「…あの父上、」
「ん?どうした義詮」
伸びてきた手が軽く頭を叩く。撫でる其れよりも僅かな温もりはすぐさま消えていった
が、精悍に浮かべられた笑みにつられるように口元をほころばせた。
午にはまだ遠いこの刻の空気は、迫る夕闇の焦燥を纏わずに底抜けに明るい。開け放たれ
た縁側から覗く空は見事な青で塗りつぶされて、燦々と日の光を降らせている。
少しばかり緊張にも似た張りつめ方で、父を窺い見る。浮かべられたのは鮮やかでつよい
類の表情であるのに、父を刹那酷く綺麗だと思った。母のような、美しいというようなも
のではない、整えられている静かな確からしさの様なそれは偶に酷く自分をたじろがせ
る。
「…ええと、…」
意味もなく口籠もり視線を泳がせると、父は小首を傾げて、手招く様に掌を振った。
「…?」
木床に指先を付き、膝を滑らすようにして胡座を組んだ父に近付く。乱れた裾を後ろ手に
払って視線で問えば、後ろを向け、と父は笑って言った。
「結い直してやろう」
「あ…はい!」
少しばかり可笑しげな感情が混じった穏やかな笑みは、ひたすらに自分に優しい。父上、
と呟くように呼んでから、少し慌ててくるりと父に背を向けて座り直す。
長い指がさらりと微かな音をたてて髪を梳くのに、そっと瞼を引き下ろした。
浸る様な穏やかさが熱く目尻を灼いてしまう、その前に。
父は少し変わった、と思う。
幼い頃から今まで離れている期間の方が長かったから、最初は気のせいだと思った。
父は帝と刃を交え、文字通り国の先から先へ駆け回った。そして京へかえり、斯うして幕
府を構えるに至った経緯は確かに生易しいものではないから、父が何かしら変わることが
あっても寧ろ当然だと次には考えもした。
だが変容した、という感は寧ろ余り無い。再び見え、それこそ何年か越しに自分を抱きあ
げた手は変わらずにあたたかく、さり気ない優しさは包む様に在り続けた。
なのにそう、変わったのだ、と偶に酷く感じた。
先程の様に自分をたじろがせるようなものを、昔の父は少なくとも私の目には触れさせな
かった。戦場や政を行う際と自分に向けるそれが同じものであると考える程、物を知らぬ
歳では無くなった。だけれども其れはそうした切り替え如何というより、もっと深い処に
ある差異だ。
それに何だかやさしくなった、と思う。父は前から私を大層可愛がってくれたし、寛容な
質だと誰もが誉めそやした。己が器にいれることを躊躇わぬ、その寛さがあった。
けれども最近の父は、もっと止めどなくそうした温情を注ぐようになった気がする。惜し
みない、と言うよりは際限無い、何かを感じさせるような。
変わった、変わってしまったのだ、と。何故か、寂しい。
その理由を薄々は知っているのに。
瞼を閉じれば全てから目を逸らすことが出来るから、なんて。
「ほら」
するりと襟足を撫でるように、指が抜けていった。追う様に舞った髪がぱさりと落ちて肩
に掛かる。
「ありがとうございます父上」
つい零れる笑みを、抑えずに振り仰ぐ。少し甘えて身を寄せれば、父は小さく笑った。
「義詮も随分と大きくなったな、どうだ勉学の方は」
「はい、ええと…まだわかんないとこも多いんですけど…頑張ります」
「はは良い良い、その調子なら俺より出来る様になるさ。なにせ俺は怠けてばかりいたか
らな」
「そんなことはありません」
「馬鹿、そこは俺なんか超してやると粋がる処だ義詮」
くっくと喉奥で笑い、父は小さく私の肩を小突いた。
少しばかりくすぐったい気分で、わざと拗ねたように視線を落とす。さら、と梳いても
らったばかりの髪が肩を伝って首にかかった。
「…きちんとした飾り紐をやろうか」
苦笑まじりに父が指差した。頭に手をやって、結ばれた其れを指先で弄る。刀の柄にと拵
えられた濃い赤は、視界の端に入る度鮮やかな軌跡を描いた。
「いいんです、これが好きです」
「…そうか?」
「はい!」
勢い込んで頷けば、父はふと相好を崩しまた軽く頭を叩いた。
「殿、」
「ん、入れ」
不意に廊からかかった声に、父は視線投げて応えを返した。私は少し後ろに下がって座り
直してから、ちらと逆の庭側に目をやる。午に向け強まるばかりの日差しは、惜しみなく
注がれていた。
「失礼致します、書状が出来上がりまして」
「ああ」
父は差し出された書簡を紐解き、ざっと目を通した。
「ご苦労、下がっていい」
「は」
男が戸を引くのを見やってから、父は暫し書面を見詰めて思案していた。何処となく置き
場のない身を持て余し、黙ったまま庭先に視線を逃がす。
「義詮」
「、はい」
弾かれたように頭をあげて振り返れば、父は書簡を纏めながら立ち上がった。
「すまんが少し直義のところへ行ってくる」
「あ……はい」
握られた書簡に気落ちして、ぱたと手を床におとした。肩に掛衣をひっかける父を見なが
ら、ぼんやりと今から室に帰ったら何をしようかと考える。まだ午にもならぬ刻限だし、
読みかけの書もある、することはいっぱいある。
室に帰ればそう、一人で、何でも。
「あ、のっ…!」
思わず喉を衝いた叫びに、父が驚いたように振り返った。
「私もご一緒してもいいですか?」
面食らったようにまじまじと此方を見やる父に、何処か追い詰められたように言葉をつい
だ。
「勿論お邪魔をしたりしません…えと…大切なお話でしたらおへやの外にいますし…それ
もだめなら一緒に叔父上のところまで行くだけでもいいですから…お帰りになる時だけお
迎えに…」
「義詮」
呼ばれた名に口を噤み、肩を揺らす。
なんでこんな我が儘が口を衝いたのかわからない。焦りに似た気分で背を凍らせば、父は
ゆっくりと言葉をついだ。
「……大人しくしていろよ」
「…っあ、はい!ありがとうございます」
何も訊かずに、父は小さく笑うと手を差し出した。握り込まれるあたたかさに心底安堵し
ながら、何か絶対的な危惧に目眩がした。
薄々と気付いていることが、ある、と。
…それに気付けば、もう目を逸らせないのに。
ぶらぶらと足を振って、寄りかかった柱に体重を預ける。整えられた裏庭に面した廊の縁
に腰掛けて、ぼんやりと日を弾く木々を見詰めていた。叔父は綺麗好きだと聞いたが、掃
きそめられた庭は確かに美しい。何となく笑いがこみ上げて、楽しくもないのに声をたて
て笑った。
なんで、此処に来たいと思ったか、今はもうわかっていた。
「…」
呟いて呼ぶ名を確かめて、思い描いたあたたかさに酷く悲しくなった。
「―…兄上、義詮様」
「こんにちは叔父上…あのお邪魔してごめんなさい。」
叔父の顔に浮かべられた困惑は、純粋に私の行動が意外だという一点に向けられていて、
隔意のようなものではなかった。少し複雑な気分でそれを見る。叔父を自分はあまり好き
ではないし、多分叔父もそうであろうと思うが、叔父自身は確かに良き叔父だった。
「茶を持たせましょう、いい菓子も入ってますし…義詮様は甘いものお好きですか」
「あ…叔父上、いいんです!お外で待たせて頂ければ」
「え、でも」
逡巡する叔父を見ながら、視線を揺らす。乾いた唇が擦れて痛んだ。
「…ええと…実はあまり叔父上の館のお庭を見たことがないから…みたくて、父上に我が
儘を言ってしまったんです…。あの、お庭に出ても…いいですか?」
口先で適当な嘘を紡げば、そうだったんですかと叔父は柔らかい笑みで首を傾げた。
「勿論構いません、…ならお茶はあとで召し上がりましょうね」
「ありがとう、ございます」
出来るだけにっこりと笑って礼をしてから、静かに戸を閉めて庭へ飛び出してきたのだっ
た。
もしかしたら。
もしかしたら、何か一抹の希望のようなものがあったのかもしれない。父が叔父を酷く大
切にしていることは当然知っていた。だから叔父なら、叔父には、私の感じる差異を理解
…もしくは否定してくれる何かがあるのではないか、と。
一目で、一瞬でわかってしまった。
父は確かに変わってしまったのだ。ずっとずっと、私はそれを認めるのが怖かった。変
わってしまったと思うことは酷く寂しく、またそう感じること自体が酷く私を追い詰め
た。
別に父が変わっても、その変わり様はなにも自分を傷付けるものではないのに。
こつん、と柱に凭れた額が音を立てる。
一瞬、父が叔父を呼びかけ、叔父が振り向き父を視界にいれたその一瞬間。
全ての答えがそこにあった。
大好きな父、優しい、ひと。私には父しか、いない。
愛されて、愛して、だけれども父はそうしたことをどこかいつも怖がっていたのを知って
いた。
一瞬間瞳に浮かんだもののように、何かが決壊した感情を、父は持ち合わせていなかった
のだ。
何が怖かったか、なんてわかりきっている。一人になるのが嫌だった、認めるのが怖かっ
た。
私には父しかいない、のに。
視界に写る姿に、思わず小さく声をあげた。
井戸端で此方に背を向け水を使う、青年。ありありと蘇る感情が、どっと雪崩込んだ。
そうだ、あの優しいひと、は。
何故だか酷く惹かれた。あのひとは何故だか容易く私の中にある幾つかの枷を外した。
…父を、私の唯一を、忘れさせてくれた。初めて会った、人だったのに。
立ち上がって、手早く身なりを整えた。
沸き立つ歓喜は、あからさまに自分自身への慰め、惨めで自分勝手な希望であったのに。
空隙を埋めるものを、ひたすらに求めて。
名を、呼んだ。
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