「本当に、十日、十日でいいんだよね?」
「ああ。帰り掛けに迎えにくるから。それまでだ」

「父上」

ひしと掴まる父の腕を、これ程離しがたく思ったことはない。陽に焼けて、硬い しなやかな筋肉がついている。槌を握る姿が、一番好きだ。

「ご安心ください。責任を持ってお預かりします」

玄恵は穏やかに微笑んで答え、そのまま目を落とす。智光は年相応のやんちゃさ と、強引さを称えた顔付きをしている。身なりはそれなりに整えられていたが、如何 にも着せられたというようで馴染んではいなかった。

「さあ、こちらに。智光殿」

高名な僧と言えど玄恵はまだ若い。
物腰はたおやかですらあったが、覆い隠され た中にある鋭い英気が時々ちらちらと、思いの外強く覗いた。


「刀が全部売れたらな。もっと早く来れるから」
「うん、」

父の国光は刀工だ。それも腕が良いと評判の。

「法印様を困らせるなよ」
「……解ってる」

頭を乱暴に撫でられ、智光は手を離した。父は少し疲れた顔をしていた。

「ではよろしくお願い致します」
「はい。お気を付けて」

智光は恐る恐る玄恵の隣に並ぶ。彼の長い黒の袖が傍らで動くと、香と墨が交じ った薫りがした。
ほっとするようなまた違和感を覚えるような、だが彼には初めての薫りだ。

智光は改めて、自分は今寺の門の前にいるのだと思い知った。そしてしばらくこ こで過ごすということも。



「すぐに慣れますよ」

長い赤茶けた廊を歩くときも、玄恵は優しく声を掛けてくれる。
奥に進むたびあの薫りは一層強くなった。
覆い浸されていく中で、すぐに何もわ からなくなるかもしれないと智光は思ってきた。柱の木の雨露までが薫を吸い込 んで、蜜を滴らせているように見える。足の裏はひやりと床を滑り、歩くのでは なく飛んでいるような心地だ。



「直冬」

自分の歩の向かう先に立つ人影に、玄恵は呼び掛ける。
智光より少し年上の少年 だった。待つというよりも、ただ真直ぐに立っている。
少し訝しげな智光の様子 を、玄恵は横目で察していた。

「智光殿に、案内をしてあげておくれ」
「はい」

返事をした声が、まず先に届いた。智光が近付くと、少年はそれに応じて彼に顔 を向けていく。
音もなく手前で足を止め様子を伺っていた玄恵は、智光が直冬の 前に辿り着いたのを見届けると、法衣の裾を翻し立ち去った。


「この部屋で、寝泊りしてもらいます」

直冬はすぐに背を向け、重い木戸に手をかけた。
身体全体を斜めに傾け、ずるず ると引っ張っていく。戸は溝を擦ってきりきりと音を立てた。
徐徐に見えてくる 広い室の中は、戸が開ききっても薄暗い。木の床だけを敷き詰めた室の角に、書 机が組み合わされ重ねられていた。

「…大部屋なの?」
「そうです。他の子達と一緒」
「何人くらい?」
「今ここにいるのは六人」

寒い空気のなかにすう、と響いた呼吸音を聞いて、智光は自分がいつのまにか興 奮していることに気付いた。必要以上の熱を籠めた瞳で覗き込む。


「君も小僧さん?」


「髪を剃っていないから、童子。」

なんのてらいもなく話掛けてくる智光に、直冬は少し驚いた。

「大きくなったら、お坊さまになるの?」

「わからない」

ぴしゃりと言い放つ。
その勢いに智光は一度口を継ぐんだが、目の前の彼が苛立 ちも怒りもしていないことに驚き、そして興味を引かれた。
彼に気安く接したくて仕方がない。例え自分一人だけでも。

「智光殿」
「智光でいいよ」

「じゃあ、智光」
「なに?」

智光の笑い顔は、無邪気で可愛げがあった。
くりとしたどんぐり眼が輝いている 。自分も笑みを零しながら、だが彼のは正しく見当違いな笑顔だとも直冬は思っ た。

「荷物を下ろしたら、もう一度玄恵様のところにご挨拶に行くといい。それと何 かあったら、私に聞いてください」
「直冬って呼んでいい?」

「いいよ」

目を合わせられてどきりとした。
そして、呟き、告げられた返事は流れて溶ける ように何も残さない。

「直冬、待ってて。すぐに荷物置いてくるからさ。玄恵様のお部屋も、わからな いよ」

室に入っていった智光が、騒々しく荷を解き始める。
そのせわしない音を聞いた 時、直冬は不意に一瞬全てが嫌になったような気がした。

何がとは言えない。






寺の子供達はおとなしく、そして一つ一つを乱すまいという一種の険しさを各々 が持ち合わせながら過ごしている。
集い合う時でもはしゃぐこともなく、忍ぶよ うな、だが互いに嘘偽りの無い微笑みを零す。

それは完結した、美しい光景だ。

智光が見るかぎり、直冬もそんな共同体の律儀な一つの歯車だった。
彼はいつもきびきびと率先して行動する。仕事を手伝い、年少のものの面倒もよ く見た。更には大人さながらに注意もしてのけた。
模範的でかつその態度を曲げ ない強さがある。
寺にいる年月が長いこともあって、皆は直冬を素直に慕い頼っていた。それを直 冬自身も喜びと感じている節がある。



夜が来ると、例え今まで仲良く話し込んでいたとしても、小僧達は何の未練もな さそうに散り眠る支度を始める。
広い木床を埋めるように床を並べ、言葉少なに体をしまいこむ。

つったっている智光に、直冬は敷物と掛け物を渡してやった。

「信じられないよ」
「何が?」

「誰も夜更かしをしたり、こっそり遊んだりしたくならないの?」

「ならないね」

智光が話し掛け続ければ、直冬はすぐによそよそしい態度をやめてくれた。
しか し外に向ける感情じたいが平坦だった。だから、彼の表情が急に揺れ動いたのを 見て、智光は期待にも似た好奇心を覚えた。

「幼い、から皆が寺に預けられているというのは思い違いだよ」

そこまで思っていないと言い返そうとしたが、敢えて口を継ぐんだ。


「ここは子供も大人も甘えていい場所じゃないんだ」

まだ小さな灯りが灯っているが、ところどころ寝息が聞こえ始めた。
智光が床の支度を終えるのを直冬は隣で待っている。


「朝は早いから、ちゃんと眠った方がいい」
「眠れるかな」

「大丈夫」

こういうとき、直冬が自然に浮かべる微笑みと言葉は優しい。

「おやすみ」

ふ、と吹き消された火の後にたなびく煙が、闇の中でうっすらと見えた。
直冬が床に潜る僅かな衣擦れの音の後は、子供らしい子供の、寝息ばかりが聞こ える。

急に淋しさを覚え、父のことを考え続けた。真冬の寺の中は、これ以上ないとい う程冷えきっている。毎晩毎晩こうして眠りにつく彼らを、初めて勝手に哀れん だ。







智光の眠りは浅かった。だからまだ夜も明けきらぬ早朝に、誰かが床を出た小さ な物音に気付き目を覚ました。

「…ん…」

一人が物音も立てず枕元を横切った気配がする。
こっそり床の中から目をやれば 夜着から除く足首が見えた。きりきりという覚えのある音を聞く。後ろ姿は矢張 り直冬だった。


追い掛けていいのか、布団の中で智光は少し迷い、一度寝返りをうつ。
そこまで する必要が自分にあるだろうか。したいのだろうか。していいのだろうか。
足先の寒さが爪先から染み込み、びくりと震えた。しばらく思い悩むうちに、直 冬は帰ってきてしまった。
鐘が、鳴る。
朝が来ていた。




「直冬」

「ん?」

「さっき何処へ行っていたの」
「いつ?」

「朝」

井戸端にしゃがみこみ、竹の笊の上のかぶを洗っていた直冬に、思い切って問い 掛けた。
凍るような冷たさの中に浸された手は、荒れて皮膚が裂けている。彼自 身の佇まいとは不似合いな筈なのに、そのあかぎれは手に相当馴染んだものに見えた。

「知りたい?」

直冬の横顔、それは真剣な表情と言い変えられるものだった。
しかし智光は、そ う割り切って視線を外すことが出来ない。

乾いた手のあかぎれは、本当にひびなのかもしれない。
彼の表面は、全てきめ細 かな陶器で出来ていて、割れてしまった時には、空っぽな暗い空洞があるのでは ないだろうか。

まじまじと見つめてみて思う。直冬は、今まで智光が知る誰よりも人らしく無い 。


「……聞いて、みただけ」

智光がみるみる声を落としてしまったのを見て、直冬は苦笑した。


「いや、隠すことでもないけど」

横に座り、智光もかぶを一つ手に取ってみた。近くからもらってきたのかもしれ ない。葉は緑が鮮やかで、泥が強くこびりついている。


「氷が張ってるんだ」

「え?」

「この井戸の横にある水瓶に」

身を乗り出したが、丁度裏側にあるのか座ったままでは見えなかった。


「最近は春が近いから、本当に薄いものなんだけど。早く目が覚めるとどうして もそれが見たくなって」

「…ふうん」



綺麗なものがみたい
割れていてほしい、
と思う。

「たまに罅が、入っていたり」


絶対ではないもの
手を加えれば壊れるもの



「何かそういうものが、好きだから」


本当は繋がらない言葉に気付かず、智光は一先ず納得したようだ。


透明で、何も通さなくて、強く叩けば割れてしまうのに、鋭く皮膚を傷つける。
そんなものに惹かれる度に、思い出すある出来事がある。
まるで裏側に閉じ込めたのに、透けるその奥で彼をずっと見ているような記憶が 。












補足(反転)

冬様がたその家にくる前かつ元服前なので11歳を想定
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