冴え冴えとした青白い光が、さらりと頬の線を撫でていく。
夜闇の中白々と浮かび上がる顔には怯えに似た怒りが滲み、必死に睨み付けようとする目端は微かに震えていた。 静寂に消え行くように、冷たい風が吹き抜けていく。掴んだ右腕は頑なに強張っていたが、掌に少し力を籠め押し留める。刹那酷く驚愕したかのように目を瞬かせた直義は、だがすぐ僅かに顔を俯けた。

その傾いた線を目線でなぞってから、ゆるりと視線を捉える。独りに怯え幽愁に凝った瞳が、切なげに夜の光を弾いた。

「…」

名を呟きかけた筈が、喉をつく前に声が掻き消える。静寂に落ちるのは苦しげな息遣いと、微かばかりの衣擦れの音だけで。ぐ、と腕を引けば蹌踉めくように僅かに此方へと近付いた。しかし踏み止まろうとする足は強情に伸びて、その反動にがくりと肩が揺れた。
静かに足元から立ち上る熱は、じわりと体を灼く。それなのに一向に冷え切った躯は熱くならない。
此度直義がした事。握った腕が震える、理由。


「直義」

漸く名を紡げば、ちらと混乱の色をよぎらせる薄茶に月が映りこんでいた。

「…―どうして」
「、だから…!」

勢い振り仰いだ顔を、半ば睨むように凝っと見詰める。何を言うべきか、言わねばならぬか知っている筈なのに。何より先に口をついたのは、酷く冷たい言葉だった。


「…俺がお前の事を何一つ知らない、なんてどうしてお前に言えるんだ」
「…っ!?」

びくりと反射的に腕を跳ねさせたのを今度は力の限りに引き留めた。踏みとどまろうと後ずさる体躯に苛ついて、掴んでいた手を強く引く。慌てたように傾いだ肩が回廊の柱にぶつかり、ぎこちなく跳ねた。

「ぃ…た……は、はなしてください…!」

酷く色の無い顔で直義は、突っぱねようと腕を伸ばす。その囲い込まれた距離、青白い夜闇の中に浮く捲れた腕の細さ。
…直冬、と口の中だけでその音を転がす。聞こえはしないだろう名は、舌先で淡く溶けた。直冬が己が息子、「足利直義」の跡目だと、正式な形を整えてあらかたの筋へ通した。直義の其の真意が奈辺にあるのかと、気を揉んだ人間は五人や十人できく数ではなかろう。師直の憂い顔などは寧ろ率直な部類であったが、宮の幾人かは早速の機嫌伺いをたててきた。大体疾うに知れていることだ、あれが誰の子か、などと。
皮肉げに危ぶむ視線や、揶揄う口元に浮かべられた嘲笑。血筋堅めには尚早な手だ、と半ば面当てのように詰る者もいた。大御所様に置かれましては“弟君”への此度の御配慮は如何なものですか、等。

全てが捻れて絡んでいる。泣き伏せていた義詮の叫び声。何処までも的外れた渦巻く思惑の数々。この機会に明示した直義の意図。噛みしめた苦みがじわりと喉を落ちる。この感情の名を、知り得る術を求めて強引に腕を払った。

「…直冬を守る為だけ、…か」
「…そうです…!」
「本当に?」
「そうです…っ!私は、私はただあの子の為にやったんです!間違ってなんか…!」

柱に押し付けた背中が揺れ、またも拒む様に跳ね除けようとする。 何もかもを擲ち、喚いてしまう如くに直義はただ身を震わせている。切り研ぐような必死さは、余り見覚えのある色ではなくて、苛烈な迄に鮮やかな狼狽は酷く寄る辺無いもので。いつの間にか握りしめていた己が掌が、ぎちりと爪を食い込ませる。
揺れる瞳の色、拒む腕の頼りなさ。掠れた声が切り裂いていくのは紛れもない直義自身。

浮かび上がってきた熱は、緩やかにしかし深々と心の臓までを喰らい尽くして。 睨みつける瞳が散り散りに砕ける様を見返し、低く言葉を押し出した。

「…、」
「…え?!」
「お前が悪い」

見開かれた目に映る自分の姿が、見える気がしたのに。其れさえも拒んだ強張りが、弾かれたように振り仰いだ。

「そ…んな、そんな訳ないっ!!なんで、なんで?私はただ…ただ…直冬が幸せでいられるように、」

さっと血の気が引いた顔は酷く青い。溢れ出るものに直義は一度ぐらりと首を揺らすと、きっと此方に向き直った。

「…兄上がっ…何でそんな事言えるんですかっ!私は!」

くっきりと激情に彩られた顔を、真っ直ぐに見返す。冴え冴えとした青白い光、今はその張り詰めた線に弾くその美しさ。

「私の為なんかじゃない…!傷つけたかった、訳じゃない!」

ただ黙って見つめれば、青ざめていた顔色は寧ろ次第に赤らみ、つり上がる眉の間には紛うことなき怒りを滲ませた。嗚呼、と嗤う。なんて。

「間違ってる」
「違…、」

張り上げた声は震えて、裏返る。澄んだ声は、いつもいつだって心地よく耳を擽り笑みを転がせる。その、哀れな儚さが。


「『お前が悪いんだ』」
「……違、う!!!」



なんて、愛おしい。

許せないと思う。許してはいけないのだと噛みしめる。砕け散った残滓を掻き集めて必死に泣くまいとする姿を。



…響いた音に、派手に反応したのは案の定直義の方だった。

「…ぇ…あ…!!ぁ兄…」
「つ…」

掴んでいた腕を離して、口元に掌をあてがう。熱を持った頬は大した痛みも無かったが、爪先が掠ったところだけが僅かに濡れていた。灼く怒りの中で自分を突き飛ばそうとした手が所在無く揺れ、振り抜いた体勢で固まっている。そっとその手をおろしてやれば、見つめていた肩からふっと力が抜けた。

「…、あ…」
「落ち着いたか」
「わ…私…」
「…悪かった」

蹌踉めいた体に改めて腕を伸ばす。今度は為されるままに引かれてきた身を、そのまま腕の中に閉じ込める。力の抜けた体は冷えていて、抱き込むようにして腕を回した。

「…お前が、自分が悪いなんて思ってるからいけないんだ」
「…あに、う…」
「なんでそんなことを考える」

―…なんでまるで全部私が悪いみたいに、兄上も私を責めるのですか…―

「何を怯える…お前が悪い、と責めて貰いたがってるのは…直義、お前だ」
「…そん、なこと、」
「―…誰も、お前が悪い、なんて思うわけが、ないのに」

当たり前だ。何故この弟を責める気になる。渦巻く幾つかの思惑。消えなかった傷跡は今も苦い罪の証左。哀れな子の嘆き、可哀想に、只管泣きじゃくっていた息子を慰める言葉を自分は持たなかった。

「直義」

冷たい体が徐々に解れていくのに、少しだけ泣きたい気分になる。

「…直義は、優しいな」
「…、っ」
「でも…お前自身にだけ優しくあれ。それだけで…いい」

少しだけ腕を緩めて、此方を見上げてくる顔を見返す。

「……兄上、」

そろそろと伸びてきた手が熱を帯びた頬を包んでゆっくりと指先を這わす。僅かに濡れた箇所をなぞる仕草は何処か稚くて、その掌にそっと頬を押しつけた。

「俺を傷付けてなんかいない、とお前が言うなら…」

深閑とした夜の空は、最早幾層も折り重なった深い闇に覆われている。音の無い場所ではっきりと伝わってくる微かな息遣いに、ふるりと体の芯が震えた。

「もっとお前だけに優しくしろ…他の奴なんて、どうだっていい…俺さえも、だ」
「…だって、そんな…」

擦った指先は赤く濡れたのだろう。切なげに落とされた視線に、ゆっくりと囁いた。

「お前が傷ついて、俺が平気だと思うか」
「…」
「…お前が俺を…直冬を、思うなら」

不意に脳裏に浮かんだ姿は、酷く幼いその体躯。二度目に、そして其れが最後に、腕に抱いた子。あの時は今の義詮よりも余程小さかった子が、今はこうして腕の中にいる直義よりも大きくなったのだ。これが過ぎ去った年月なのだと今更の様に思い、そして同時に直義の中に積み上げられたものそのものなのだった。

直冬を認めてやらなかったあの時から、自分は未だに美しく絢爛な罪に溺れたままでいる。逃れられぬ哀れな子を側に置いた直義。相反する二つの熱情は澱み渦巻いて、秘めやかに腹に落ちる。罪の意識はどこまでも己が為の欺瞞。そして尚恋い焦がれる様な捻れた真情は、其れをも凌駕する鬱屈。もしかしたら妬んでさえいるのかもしれないと、苦々しく思う。 自分がこの世で一番愛おしい場所を、あてがいながら。そんな事を知られねばいいと。

直義は直冬へ手を伸べて、愛おしんだ。直冬は直義に、何を築いたのだろう。


「お前の為なら、何だっていい」
「…、」
「お前が幸せなら…それでいいんだ直義」

義詮を泣かせ、直冬をも泣かせたのかもしれない。己の直視し難い過ちを、抉ることが心地よい訳もない。それでも。
何かを堪える様に、顔を歪めた直義をもう一度きつく抱く。

「許してくれるか」
「…許、す…?」

囲い込んでいた手を片方だけ外す。肩にかかっていた細い手をとって、そっと掌を重ねた。白い掌を指先で擽り、ゆるりと指を絡める。伝わる熱が曖昧に揺らぎ、擦れた場所に少しだけ痛みを伴った。

何故言えない、何故言ってくれない。お前のせいでこんなにも苦しいのだ、と。張り詰めた背は痛切に語っているのに。俺が直義を許せない様に、直義も俺を許さなければいい。詰ればいい、背に爪を立てても憤ればいい。耐え切れぬ痛みに切り刻まれるのが、直義自身でさえなければ、何だって。

白い指を指先で弄んでから、そっと口を寄せる。擦り付いた赤を舐めとってやれば、甘臭い苦みが喉を転がった。

「お前が泣いても…俺はお前しか要らない」

許せ、と濡れた指をとる。真実直義が幸せならいいと願うのに。それだけが唯一だと言い切れない。直義の為、誰の為であろうと自分はこの手を離してやれない。そんな身勝手を許さなければいい。愚かしい、馬鹿げた願いだ。

「お前だけ、しか」

手酷い裏切りの言葉を直義は黙って聞いている。直冬の名を告げてやらないことを、責めてもよかったのに。全てが欲しい、其れが直義の中に積み上げられたものだとしても、それを全て。

「兄上…」
「…お前は何も、悪くなんかない」

笑うように顔を歪めてしかし、直義は俯いて胸元に顔を埋めてしまった。背に回した手でゆっくりその熱を抱きながら、幽かに立ち上る痛みをじっと耐える。

何時の間にか雲が陰り、白々とした光は茫洋と広がり霞んでいく。ゆっくりと胸を打つ音だけが密やかに聞こえる夜闇の静寂。このまま全て消え去ればいい。抱き込んだ耳を塞いでしまおうと、そっと手を伸ばした。