いつもそうだ。目に映るのは曖昧に浮かべられた追従か、見送ることだけを許された後姿のみ。 縋りついてみたら何かが変わるだろうか。行かないでと追い縋れば、もう一度此方を振り向いてくれるのだろうか。

「……きれい…」

唇を震わせれば口の中で苦い砂の味が広がる。そうやって土の上に体を投げ出した侭、見上げた空が朱に染め上げられてゆくのをただぼんやりと眺めていた。





「……く、」

名を呼ぼうとした筈の喉からは掠れた音が漏れただけだった。手をついて身を起こそうとしたが、軋んだ音がして肩が跳ねる。結局滑る掌はまた泥寧の中に体を浸した。
無様、と頭の中で呟く声がして半ば反射的に視線を上げる。 傍らに立つ青年は、ただ静かに此方を見下ろしていた。見上げた顔にはいっそ清々しいまでにくっきりと笑みが浮かべられている。屈折しきった歪みがあるのに、其の笑みは今までに見た彼のどんな表情よりも美しかった。 ちらりと硬質な瞳が眇められたのが妙に鮮やかに映りこむ。目をあわせているのに、何の熱も籠もらない。絡む視線はただ千切れて揺らめく糸の様な虚しさだけを孕み、紡がれる筈の情動を纏めて叩き潰した。

「…、ひ」

寛げられた襟から白い首筋が露わに覗くのに、今更の様にぎくりとする。拭われた水気が生々しく筋を伝っていて、彼が息を吐く度ひくりと震えていた。毒々しいまでの鮮烈さに、途端腹が灼けた。

「……義詮」

怯えてるの、と彼は口には出さずに問いかけてくる。 最早何も考えずに体を引き摺るようにして後退った。

「…ゃ、だ…」

土に滲みた目がひりつくように痛む。ぼやけてきた視界がちかちかと揺れ、もうこれ以上何も見ていたくなくて、きつく目を瞑った。

―…曝された事実。
父の、叔父の唯一最大の隔たりを自分は知っていた、知っていたのに。母が何故叔父を嫌うのかも知っていた。それは確かに一つだけの理由ではなかったけれど。 何故、分からなかったのだろう。二つに裂かれた思慕が何故一つのものかもしれない、なんて。
彼は私を知っていたのに。

「……」

息を吐く微かなさざめきだけは、それでもはっきりと耳に落ちる。永遠にも思える一時の静寂は、案外容易く破られた。 砂を踏む音に焦って濡れた瞼を持ち上げれば、ただただ何事も無かったかの様に歩み去る後ろ姿があるだけで。

「あ…!直、冬さま…!!」

反射的に上げた声は上擦りひっくり返って、途轍もなく間抜けに響いた。跳ね起きるように立ち上がれば、べたりと濡れて汚れた髪が顔にへばりつく。
廊に昇る足を止めずに肩越しに振り向いた彼は、一度だけ瞬き、そして。


「良かったね」


また会えて、と澄んだ声が紡いだ。

「…、…う」

滲む視界に、慌てて袖を目にあてれば余計に汚れただけだった。必死になって擦ってやっとのことで顔をあげ直せば、最早ただ人気のない廊には彼の気配すら無かった。 庭に立ち尽くしたまま、暫く茫然と廊を見つめ続ける。誰も居やしないのに、凝っと目を凝らした。

「……直冬さま…直冬…さま…直冬さま?」

返事が無いのに繰り返し、呼ぶ。がらんとした廊に零れた名は、何度も跳ねてみっともなく掠れた声を響かせた。 ふと力が抜けてそのまま、元の場所へとへたり込む。 振り向いた顔に浮かんでいたのは、笑みすら消えた拒絶。鮮烈さを拭い去った、唯々白けた隔意に最早余地なんて無い。

「……やだ…な」

嫌だ、嫌だ。こんなことになるなんて。
―…こんなことになっても。









赤く染まりきった空は、熟れた実が無残に落ちるが如くに急激に暗雲に席巻された。 夕立、とぼんやりと考えていたらすぐさま頬に水滴を感じる。途端降り出した雨はどうやら単なる通り雨の様で、半刻もせずに止みそうだ。見やった空の向こうは所々未だに赤が覗いている。

のろのろと体を動かして、どうにか立ち上がる。冷たくもない雨は別段気になりはしなかったが、地面に降り跳ね返る雨粒が足首にまとわりつくのだけが、矢鱈と気持ち悪かった。 額に張り付く髪が鬱陶しくて、乱暴に掻あげる。ぐいと引っかかる感じがして、指先が濡れた其れに絡まる。訳も分からず苛立ち思い切り腕を引けば、ばらりとほつれて結い目が解けた。

「……あ」

ぱちゃりと高い音をたてて踵の後ろに、紐が落ちる。慌てて拾い上げるが、泥を吸った其れは黒ずんで重かった。

「……そんな、」

あらわなきゃ、と視界を巡らせばすぐ側に井戸があったことを思い出す。転がったままの手桶を拾いに走り寄れば、上を向いて落ちていた桶には既に水が溜まっていた。 紐を桶に浸せば、すぐに水面が濁って泥が染み出した。掌で擦れば段々と濡れただけの濃い紅に戻ってきて、ほっと息を吐く。桶の水をぶちまけて、井戸の縁へ戻す。此処に置いてあったものかなんか知らないけれど、どうでもよかった。

「……義詮、?!」

通る其の声にはっと振り向けば、父が廊から自分を呼んでいた。ひどく驚いた顔をしている。 雨が降り出しても、庭を見ていた筈の自分が室に戻らぬので様子を見に来てくれたのだろう。嗚呼早く行かなければと足を動かして、それでもすぐに歩みを止めてしまった。

「おい義詮、?」

父の少し後ろで、叔父も酷く驚いた顔で此方を見ていた。ゆらりと頼りなげに揺れた瞳に、また先程感じたばかりの熱が腹を灼く。濡れそぼった衣が重くて気持ち悪くて、引き裂きたい位鬱陶しかった。

「…う、ぅ…っ、!!」

こみ上げてくるものに、歯を喰いしばる。ぎしぎしと軋む音に視界がどんどん赤に染まるのが分かった。

「義詮…、どうした」

耳鳴りの様に聞こえる声は、重なる様に自分を呼ぶ。私は愚かだ、何で気付かなかったのだろう。

…―義詮―…

慕わしい声と同じに響く其れを、拒絶できる筈なかったのに。

「…ちちうえ…父上ぇ…何で…何で!!」

決壊した何かが、全てを押し流してゆく。ざあざあと降り続く雨音を消し去るように頭の中で鳴り響くのは、からからと地面を転がったあの桶の音だった。
まるで茶番だ。私が必死になって縋っていたものなんか、何一つ本物ではなかった。 父が変わってしまったなどと嘆き、彼に如何してこんなにも惹かれるのかと懼れて。 父が怖がっていたものは何だ。目に浮かべた諦めよりも寛いそれは何だ。 彼が何で自分を蔑みすら値しないという目で憐れんでいたというのだ。
全部全部、私には何も何一つとしてありはしなかったのに。


「嫌いです…!父上なん、て…!」


声を張り上げた喉はこんなに雨が降っているのに、酷く乾いた。 喚き散らして頭を振れば、水滴がびしゃびしゃと飛び散る。それさえ嫌になって睨みつけるように足元を見つめた。

「…き…嫌いです…だって、だって私には何も教えて下さらないんです…こんなに、こんなに…っ」

またも高い水音がして我に返れば目の前に父が立っていた。 濡れて、と訳の分からない動揺に体を震わせれば父は少し悲しげに眉を落として此方に手を伸べた。 肩を抱き寄せる腕に、じわりと目の端が滲む。 心にもない言葉に愕然としたのは誰より自分なのに。 その暖かさに、またも耳奥でからからと乾いた音が響いた。

「っ…!!」

半ば突き放すように父から離れて廊の方を向き直る。
凍りついたように立ち尽くしている叔父の目は、ちっとも彼と同じように自分を笑うわけではないのに。 澄んだ其の色が、何よりも今自分を切り裂いた。

「叔父上は、叔父上は狡い…!!何で全部持ってるのに、まだだめなんですか…!わ…私はもう何にもないのに!」

薄い肩が哀れっぽくひくりと震え、僅かに青ざめた顔がぎこちなく歪む。泣き出す前の顔のようだとも思ったし、 的外れた中傷に混乱しているようにも見えた。

「叔父上は!何で…何で…っ」

何を言いたいのかさえ分からなくなってきて、渦巻くものにぎゅっと拳を握り込む。


「私は叔父上が嫌いです……だいきらい!!…私は…っ!……でも皆が、叔父上を好きなんだから…いいじゃないですか」


ぼろぼろと目の端を伝うもので、見つめている筈の叔父の姿はぼやけていく。 互いにあってる筈の視線なのに、何一つ明瞭に見える物が無くてどこまでも噛み合わない。 自分の方に向けられた視線に、どんな色がこめられているのかも見えない。 駄目だと裡で囁く声はあっと言う間に掻き消えて、笑いにも似た発作にひくひくと体が跳ねた。



「もう…やだ…っ…嫌い、嫌い…!」
「義詮!!」

ふわりと足元が浮いて、一瞬目の前が真っ白になった。

「父…う…え?」

抱きかかえられたと気付いた瞬間、がくりと体から力が抜ける。へたりと顔を伏せれば父の肩に凭れた。 強く縋りつきたいと思ったが、腕を持ち上げるのさえ酷く億劫だった。

「……義詮」

雨音を介さずに耳元で低く響く声に、じわりと肩口を濡らしてしまう。 繰り返し呼ばれる名が、何もかもを砕いて同じ罪を犯しているのが分かるのに。

「ぅ…う…っごめんなさい、ごめんなさい…!!ちが…違うんです……父上も叔父上も…ちがっ…」

握り締めた感触だけを縁に、ぎゅっと目を瞑る。なにが違うというのだ。 身勝手に喚き散らして、全てぶち壊したのは私なのに。降り注ぐ雨が益々ずっしりと衣を重くする。 濡れ張り付いた布地からそれでも温もりだけが伝わってきて、堪らなく悲しかった。

…―嗚呼もうこのまま、雨が止まなければいいのに。



「直義、」

「…はい」

父は私を抱えたまま、ゆっくりと廊へと昇っていった。ぜいぜいと惨めに息を切らせたまま叔父の顔を見ることも出来ず、父の肩に顔を埋めたままでいた。

「…ごめん…なさい…」

絞り出すようにして何とか声を出すが、もう何も続けられなかった。父が叔父に二言三言何かを告げていたのも、堪えた嗚咽で何も聞こえはしない。


父がそして館に帰る為きびすを返して、叔父がどんな顔で此方を見送ったのか私には、私にだけは見えた筈だったのに。





良かったね、と澄んだ声が聞こえる。どこまでも優しい其れが、暖かい声音でくすくすと笑った。

…良かったね、本当はずっと、叫んでしまいたかったんだろう?と。