「ずっと忘れられないことがあって」

「どんな?」










------いくら時が経っても戻らず、庭には風が桜の花びらを零し続ける景色だけが在り続ける。
塵のように巡り、そして終わりがない。
幹から枝が分かれその先にのみ蕾は実らぬというなら、散り切らぬわけはないのだ。それでも。

もしかしたら悠久こそが自分にとっての未知であり、恐怖でもあるのかもしれな いと直冬は考えた。
腕で膝を抱え、心を支えるしかなかった。与えられるものに 頼らず、支えるものは己で築くのみと学んできた。


日が落ち空の色が変わっていく。花びらは降り続けた。





「直冬」
「お帰りなさい。玄恵様」
「ずっとここに?」
「はい」


「…ずっと?」
「はい」

玄恵は眉を顰めた。直冬を待たせている、と家の者には伝えた筈だ。
なのにまさか誰も彼を通さないとは、考えていなかった。
直冬は膝を抱える手を、なかなか解き、外すことができない。
そっとしゃがみこ んだ玄恵は、優しく肩に手を置いた。

「……誰も、通らなかったのですか」
「女の人が一人、室から覗いていました」

顔には出さず聞き咎める。
直冬がわかるはずもないが、その女が高氏の正妻、北条登子そのひとでないことを密かに祈った。



「玄恵様」
「はい」

泣きだしそうな直冬は見たくなかった。
彼が童らしい表情をする度、受けとめ兼 ねる。

親になってはいけないのだ。
預かる、という線引を怠りたくない。



「本当に私に父上はいるのですか」
「勿論です」

「必要な、ものでしょうか」


一人玄恵を待ち続けるうちに、直冬の胸の内は、不安ともそして悲しみともつか ぬものでいっぱいになっていた。
今まで、自分の立場というものにもうっすら感 付いていたつもりだ。
父は始めからいなかったし、ほんの僅かな記憶しか残さな かった。


自分も、そして人も、流れて消えていくものだと思っている。
そう思うからこそ 、全てに耐えられた。
永遠を与えられない不安が皆平等にあるというなら、自分 の生い立ちや境遇など哀れむ必要などない。

だが抱え込んできた総てが、今胸の小さな堤を一気に押し破ろうとしている。


「何も心配しなくていい。ただ、…今は時機が良くなかっただけでしょう」
「そうですか」

直冬は思い切って立ち上がってみた。その顔色は青ざめている。
ひとまず、此処から出ねばならない。


「今日は近くで宿をとりましょう。たまには外でゆっくりするのもいいものです よ、直冬」

「…はい。」
玄恵も意地になっていた。
預かることは引き受けた。ただしそれは、いずれ高氏 の元に戻ることを前提にした約束のつもりだった。
加えて彼は、このまま寺に置 いていくには目立ちすぎる。幼い今はよくても、やがては彼の素性を嗅ぎつけた 何者かが訪れてしまう可能性がある。

何より、直冬の髪を剃り落としてしまうことは、躊躇われた。



夕暮れが近付いた頃の気味が悪い程の静けさは、間違いなく自分を追い出そうと しているからだと、直冬の上手く動かない足は感じている。



振り替えればただ一つ庭で散る桜だけ、立ち去る彼を見送っていた。




そのいろとかたちは、何の整理もされないまま今も残っている。






「父の屋敷の庭を見たことがあるんだ。とても綺麗だった。それで完全なんだ。 なのにどうして、私がこの景色の中にいなければいけなかったのか」



見えても、触れられぬ記憶と感情。

頻繁に思い出すのには理由がある。
直冬はもうすぐ、元服することになっていた 。そしてもう一度、父のもとを訪ねるのだ。

僧にもなれず、寺という場所も失うのではないか。
そのことが直冬は不安だった 。武士の子、になれるのだろうか。




「直冬の父上はどんな人?」


話を聞いている間に手持ち無沙汰で濯いだかぶを渡す。直冬の笊の上のものはと うに、全て綺麗に洗い終わっていた。


「会ったことないけど…武士みたい。屋敷もとても大きかった」

「へえ、すごいね」
「うん」

「会ったことないの?」
「うん、会えなかった」

「……じゃあ母上は」
「いなくなってしまった。もう、いないよ」


いなくなった、と答えるほうがよいのだと思う。
実際は違う、と知っているのにそこには不自然な穴がぼこりと空いている。
だから玄恵が自分に伝えたその言葉 だけを口にして、わざと記憶に残した。
有耶無耶にすることが嫌だとは思わなか った。それでいいと思った。

「…ごめんね。嫌なことばかり聞いた」


気にしていないのだと笑い返す。智光の素直な態度に感心した。

「いいよ。私より大変な思いをしている子達が、たくさんいることも知ってるか ら」

直冬の言葉は、嘘でも強がりでもないだろう。だがそのことが智光を妙に苛立た せた。
淋しい、とか父を恨んでいるとか、そういった言葉を聞きたかったわけで はないのに何もぶつけようとしない彼に苛立った。


(もっと望めばいいのに)
人らしく。
(君ならきっと、得ることが出来る)と。



「でも、淋しくないの?父上に会いたくないの?」

「ここには玄恵様も仲間もいるし…。父はきっと、私と会いたくないんだと思う 。だから私も、無理して会いたくない」


会わないというのが意志なのか事情なのか。
だがそのどちらにしろ、自分は父を困らせてはいけないと思う。だから会いたい とも思わない。


だけれど
もし自分がいないことで幸せになってくれればいい、とまで父という存在を庇え もしなかった。



「行こうか。このかぶが夜の膳にでてくるよ」

直冬は屈託なく笑い掛け、笊を持って立ち上がる。
しゃがんでいる智光からは、笊の下にまわされた彼の手がよく見えた。

「痛そうだね」


手を伸ばして触れると、冷たかった。
「冬が終われば治るから、大丈夫」

「持たせて」

自分より小さい智光に荷を持たせることに直冬は躊躇ったが、智光はひったくる ようにして笊を持っていってしまった。かぶが転がり、落ちそうになるのにはら はらとしながら、笊を身体で抱えて運ぶ彼の後ろに付いて井戸場から離れていく 。
空いた手元が気恥ずかしく、少し嬉しくて、何となしに後ろで組んでみたりした。



小さな幸せの中で生きていられる。…今、は。





日は瞬く間に過ぎた。
もう些細な物音で目を覚ますこともなく、寺の薫りに違和感を覚えることもない 。

ただ一つ新しく気付いたことは、ひたすらに無欲だと思っていた彼らが時々、と ても鋭い視線と、感情を向けることがあるということだ。
玄恵と違って未熟な、 そして我儘な欲はとても険しい。
一種の狂気すら覗かせるようで智光はただただ たじろいた。



直冬を取らないで、と言われた。直冬本人がいる前で、である。
一番年の小さな 、まだ幼子と言えるような子だった。普通に考えても、まだ甘えたい盛りの歳だ 。別段おかしいこともない。
だが、だからといって直冬に縋るわけでもなく、た だ智光のみを見据えて堂々と為されたその宣告は幼い容貌とは不似合いで、気高 さのようなものすら感じた。


とってないとも言えず、どう返していいのかわからない。
すると、直冬がすっと 横から歩み出て彼に近付きこう言った。

「とる、とか、とらない、とかそんなこと考えなくていいのに」

優しく伸ばされた手は、戯れにその子の頬を緩くつねった。それにつられてにこ りと愛らしい笑顔が零れる。


「ごめんなさい」
「…え」

出し抜けに謝られて、智光は戸惑った。
だが直冬は得心したように頷き、良く出来ました、と笑った。



「驚いた。あの子もああいうことを言うんだ」


彼が走り去る時の照れたような笑顔が、まだ智光の中に鮮明に残されている。

「……直冬が大好きなんだよ」

「彼はまだ小さいからね」

嬉しそうでもなければ、戸惑っているわけでもない。そして直冬の言葉は、あの 子の思いに対して、最も不完全な答えだと智光には思えた。

おかしい、と気付いた。




途切れ途切れで繋がることのないまま。
だが一つ一つは欠けなどないかのように そこにあるものばかり。


外に出れば濁りのない、澄んだ空気があり、中に入れば汚れなど寄せ付けない、 身も心も清めてしまう薫りがある。








六日目の、朝だった。

門を叩いた男がいる。
出迎えたのは、丁度石段の掃き掃除をしていた智光と直冬だった。



「父上っ!」

姿を認めた途端に、石段を飛び降りて駆け寄る。


「もう帰ってこれたの?!」
「ああ。出来るだけ早く迎えに来た」

胸の中に飛び込むと、力強く腕を回し返してくれた。
暖かくて懐かしい父の衣の 匂いを、強く感じた。


「早かったね」
「思ったよりよく売れた。よかったよ」

仰ぎ見た父の顔は穏やかで、別れる前より溌剌として見えた。
自分でも驚くぐらい、嬉しい。


(父が、・・・父という存在はやはり、祝福なのかもしれない)
そんな二人の様子を見て、直冬は黙って踵を返し、石段を上っていく。かんかん と鳴る下駄の音で、智光はそれに気付いた。


「待って!直冬っ!」

慌てて呼び止める。直冬は振り返った。

「玄恵様にお伝えしてくるよ」

そこにはいつもと同じ微笑みがあった。それでも智光は、後を追わずにいられな い。



「父上、荷物、取ってくるっ!」
「ん?ああ」


石段を駆け上る直冬の袴の裾が翻る。下駄から浮いた踵は、あの朝見えたまるで 死体のような色とは対照的に、血が循り赤く色付いていた。
むきになって追い掛ける。途中で息が切れ足が止まりかける智光を、直冬は風が 吹き抜けるかのように引き離し置いていった。


その後ろ姿はただの、そう自分といくつも違わないただの童であるというのに。




『直冬は父上が造る刀みたいだって、思った』

別れはそれからほんのすぐだった。穏やかに微笑む玄恵と並び自分を見送る直冬 に、智光は息を切らせながら告げた。
駆け上り、駆け下ってきた石段の一番下で 向かい合うのは、もう次がないだろうという予感を何故か強く思わせる。



言葉に出して言わなければならない。 もう彼とは会わないかもしれない 。





「俺が造る刀?」

「うん」


初めて見た時から、たぶん彼を綺麗だと思っていた。
尊び、憧れる父の刀に例えることは智光にとってのこの上ない賛辞なのに。 直冬はその真意に気付いてはくれないだろう。

横を歩く父はそれ以上問わず、旅荷を背負い直す。




寺で過ぎた数日を思い起こしながら、最後の直冬の顔を思い出した。

あの言葉を伝えたときも、智光が願った通りの彼の笑顔は見れなかったのだ。
直冬はただその清げな目元を薄く潤ませ、透き通ったままで遠くを映していた。


誰か出してあげてほしい、と思った。

悲しくて綺麗な













補足(反転)

冬様がたその家にくる前かつ元服前なので11歳を想定
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