夜も更けゆく中、廊を折れて向かいにある主の室の燭は未だ点されて、廊にまでその仄かな光が漏れている。今宵は既望、夜闇に尚、月も明るく落ちていた。

兄弟久方ぶりの再会を祝し、話すところ尽きぬといった風なのであろう。時期柄穏当な話ばかりという訳にもいかぬであろうが、傍にいて声を交わせるだけで尊氏は満足するだろう。何せ十月ぶり、いざ先触れの使者が来た時などとんだ浮かれ調子であった。流石に直義を迎える段になっては、それなりに落ち着いて迎えてはいたが。しかし正式な訪問でもないとはいえ、着いた途端に室に引っ張りこみ話しこんで、と実のところ大して平静を保てている訳でもなさそうだ。




廊からかかった声に応えを返し、入ってきた姿に目を凝らす。生憎此方の室はとっくに灯を落としてしまったが、月明かりに慣れた目は直ぐにその見知った顔を象った。


「師直、お久しぶりです」
「…師秋、灯をつけた方がいいですか?」
「いえ、十分に」


確かに控え目に笑みを浮かべてみせた、その表情まで見て取れる。頷きかけて回廊に面し明かり取りの開いたこちら側へ誘いながら、用意させていた茶を運ばせた。


三つばかり年上の此の従兄は、やはり高の名を冠して足利の…直義の執事の任についていた。分家の師秋が直義の執事にと選ばれたのは、単純に自分の弟よりはこの従兄の方が直義の意に沿うだろうとの目算故だ。幼い頃の直義は内気な童であったし、歳の離れた相手、というのは足利家からの要請でもあった。実際上手くやっているようではある。自分と尊氏の接し方とは余りに違う故、良く分かりはしないのだが。


「関東はどうですか」
「元々長く在った地ですしね、大して変わりもしていません」

茶を啜りつつ、師秋はそっと視線を落とした。

「…その割には、物悩みですね」
「それは、師直も同じ事では?」

苦笑した師秋がちらと灯りの漏れる室に目を向けたのに気づき、肩を竦めた。

「京は…変わらない、という訳にはいってないでしょう」
「……、ええまあ…」

思わずまざまざと浮かんだ光景に、苦いものを噛みしめる。この目で見た訳でもないのに、酷く生々しく目蓋の裏に焼き付いていた。
―…地に伏せて倒れる姿は、血に濡れて微動だにしない。散り行く艶やかさがその体躯を隠す様に降り積もって、やがて全てを覆い隠し…―


「…何か、」
「師秋は明日、直ぐに起つのですよね」
「はい。直義様が関東を長く空ける訳にはいきませんからね」
「その方が…いいです」

直義に累が及べば、尊氏は直ぐ様行動に出るだろう。…まだ、準備が整っていない。千に届く数を集めるには、もう少し。

「師直、何が在ったんですか」
「…直義どのには、伏せておけとの主命ですが」

ちらと伺えば、刹那迷うようにしてから師秋は頷いた。





―…予てからの石清水への行幸が行われたのは、数日前のことだ。帝の随行と、盛装した華奢な一行は三日を男山で過ごし帰洛するという日程であった。

寄りによってその行幸の最中、襲撃があったのだ。宝塔院から宿所へと戻る途で、襲い来た刺客は何と楠木正成の弟、正季の手の者。先の六月の宮の夜襲の際も楠木は六波羅に兵を回す気配を見せた。背後にあったは北畠親房と見え、畢竟するに矢張り宮の一手であった。
幾ら尊氏が手薄な処を狙った、とはいえ帝の寺への参詣の最中である。寧ろ尊氏を本に殺せていたなら、どの様な騒ぎになったか計り知れぬ程だ。

警戒していたとはいえ寺院の直下での石段でのこと、完璧に不意を衝かれた。結果手傷こそ負いはしなかったものの、石畳での攻勢に足首を挫いた尊氏と重能に、六波羅に帰り来てから事の顛末を聞かされた身としては正に血が引く思いをした。

これ位どうということもない、と足を引き摺る事もなく尊氏は室に引き上げた。が、行幸から帰った次の日は午頃まで微睡み、結局は疲れ隠せぬといった様であった。





「……尊氏さまにしても排斥如何については今更としても、斯うも後一歩で御命落とす様な危地に置かれるとは思われず…」

「到頭御危難に会われたか…」

不穏な光景を振り払い、顔を上げる。難しい顔をしている師秋に、ふと気に掛かったことを、そのまま口に乗せた。

「…其方では、どう聞こえてきますか」

遂に、といった感の強さからは高まる緊張自体に対しての意外感は感じられない。

「…あぁ…それでしたら上杉様が忠実に間蝶を飛ばしてますから、其処まで耳の少なさに困窮することにはなってません」

確か直義の書簡で上がっていた名だ。安堵に溜め息をついて、だが新たに浮かび来た疑問に背が冷える思いがした。

京の情報は、関東の直義に隠される。今のところ何とかなってはいるが、其れは直義に動かれては困るからだ。


「…では関東で変事あった時に、此方が動くことは許されるのでしょうか」
「……難しいでしょうね」


再度視線を向けた室では、いつの間にか明かりが落とされている。月も高く昇り、冷えた茶椀の中でゆらりと影を遊ばせていた。



「累卵の危うき、ですね…人を集める算段を整えているのでしょう」

窺うような視線に、驚いて目を見張る。尊氏様、というか師直ならそういう手を使うと思っていた、と苦笑する師秋に少しだけ決まりの悪い思いで眉を寄せた。

「…千は欲しいと思ってます。憲房様も御尽力下さってますし、多分直ぐに整います」
「言い分は、何を用意しているんです」
「貞氏様の、法要と」

そうですか、と頷いた師秋は、軽く息を吐くとやはり明かりの落とされた室へ視線を向けた。


「…穏やかに」
「え、?」

呟いた声に滲む色は、諦めに似て何処か痛々しかった。

「惜しむらくは何事も無く、穏やかにお過ごしになれれば、良かったのですが」
「……そうですね」


穏やかに。例えば帝の敷いた聖業が世の、武家の望む其れであったなら。正しく行われる新政の中で、行きずりの諍い以上のことは起こらず、ただその中で勤めるだけでいられれば。何も起こらず、起こすこともなく、過ごせれば。其れが恐らく最も。

…昨年名を、変えた尊氏が、密かに呻吟していることを知っていた。弟に注ぐ全ては代え難く、だけれども実質初めて抱く主を、尊氏がどうしても見捨て切れぬ事。

何事もなくば、裂かれることも無かったであろう二つの思惟が。



「……直義どのは、何か仰ってましたか」

ちらと何かしらの色を閃かせた師秋は、だが静かに首を横に振った。師秋は、例え直義が何を漏らしても此の場では言わないだろう。そうと分かっていて聞いたことを、当然師秋も理解していたから、目端で諫めるように見返してきた。


「済みません…どうも煮詰まってるみたいで…嗚呼…抑々帝なんか居なければいいんですよ」

代わりにいっそ適当に木彫りの人形でも据えればいい、と言えば今度は師秋が驚いた様な顔をした。

「酔ってます?師直」
「飲んでません…そうしたいのは山々ですが」

実は今夜は何時もの倍は兵を配してます、と続ける。複雑そうな表情で黙り込んだ師秋も、尊氏の逆鱗に触れるのがどの様な行為かは知悉している。



「あと…二十日ほどで終わると思います」
「わかりました…関東も、備えましょう」

尊氏が身に今度こそ刃が及ぶ前に。

条件を充たし集まりつつある数。…准后廉子の物悩みの種。後宮で今広がる蔭沙汰の不穏さは、到底捨て置けるものではないだろう。実際藤原万里小路ほどの者が、事態の重要さに帝に諫言した挙げ句に、宮内の暗鬱に耐えきれず出家した。
皇太子にと定められ、まだ十月しか経たぬ、廉子の子恒良。全ては一点に、収斂しつつある。もう少し、で。


「…何時まで続きますかね」

どうなれば、安寧が訪れるか。最早見えては、いる。宮のことは今となっては、問題ではない。

「……早く終わるよう、努めたいです」

視線を向けてきた師秋はだが何も言わなかった。身を引くのが巧いのは、常のことだけれど、此度の其れには隠さぬ憂いが乗っていた。…当然かもしれない。尊氏に安寧を選ばせるには、自分は尊氏に主を切り捨てさせる機会を与えるしかないのだから。それが、自分や足利や…直義に望まれていると、尊氏は知っているのに。その葛藤を自分は叩き潰してしまおうとしている。

細く息を吐いた師秋は、確かめるように静かに相槌を打った。置かれたままだった椀をひっつかみ、冷えた茶を呷る。


…皓皓たる月はだが、欠け始めたその一片をまざまざと見せつける。唯々怜悧な光を零すだけで、喉を伝う冷たさを慰めることはなかった。











「体は厭えよ、冬の海の側は冷えるから…」
「はい、兄上こそ、お気をつけ下さいね」

夜が明けて慌ただしいまでの出立となった一行に、しかし肝心の主達はといえばどうにも別れがたい様子であった。夜を過ごした挙げ句の早朝からの手配に、欠伸を噛み殺しながらそっと別れを惜しむ姿を見守る。

「直義、」

一度強くその身を抱き込んで、尊氏は何かを囁きかける。逡巡に視線をさ迷わせた直義はだけれど、小さく一度だけ頷いた。

姿を探して首を巡らせば、控えていた師秋と目が合う。頷き交わしていたら、漸く馬上の人となった直義に、一行はゆっくりと館から出て行った。



声を掛けようか迷う内に、くるりと此方を向き直った尊氏が呼んだ。

「はい、」
「明日参内する。使いをたてておけ」
「…は、」

尊氏は何を、話したのだろう。思わず探りかけ、軽く頭を振る。

今はただ一点、その収斂する先だけに気を払わねばならない。万が一にも、この主が傷の付くことの無い様に。昨夜従兄が、最後に告げていった言葉に小さく掌を握りこむ。何一つ、失わないように。

…“ただ、あの方達が、笑って日々を過ごせますよう”

たとえ祈りに、意味は無くとも。見つめる背が傾がぬ様に。そっと願うことだけは、許されるから。









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