狡くて、欲張りだから


(『だいきらい』)

そんなこと、私だって同じだ







静寂には二通りあると思う。

一つは何も無い故のもの。もう一つは取り囲む全てものが緊張していて、互いにぎりぎりの拮抗を保っている故のもの。今この空間を、または私の中を満たしているのはどちらのものだろうか。

もう夜と言っても良い刻だ。普段は待つことが苦痛なのに、時を忘れ何も感じずにいる。

俯いて黒く湿った廊を眺めていたが、ぺたぺたと聞こえてくる足音に顔を上げた。この薄ぐらい廊で待ち合わせた童、私の甥である義詮は肉親であると思えぬ程ぎこちない様子で、話すには差し障りがない、しかし充分な距離を取って立ち止まった。こんな顔をしていたかと思う。その時四歳だった彼と共に鎌倉に下ったにもかかわらず、あまり面と向かって話したことが無いのだ。


「…私に御用が、あるんですよね」

視線を向けられているのに気詰まりしたように、義詮は苦笑して口火を切った。

「お時間を取らせてすみません、義詮様」

「いえ、それで、あの…」

何のご用事ですか、と訪ねる声は萎むようにして消えた。どう切り出すか、と少し悩んだ。だがやはり今この時、私は義詮にあまり感情的にはなれなかった。

「…兄上が義詮様に、どれ程あの子のことを話されたのかわかりませんが」

あの子、という言葉に反応した様子に、彼が直冬と出会ったことを確信する。そしてその反応が予想よりあからさまだったことが意外だった。もう少し隠すかと思っていたのだ。


「もしも直冬にお会いしたのであれば、私からもお耳に入れておかねばならぬことがあります」

義詮はいつも少し俯いて、上目に誰かを見る。今は私が視線を外した時だけじっと、恐々と表情を伺う。何を恐がるのか。いや、きっと私の全てなのだ。目を細めしばたたかせただけでも、目の前の甥は私を、厭う。

好都合

何も繕わなくていいから。





彼は私が、ただ自分の為に直冬を引き取ったと思っている。そしてそれは無理もないことだ。




「『あれに足利の血など流れていない』」

「…え?」

「今まで直冬の存在を知るものの間で、私が引き取るまでの間で。最も多く囁かれたことです。」



本当は母親だけでなく、父親も何処の誰だか知らぬ下賎のもの、と。言わせておけばいいと初めは思った。直冬が大人になれば、真実は姿や人格で自ずから知れるというもの。

でもすぐにその噂が広まることの悪辣な意味に気付いた。私があの子を手放した瞬間に、父親は否定される。足利の血統が否定される。

そうなれば、あの子は他人の中に埋もれるしかない




「…直冬さま」

ぽつり、と義詮は名を呟いた。そしてそれは間違いなく憧憬か慈悲か、甘く切ない響きを宿していた。怒り、嫉妬にも似た感情が胸を焼き尽くした。

義詮が直冬を、こんなふうに呼んでいい筈がないのだ。…何も知らないこの子が。


「いいですか。一つだけお願いします。そのような目で、これからのあの子を見るのなら。…出会ったことから全て忘れてほしい」

「…どうして、」

「あの子に憐れみなんて必要ありません。それは彼と私への、ただの屈辱です」

言い放てば彼はぎゅっと拳を握った。そしてきつく、睨み返してきた。

「……そんな、そんなの叔父上が決めることじゃないじゃないですか!…私が、どう思ったって、そんなのっ!叔父上は、……勝手です!」
「どう思われても構わない。もう覚悟は出来ています。私が嫌いでも、それでいい」

義詮はぐっと口をつぐみ、よろめくように一歩下がった。彼の涙をまた見なければいけないのかとぼんやり考えたが、ああその前にここから立ち去ってしまえばいいと思い当たった。



「でもあの時、兄上に当たったのだけは間違いです。義詮様」



ではこれで、と頭を下げる。後はもう振り返る必要もないと前を向いて歩いた。妙に静かな世界の中で、私の心臓だけが跳ねている。

これから私の屋敷に帰って、室に戻って、

直冬に、どうやって



「……あぁ…」





嫌だ、こんなことしたくなかった。でもやらなければいけなかったんだ。









足が、徐々に動かなくなる。



兄と私の屋敷を繋ぐ渡り廊。虚に立ち尽くしたまま抜ける風になぶられる。
通り過ぎるのを待つ。風か。私か。夜か。>





「兄上」



ひっそりと口を開ける闇の、向こう側は私の世界。立ちはだかる人待っている人
今だけは、会いたくなかったのに







「この前のことなら、心配しなくていいと言っただろう?…直義。」





歩み寄ってくる姿を呆然と眺め、その足音と共に、静寂が侵食されていくのを感じる。張りつめた全てが糸を切られ倒れていく。砂が零れていく。


「直冬を皆に見せたそうだな」

「…だって」

反射的に後ずさる。今は怖かった。私を見ている兄上が怖かった。彼はすぐ目の前に来て、強く腕を掴んだ。詰め寄られた。


「どうしてだ」


振り切って、尚も後ずさろうとする。しかし握った手は外れなくて私は狂ったように腕を振った。

砂が零れていく。全て飲み込んでしまう。後は崩れるだけなのか。

こんなに、凍らせてきた、全てに。
ぴしり、とひび割れた。



線が網のように走って、

それで、





「………何でっ…!私が、まるで全部悪いみたいに!…兄上も私を責めるのですか!」



鬱屈した感情が吹き出し、どす黒く渦を巻く。

割れた。悔しい。
割れてしまった。

誰の為に




やっと、いや、遅すぎる。彼が権利を得ることを待ち侘びた。息子だと知らしめたかった。なのにあの冷たい視線達を直冬は、どんな気持ちで受け止めただろうか。義詮は四つを数えたくらいから、堂々と父の名代を名乗った癖に。



「何も間違ってなんかいない筈です!私は自分の為だけに直冬を引き取ったんじゃない!私は直冬を傷つけてなんかいないし兄上も傷つけてなんかいない。直冬の為、直冬を守る為だけです!!」


両耳を塞ぎたくても、片手が掴まれていることを思い出して更に頭が掻き乱された。唇を一度きつく噛み締める。身体が熱くて寒かった。震えながら、首もう一度唇を噛んだ。

「兄上は私のこと何にも知らないんです!……何にも、!今だって…一番こわいのは私なのに!痛いのは、私なのにっ!!」



ぜえぜえと息を継ぐ。兄上は顔色一つ変えない。



兄上の私の
静寂の後に、



あとには