真新しい絹の光。 たった今紐解かれたこの上質の着物が、本当はずっと前に仕立てられたもので、奥に仕舞われ続けていたものであることを思い返す。寒色のものを好んで身につける義父上が仕立てるような色ではない。
私が公の場に初めて出る時を待ち侘びて幾年も経ったであろうに、身に余る程高貴なその色が褪せることは無かった。それが義母上の、そして義父上の想いの表象であるのならこれ以上の喜びはない。元から大きめに作ってあったのだろう。袖も合っている。
晴れ着などと呼ぶこと自体が私にはおこがましい。だがこの袖を通すことは私一人の問題ではない。
袴の紐を結び直し、背を下から引いて整える。握る指をさらさらと滑らかな感触が伝う。
「素敵ですよ、直冬」
義母上が華やいだ様子で迎えてくれた。
「どうかな?」
傍らの小さな姫に冗談混じりに問い掛ける。姫はほんのり紅い頬で、お似合いです、と小さく答えた。
「ふふ、あやめ。そんなに照れることないでしょうに」
義母上の言葉に、姫は俯いて母の背に隠れてしまった。
「心づくしに感謝致します。本当に、…私には勿体ないくらい」
「そんなことはおっしゃらないで」
悲しげに揺れた義母上の表情に、すぐさま犯した過ちを悔いた。詫びる代わりに、何事もなかったように笑い返す。
「義父上のところに行きます」 「ええ」
翻した視界には濃紫の袖が映った。ぎゅっと握りしめて、翔けるように室を出た。
「入ります」 「うん」
義父上の前の書机を、共に囲んでいる重能殿がいる。何かの打ち合わせをしていたらしい。
「お邪魔でしたね」 「ああいえ若様、もう終わりです」
視線をこちらに投げた彼は、おお、と小さく声を上げた。
「新しく仕立てたんですか」
重能殿の言葉を聞いて、義父上もこちらを見る。そしてぱっと顔を輝かせた。
「それ、紗和が出してくれたの?」 「はい」
「いいですね。美男子は見栄えがしますから」 「世辞はいいよ」 「いや、俺は世辞なんて言えませんし。ねえ、直義様」
義父上は珍しく声を立てて笑い、そうですねと頷いた。
「ん、じゃあさっさと済ませときますか」
「お願いします」
「まあ、もう前以て直義様が手配して下さっていますから」
勢いよく立ち上がった重能殿は擦れ違い様、含み笑いをして言った。
「若様、すぐお披露目ですからお楽しみに」
「今日これから…ですか」 「そう。予定より早めたんだ」
義父上は寛ぐように机に頬杖をついたが、その表情は固かった。そしてそのまま首を捻って、じっと私を見る。
「…?」 「ううん、」
首を傾げて見返せば、慌てて横に頭を振った。
「どうしました?」
いつにない反応にふと笑みを零しながら、側に立つ。私を上目に見上げている義父は、やはりあどけなく映った。しかしいつもと違うのは、例えるならまるで反転した世界をまじまじと見ているような、または赤子が何も意識しないまま目を見開いているような、妙に無感覚で無自覚な視線を向けてくることだ。
さっきまで無邪気に笑っていた筈なのに、私と二人になった途端雰囲気が変わった。自分を繕うくせがあるこの人にはそう珍しくもないことではあるが。
「…座って。やっぱり隠してはおけない」
嫌な予感、というわけではない。こういう場面は今まででもあった。だが袴を捌く指先は、固くて上手く動かなくなっている。腰を落ち着け、何気ないふりをして義父上を伺う。ぐっと押し潰すような空気の重さに気付き、ただ黙っていた。
「今日まで、直冬は私の正式な嫡子ではなかった」
「……え、」
入って来た音に、唖然とした。
何を、言われた。
『今日まで嫡子ではない』
では今まで私は、
この人にとっての
何?
瞬間、急に押し寄せた鋭い感覚が容赦なく頭を駆け上る。それは間違いなく怒りだった。何も考えず叫ぶ。
「どうして!!あの時の、約束は…?!」 「お前に、周りにそう言わないと。…あの時はお前を守れなかった。」
側の机を払いのけ、縋るように細い肩を掴む。すぐ傾いでしまうかと思ったが、義父は背を張るようにしてぐっと耐えた。
まるでそれが償いであるかのようで、私は益々激しく憤る。
潰すぐらいに掴んで、突き倒した。義父は背を撃って倒れたのに、瞬きすらしない。まだ、私から目を離さない。
「…その着物を仕立てた時、幕府を見限る時に約束した。でも、もしかしたら…まだ兄上のお心が変わるかもしれないと」
「…また、あいつですか!?」
あの後ろ姿をそう、あのしたたかさと幸福さをなぞりたくて
羨ましかった。だけど、望むことが許されていなかったから。
今も、これ以上。この人を責める権利すら、なくて
空虚感に支配されぎこちなく身体を起こす。肩から両手まで力を抜いて垂れ下げたまま、黙って「足利直義」というひとを見下ろした。
泣きたかった。
「……ごめんなさい、」
必死な、なのに静かなその苦痛の表情に耐え切れなかった。義父上、といつものように呼び掛けようとして、何も言えなくなる。
そんな私としばし見つめ合った義父上は、肘を付きずるずると体を起こした。目元を赤く潤ませ、そのまま私の頭を抱きしめる。
「直冬は私の子だよ。足利の子だ。」
肩から身体を伝う声に、腕を回し返す。骨張った固い感触の肩に、乗り切らない私の頭を押し付ける。抱きしめられているというよりは、そっと包まれているような感覚だ。
この人はいつもそう、触れることを躊躇う。
「嘘を付いたんだ。気が済むまで殴ってもいい。だけどお願いだから、…『義父上』と呼ぶのをやめないで」
頷いたことが伝わっただろうか。不安になって何度も何度も繰り返した。すぐに口に出した。ちちうえ、ちちうえ、と何度も何度も呼んだ。
他人を拒絶してばかりの貴方 義父である貴方 私を守ろうとする貴方兄の血を、守ろうとする貴方
私には
私だって
私ならば
権利、その全てをあいつから手に入れられる筈なのに
「『もう憐れまれるのは嫌だ』」
「直冬、胸を張りなさい」
そのたった一言で、私は瞳に毅然とした光を宿せる。胸を張り口許に笑みを浮かべ、颯爽と歩んでみせる。驚きと、卑しい興味。得体の知れぬ憎悪すらが私を取り巻いても平気だ。待ち受けるものを知らぬ程無知になれぬ私の姿を、あるものは豪胆だと、あるものは憐れだと見るだろう。
「はい義父上」
血の気の薄い肌と世離れした雰囲気、並ぶと私ですら恐れるような気配その全てを私は誇る。
だから、恐れる。
「息子の直冬です。皆様よしなに」
義父上は周りの目など気にならぬというようにこの場の空気に平淡であって、ただ義息子を自分の世継ぎだと知らしめるという目的にのみ終始していた。
最前列に陣取る上杉兄弟が綺麗に礼を取ったので、居並ぶ質の中の面々もそれに気圧されるように頭を下げた。尊氏本人を除いて、その他の要人はだいたい揃えたらしいことを後から聞いたが、今まで公に出なかった私にはほとんど顔がわからなかった。
「幕府など狭いものだ。一度見せただけでも飛ぶように広まる。にしても、…師直殿まであの場に呼ぶのは時期尚早。」
歌うようにいいつつ、憲顕殿は、少し意地悪く笑う。
「ああそれ俺の提案。最初が肝心、ってね。直義様も賛成してくれたし」
壁際で胡座をかいてあっけらかんと宣った弟を鼻で笑った後、憲顕殿は今まで黙りこくっていた義父上に視線を移す。
「これからの私と、直冬の邪魔にならなければいいだけです」
「まあ、そう尖るな。こういうことを本人の前で言うのはなんだが、直冬殿を目の上の瘤より厄介に思う奴もいる」
ちらりと私を横目で見たものの、彼は何の躊躇いもなくさらりと言い切った。
「手は打ちます。容赦はしないつもりで」
「ま、そう言うとは思っていたが」
「いいじゃねえか。めでたいことなんだから」
すっきりしたな、と笑い飛ばす彼。危惧しながらも、結局全てを許容する彼。そしておもむろに立ち上がった、私の義父上。
私は大好きだから、それでいいけど。
「どちらに?」
「まだ片付いていないことが一つあります」
珍しく手伝うと言い出さなかった部下の前を通り過ぎて、義父上は室を出ていった。
何かを考えている様子の憲顕殿も幾分間をおいてから席を立ち、少しからっぽになった室の中に、重能殿の大きな欠伸が響いた
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