通りに降る雪は、先程までは確かに収まりつつあった。天頂を傾く日の薄い光に照らされ、どろりと溶け出し大路を濡らしていたものだ。だが、再度舞い始めたそれは前以上の勢いを持って京の街を白一色に染め上げていた。
――深々と刻まれた轍をも掻き消して。未だ残る不浄の血をもその下に覆い隠した。
「尊氏、して今日は如何用か」
扇を打ち鳴らし後醍醐帝が問う。正式な段取りに則った挨拶の口上に、哄笑し辺りを示してみせた帝は、心底可笑しげであった。人払いのされた間には、本当に最小限の近習が控えるだけで、貴族達の耳を憚る必要は無い。音吐間近に告げられる言の葉は、矢張り重く響いた。
奏上にとあがった自分に取られた処置は、確かに過分なまでの引き立て様である。宮が歯軋りして父帝に其れを取り糺すようなのも、故無き事ではないと分かるが。
―…だが此度だけは、些か話が違う。帝が人払いをしなければならぬ理由は自分ではなく帝側に訳ある筈だった。
けして強くではなく、ゆっくりと言葉を乗せる。
「准后には御悩みとのこと、畏れ多くも聞こえて参りました故」
帝はひたりと笑みを止めてこちらを伺う。帝にしてもこの時機に自分が参内するというからには、大体の内容を察してはいたのだろう。驚く用な色は無くとも、しかし案外率直に切り出すと軽く訝しむようではあった。
確かに帝に直々に奏上するには、どれだけ慎重になってもおかしくない。ただ鎌倉にまで、聞こえてくると直義は言った。控え目ではあったが、確かな情報である、とその態度は語る。つまりは、もう京のみではなく関東の武家達にも察される段階にあるということだ。余り機を逸していれば、違うものまで失うだろう。彼らが欲しているのは、無力な棟梁ではないのだから。
事を急ぐ、必要がある。しかし軽率に急いては、全てを仕損じる。その狭間にあって、今日の奏上は最大限の一手であった。
この時機だから、こそ帝は何をと切り出すことはない。あくまでもこちらが言い出した、という形で話は進む。
准后も馬鹿ではない。流言蜚語は常である後宮の主だ。聞こえくるそれを信じきったわけではないだろう。しかし逆に准后にはその流言を否定する根拠は無く、また否定する利もないのだ。
「…―どの様な悩みかも、聞いておろう」
苦く切り出す帝の目の色は今一読み切れぬ所がある。准后から帝に伝わった話である。謀略とは疑ってはなかろうが、むしろ信じたくない、というのが本当のところなのだろうか。…それとも、この様な動きの中、全てに利する機を窺っているのか。
「―…宮が、御叛意と」
うむ、と帝は頷くがこちらを向こうとはしない。自分と宮の関係は百も承知、寧ろ作為無作為問わず煽りたてたのはこの帝なのだから思うところもあろう。ただもし、自分が直截に言い出したことならその場で首が飛んでもおかしくはない内容だ。この場でそれが許容されるのは、飽くまでも准后が悩みの事という体裁が四方から整えられているからである。
宮の子は北畠の娘との間に為した、僅か二歳の皇子。しかしまた皇太子には確かに北条の血が、流れているのだ。皇子と皇太子…宮と准后の、帝の正子と愛妾という二人の間に入った亀裂は既に取り返しのつかぬ深さで、在る。
その不穏さはやがて一つの蔭沙汰を招いた。曰く、不当な血の皇太子を引きずり落とし自らの子をその座に着けんが為、宮が、他でもない皇太子を定めし父帝に弓引く機を伺っている、と。
「…お主はどう見る?」
ちらりと力を込めた視線がかち合う。その視線には瞋恚めいた色は含まれていない。寧ろ宮と対立を続ける自分が、この話にどう返すかを気にかけているようだった。 だが、目を伏せて沈痛な声音で応えを返す。最大限、で許されるのは此処までだ。
「…まだ確かなことでもございません。…宮が兵を集め、帝へ御刃を向けたというならば、まだしもで御座いますが」
帝は刹那拍子抜けしたかの様な顔をして、だがすぐにそれを引き締めた。
「…そうであろうな、うむ。そなたの言う通り、兵を挙げでもしない限りはそうと決まったわけではない」
「…御意に御座ります」
深く頭を垂れて、思慮の足りぬ憂慮で耳を汚したことへの許しを請う。鷹揚に気にすることはない、と手を払った帝はだが准后の打ちひしがれた姿を見るのが忍びないとだけ漏らした。
静かに、息を吐いて自らを律する。
―……これで、全ては整った。後は最早、来たる日を数える、だけで。
十月も二十日を数え、深々と冷気が空を締め付けている。薄らと翳る日は弱々しく、冬風の威勢に押し負けていた。
卓の上に師直は、ばさりと足利係累の名の連ねられた書を広げる。といっても別に決起状などでもなく、普通の系図だ。
「…今日からでももう百くらいなら集められましょう。そうなれば集まる人数は…大体千六百、といったところですな」
「それで十分だ」
に、と笑うと師直も口の端を釣り上げた。細々と、だが確実に用意してきた甲斐あって差し障り無く、事は成ろうとしている。
「…『父上の三回忌』、だからな」
帝にも既に申し出てあった。六波羅の館にて一族二日間父の喪儀を執り行う故、出仕を引かせていただくと。――それに加えもう一つだけ、言っておいたこともある。
「…にしても、奴さんも余り早くに暴発しないといいんですが」
重能が肩を竦めたのに合わせて、軽く頷く。無いとは思うが、趨勢定まらぬ内に雪崩を打って実際兵を交わすようなことになれば、少なくない痛手を負うだろう。人数を集め始め、暁には五条大橋には一般に往来止めの札立てをする。大掛かりな仕掛けだが、それ故にもしも決壊した時の損害は計り知れぬ。
「其処は道誉にも引き伸ばして貰うしかないな…やれやれ、此処まで来て未だに綱渡りとは全く肝が冷える」
「人を揶揄う様な真似なら、あの婆娑羅得意技でしょうから、適役でしょうがね」
「全く以て」
含み笑う様に重能の言に同意を重ねた師直は、係累書の隣で認めていた文に視線を戻す。
「近日中に京で異変があり、かからん上は鎌倉、万々に備えて御遺漏なからん事を、…―この様な文面で如何でしょうか…―直義どのに、宛てるには」
「…そう直義に、だったな…いいだろう十分だ」
実際にはあと一日半では鎌倉に書は届かない。
だが…近江には十分だった。
父貞氏が死んだのは九月の五日。もう一月半も前の日付だ。ただ父の死後喪に服す間もなく笠置攻めへと起ち、正式に葬いを行ったのは冬だった。だから足利の家のもので不審がるものはいなかったが、父が亡くなった日は知れているだけにそれを知らねばさぞおかしいだろう。…そう、何かの隠れ蓑とも捉えられてもおかしくはない。足利はありもしない喪儀の為に人を集めている、と見えなくもないのだ。
…其の様に見たい人間の目には、尚更に。
「右。御下知に依而、火急恐惶謹言…」
「お前の文は相変わらず意外に綺麗だな」
「…酷う御座いますな。尊氏さま、袖判を」
「ああ」
公に知られた正式な”足利尊氏”の花押を文の最後に署す。
この文は近江に届き、近江守佐々木道誉の手で、足利の密牒として取り急ぎ宮の元に届けられる。既に全て段取りは整っていた。あとはただ待つだけ、ただ一人の兵も、ただ一本の刀だって必要ない。
―…“近々京で異変がある”と述べるは憎き足利、宛て先はその腹心。
そして六波羅には集まり来る数千の人だかり―…さすれば。
二晩があけ、二十二日の朝を迎えた。
参内の装いで車を整えさせて大路を打たせる。整えるべき形式は全て踏襲したとは言えど、単身での参内。見送りに立った師直などはあからさまに不安げではあったが、軽く笑みかけてやって乗り込んだ。
…宮将軍令旨との名目で、大塔宮が来るべき日に備え武具や兵を募っていたのは知っていた。それが六波羅の守りを突き崩すだけの力、畢竟例え誰であろうとも、討ち取れるだけの力を備えていることも。
先触れには正式に、足利尊氏、帝に予てより祭祀の供華を賜りそのおこたえに参内した、と触れさせて悠々と大路を往く。白地に浮き足立って、路を横切って行き交う伝令にくつくつと喉奥で嗤いを転がす。三位の装いで六波羅から出る車など足利尊氏のものに他ならない。数千の兵の決起を今か今かと待ち構えていれば、さぞ驚いたことであろう。
謁見叶う前に通された控えの間で、凝っと身を硬く座す。実際矢張り張り詰めては、いた。今日一日で短いようで長かった其の諍いに決着がつくのだ。
ふと開けた戸から垣間見えた空は、昼だというのに薄墨に塗り潰されていた。朝から空気は身を切るような冷たい。冷え切った風が微かに床を這って吹きぬけ、小さく身を震わす。よくよく目を凝らせば到頭雪が振り出したらしい。ちらちらと舞う一片は白く、まるで冬枯れに黒ずんだ地を慰むように清純であった。
「尊氏」
後醍醐帝自らの声で招きがあって、御前に通される。此の前参じた時よりも更に人払いされている。
だが、脇に控えた数名はまるで宮廷の外へ赴くときのように大刀を佩いて帷子を付け、武装を整えきっていた。
形式的な口上を又も流した帝は、だが此度は暫く黙したまま言葉を継ごうとしなかった。必然、自分も声を上げることは出来ない。悄然と叩頭したまま、しばしの時の過ぎるを待った。
宮の信じらるるは、帝との黙契、其れに他ならぬ。つまり、些か度を過ぎた行為であろうと足利を討ち取るためならば、息子の願いを叶える為には帝は目を瞑ると。実際六月の宮の企てが失敗するまで、帝は宮が足利を討ち取るならば、其れは其の時、と見ていた節がある。
ただ失敗し白昼に晒される企みが増えるに従い、些か困り顔で見やるようになり、件の蔭沙汰が横行するよう段になっては滅多な事をするなと諌めていた。しかしながら、宮が未だに先の黙契を頼みに行動を起こすことは十二分に考えられる。
……宮が秘牒の文面に、六波羅へ兵をと軍を挙げて武装を固めだしたのは、昨夜の夜からであった。
「……何をしに参った、と問うは愚かであろうな。六波羅からも、宮御所は見えたとみえる」
「御意…」
漸く落とされた声音からは、その心境はやはり如何とも読み取れぬ。
思いの外白けた様にも見えれば、今こそ目を血走らせる如き瞋恚と冷ややかな帝の常の質との間で、一つの決断が下されるような緊張にあるようにも取れた。
首を垂れたままでいると、不意に近付く足音があって歩み寄って来る姿が目に入る。近習の諌める声が奥から漏れ聞こえていたが、歩は緩むこと無く目前にまで近付いた。
ぐいと掴まれた指先で顎を引き上げられ、為されるままに顔を上げる。刃にも似た鋭さで見据える瞳の強さに、だけれども静かに告がれる言葉を待った。
「…禁中の篭の鳥となったは、主の方かも知れぬぞ」
詠う如きに朗々たる声音は、身の奥までをも焦がす迄に強い。
するりと視線だけを逃がして、粛々と応えを返した。
「御諚ならば、如何様にも」
刹那閃くように此方を見据えた帝は、だが不意に手を離して立ち上がった。身を正すがいい、との言にそっと顔を上げて座り直す。
「……では、尊氏。何をしに参った?」
繰り返された言葉面の響きの差異に密かに息を吐く。
「…宮将軍が動かれた今、六波羅に集まった我が係累の動向に帝がお心、煩わされんことが無き様にと…」
「ほう?」
「此の身を皇居の質とも為す覚悟で、参りました」
「……」
押し黙った帝はちらともう一度だけ此方を見やると、不意に暗澹たる表情を露にした。どっかりと座に戻り腰掛けてから、呟くように言葉を押し出す。
「……今宵、宴を催す。」
「…」
「奇しくも初雪だ…初雪見参の催しとはまた古風な雅であろうが」
ゆるゆると打ち開いた扇で、冷気漂う其れを薙ぐ。ひらと七色の組紐がその軌跡を掻き消す様に舞い、
縺れ合って落ちた。
「…宮にも使いは出した」
密かに、ほんの微かに息を吐く。
宴だ、そうまで言うならお主も宵まで一酒交わしていくといい、と続けられた帝の言葉に畏まって礼を返す。
目を伏せれば、偽りではない沈痛が静かに身を灼いた。
宮は兵をあげたわけではないのだから、まだ確かではない、と。揺れる天秤の最後の重しに其の言葉を帝は選んでしまった。……それが、最後の誤りと知らず。
宮が宮であるのだから謀反の疑いなどない、と言い切らねば、――ひとたび兵を「挙げれば」宮は謀反者だと、そういうことになるのだから。
足利を討つために、挙げられた兵は、しかし同時に禁裏の内まで踏み込むだけの、力を持っていたのだから。
父の儀で下がると帝には申し上げた。そしてもう一つだけ。
やむを得ず、三日間だけのこととはいえ私が帝のお側を離れねばならないとは、大変遺憾であり、…帝の兵としての自分が、出仕できぬ間にはどうか御身に御注意を。と。
そして「宴」は行われる。
雪の、降る日だった。
全てを覆い隠し雪は降り積もる。宮の参内した牛車の轍も、駆け抜けた馬の蹄も、…血のあと、も。参内した宮は帝に謀反のかどで捕らえられ、付き従ったものは全て首が飛んだ。
雪が降る日だった。
離れより聞こえる宴の琵琶の音が美しく響いた。
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