕うように堅い彼の表情が、何時何の為に崩れるのかを唐突に思い出していた。

取る、取られる
勝つ、負ける、等とどうして。

私は今までに直義の何を引き受け、何を差し出したことがあろうか。
得たい、と思ったことがあろうか。
助けを求めるかのように真摯に、その存在を思ったことがあろうか。

否。何故ならばその必要が無いから、だ。
私に、その必要性は求められていないからだ、とずっと前から割り切っているつもりだ。



なのに、執事殿、と呼ばれるのが何時も後ろめたかった。

きっとそれは彼のせいなどではなく、あの時黙り込んだ私に彼が観たものが真実だからだろう。



ゆっくりと動いている。動かされているのだと、あの時従弟に言えればよかった。
世、などというものよりも余程遠く、そして皮膚の下で脈打つよりももっと生々しい。


黙していれば、喰らい尽くされるかもしれない。
黙さなければ、喰いちぎられるかもしれない。

飲み込んでいく流れ、
・・・・しかしそれでも、彼らが直義の助けとなるのならば

そっと廊を戻る。

いつになく声を立てて笑っている直義の、その声だけが耳に響いていた。






(補足)高師秋は直義の執事ではないか、という説をもとに設定をしていますが、定かではありません。


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