「師直、父上はお部屋にいらっしゃるんですか?」
「あ……そうですね…しかし酷くお疲れのご様子でしたので…もう床に入られてると思いますよ」
「……そう…」
師直は曖昧に笑むと、今日は止めた方がいいと促した。
父の一番の忠臣は、だけれども私に情の機微を隠すのがいたく下手だ。浮かべた憂慮がありありと懊悩する主の姿を描いている。
今日は止める、と適当な事を言って父の室の前から一度離れる。渡殿からぐるりと中庭を迂回するようにして、こっそりと裏庭に出た。
戸の前で師直が立ち尽くしていたからには、きっと室に居るのは嘘ではない。
案の定そっと覗きこんだ庭側の廊には父の姿があった。障子に背を預けて足を投げ出した父に、少しどきりとする。
穏やかな風が裾を捲り、なぶられる髪が淫靡に襟元に落ちた。掌に何かを握っているのが分かったが、それが何かは流石に分からなかった。
暫しそうして見ていたが、段々といたたまれなくなってくる。師直は何か知り顔だったが、どうにもお疲れ、なんて状態でもなさそうだ。
踵を返そうとして、突如響いた声にびくりと肩が跳ねる。
気取られていたか、と伺いかけてしかし父が呟いた其れは自分の知らぬ名であった。
甘い声に、かっと顔が赤らみ蹈鞴を踏んで後退る。慌てて立ち去ったが、最後まで父は自分に気付いた様子はなかった。
父の好きな紅葉が舞う、美しい秋の日だった。
廊を歩く度に滴る水の音が響き、木床に滲みて軋んだ。
父は少しばかり逡巡し、抱きかかえた方の腕とは逆の袖下を自分に翳す様にしてから真っ直ぐ門へと庭を突っ切った。
突っ伏していた肩から少しだけ頭をずらして、ちらりと父の横顔を覗き見た。額から顎へと流れて落ちる雨粒が、何か父の大事な物まで流してしまうような気がして酷く胸騒ぎがした。馬鹿みたいな経緯で濡れそぼっていた自分の所為で、父は、輝かしい将軍として立つ筈のひと、誰よりも尊敬しているひとなのに、こうして僅かの間だけ荒れ狂うばっかりの夕立に打たれている。
優しい父上は、私の為に何だってしてくれる。なのに私はどうしてそれで満足してしまえなかったのだ。あれもこれもと欲しがって、強請って、責め立てて手に入ったのは傷付いたように曇った瞳だけだ。私が欲しかったものは、いつだって目の前にあった。ただそれが、自分の物ではないというだけのことなのに。
少しだけ駆け足で館にたどり着けば、近習が慌てた様に寄ってきた。湯を、と言い付けてから今度は少しだけ緩やかな足取りで室へ歩み始めた父に、またじわりと目尻が滲む。一度口をきった奔流は、留まるところを知らずに全てを飲み込んでいく。 やさしい、やさしい父上。欲しかった私のものではない其れ。
最早これは嫌悪なんかじゃなく、酷く捻れた羨望なのだと囁く声がしていた。嫉妬すらさせぬ、圧倒的な羨望。しかしあの薄い色をした瞳は、そんな自分を。…―蔑んだのか嗤ったのか。それ以前にうつしていたのか、さえ。確かではないのに。
涼やかに笑う声が耳を刺す。私の義父上、と謳ったあの声にぐらぐらと目眩がした。
もういっそ、居なくなってしまえばいい。叔父が…あの人も。父上さえ。
「兎に角濡れた衣は脱げ、冷える…直ぐに湯が来るから」
見慣れた自分の室で、のろのろと羽織っていた着物を脱いでいく。
確かに少し寒い。雨の中立ち尽くしていた時は温い其れは大して気にならなかった、そう井戸端で浴びたのに較べれば。
「…ひ…ぅ…」
もういい加減泣き飽きたと思ったのに、またも伝う様に流れる。
しゃくりあげながら飾り帯を解いていたら、不意にのびてきた手が頭を撫でた。
膝をついていっそ此方を見上げるように覗きこむ父の前髪から、また一粒雫が滴って落ちた。
「ち…ちうえ…」
「…義詮…」
眇められた瞳が、刹那痛みを帯びて揺れる。先程感じた胸騒ぎに慌てて縋るようにすれば、少しだけ驚いたように父は目を見はった。
そのまま半ば肩を押すようにして抱きつく。座り込んだ父の首にぶら下がるようにして縋った。きつくきつく掻き抱いて、じっと堪えた。
もう嫌だ。こんなに、こんなに好きなのに。決して私の手には入らない。しかもそれが、あの叔父の所為だなんて認めたくない。
「……直冬に会ったか」
思わず体を固くして、ぎこちなく体を起こす。乗り上げた膝の上で父の肩に両手をついて顔を上げれば、父は酷く曖昧な笑みを浮かべた。
「……済まなかった…お前には…言っておかねば、ならなかったのにな」
何故、と問いかけてぐっと口を噤む。先刻自分が父を詰った時。唐突に教えてくれないなどと喚きちらした事に、父も…叔父だって、疑問を感じた様子は無かったのだから。
「……会いました。」
「…」
「す…ごく…凄く…」
告げていいのか今更の様に躊躇い、耳奥で響いたあの声が告げた真実にもう一度腹が灼ける。
「…父上と…似て…て…」
「…そう…か」
肩に顔を擦りつけるようにすれば、父は一度強く自分を抱きしめた。
「…あ、」
何かを言おうとしたのに、言わなければならないのに、上手く口が回らない。もどかしさに益々涙が溢れた。
運ばれてきた湯で体を拭い、新しい衣を纏えば漸く少し落ち着いた。
衝立を覗けば、父の方はまだ支度の途中だった。側女に濡れた髪をぬぐい纏めさせている。
薄物を羽織った父は、自分の視線に気付くと小さく手招きした。
「あぁ、いい後は自分でやるから…下がれ」
側女を下がらせてから、父はさっと髪を括りあげて此方に向き直った。落ち着いたか、と問われたのでこくりと頷く。
ちらと見やった体に幾筋かの傷跡を見つけて、ひやりと背筋に冷たい物が伝う。
其れに気付いた様に苦笑した父は、右腹の一つに手を当てるとそろりと撫でた。
「…この傷も終ぞ消えなかったな…」
「…?」
苦々しげに笑う父は、合わせを掻きよせると座り込んだ。側まで駆け寄ってぺたりと腰を下ろす。
「義詮も九つになったか」
「はい」
「直冬は俺が十五の時の子だ」
さらりと言い放たれた言葉に、思わず目を見開く。そうだ、考えてみればあのひとはもう疾うに元服は済ませている様な年頃だった。
「…登子と会う前だな」
考えてみれば当然の事なのに、改めて告げられた事実に愕然とする。
父に十五の頃があったということは、何故か酷く不思議だった。父も童だったのだ、そんなのは当たり前のことなのに。
―…ただ、その姿自体は描くのが容易だ。あのひとが真実父の息子だというならば、その立ち姿のそこかしこから愛おしい残滓を拾い上げる事が出来た。
「どんな……方、だったんですか」
「……美しい女だった。焔のような女だったよ」
酷く従順に訥々とした口調で述べられたのに、その内奥には滴るような熱が籠もっていて矢鱈とどぎまぎした。
困ったように笑いながら、父は少し目を逸らす。含まれた甘さに、刹那閃くようにあの秋の日が浮かんだ。…父が呟いていたあの名は、もしかしたらその女のものなのかもしれない。
「…父上は…その方が好きなんですか?」
掌に力がこもり、思わず父の衣の裾を掴む。一二度瞬いて、父はゆっくりと頷いた。
「そうだな…まだ、いやずっと、そうなんだろうな」
「…?、あ…」
遠回しな口振りに言葉が途切れる。そうでないかとは、感じていた。
…そうでなければ恐らく母は、許せはしないだろう。
「死んだ。…そうかもう、十四年も前か」
「そう…ですか」
酷く複雑な気持ちでそろそろと手の力を抜く。安堵したことに罪悪感を覚えられず、父の目を見返すのがひどく疚しかった。
…最も聞かなければならない筈のことを口に出すのが、急に怖くなる。 父の若い頃の第一子。きっと父が何処かあのひとを知らない様子なのも、それこそそんなに会ったことさえないのだろう。それは分かる、師直なども父が足利の当代たるというただ一つの事を酷く頑なに守ろうとしていた。そんな環境に居たのだ、父は。ましてや相手が死んでいるとなれば、母が…自分が、居るのであれば廃嫡もやむを得ずと。 ただ一つ、何故、何故そこだけが。
「…っ、それが…なんで…どうして、あのひとは……叔父上の息子、なんです…か…?!」
養子にと出すなら他の誰だって構いはしない筈なのに。よりによってあの叔父、父の実の弟に、だなんて。
「そうでなければ、そうでさえなければ…、まだ…きっと…っ」
噛みしめた唇から血の味が滲んで、口の中を蹂躙する。馬鹿なことを言う、無い物ねだりだと分かっていても言わずにいられなかった。
「叔父上なんかっ…だいきらい…!!父上を独り占めするくせに…父上だけでも飽き足らないんですか…、そんなっ…」
「義詮、」
声にのせられた名が、ちっとも怒りの色を帯びてくれないのに目眩がする。否定さえしてくれないのか、と振り仰げば何処か悲しげに父は顔を歪めた。
「…俺が家を継いだのは、直義の為だ」
「聞きたくありません!!」
「でも直義が俺の為だけに居るわけじゃない」
「そんなの…おかしいです、そんなの…」
「俺が、そうあって欲しいと直義に望んだんだ」
「…父上ぇ…」
どうにもならない苛立ちに、また縋るように父の胸に抱きつく。
嘘だと喚いてしまえば楽になれる気がしたが、それはきっと父を傷つける。
父が愛することを怖がっていたのは何故か。叔父のせいか、その女のせいなのか自分には分かりはしない。でも何かが決壊した感情を浮かべるようになったのは明らかに叔父に対して、なのだ。それなのに。
「やっぱり…嫌です」
「義詮…」
「父上は…いいんですか」
唐突に浮かんできた言葉は、そう他ならぬあのひとの言葉。 …大切な人はちゃんと捕まえておかないといけない…捨てられたり、連れて行かれてしまうかも、だって? 連れて行かれるのは誰、連れていこうとしているのは誰。捨てたのは、捨てられたのは。
…悲しい?
「私は許せない…」
悲しいなんて、あの人が怖がることそれ自体。…なんて、酷い。
「…なんで父上は怒らないんですか…叱って、下さればいいのに」
…私を、叔父を。
「俺は、義詮。お前が愛しい」
「…」
「ただ…それだけでは在れない、分かるだろう」
「……でも、」
回り回る言葉を堪えて父の胸を掻き抱く。
通り過ぎた雨の中で得たもの失ったもの、消えてしまったもの。
からからと転がっていく桶の音は埋めがたい空洞ばかりに響いて。
いっそ叔父の為だけに在る、と、言ってくれたなら良かったのかもしれない。
けれどやはり切り捨てられなかったことが、震える程嬉しかった。
止まない雨に震えても、父は私を愛してくれるから。
「…もう…分かんない…」
怒ればいい、憤ればいい。悲しめばいい哀れに泣けばいい。
そして手に入らぬことに焦っても、ただ何もかもがすり抜けていく。
手首に巻き付けた紅い紐が、未だ水に濡れたままずしりと重かった。掻き抱くこの体がこの重みと引き替えに何を支払うか、私は知らないのに。
「私は父上の息子です…」
ただ一つのよすがを懸命に握って、伝わってくる熱に身を預ける。
自分を切り捨ててくれない優しいひとに、狂おしい憎しみを抱きながら、そっとそのまま目を閉じて。
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