片手間にまさぐった指先が、固い感触に行き当たる。
見慣れたこの小箱の底。つまりはあれが無くなってしまったのだ。
迂闊だった。
最近は慌ただしくしていて残りの量に気を払っていなかったのだと思う。
買い足さなければいけない。だが今、誰かに頼むのは何となく気が引けた。
「憲顕殿」
「ん?」
同じ執務室で、後ろの机に向かう背に声をかける。
一瞬稀な光景のようにも思うが、憲顕は元々鎌倉将軍府に仕える関東廊番の一人なのだ。
特に京の、そして北条時行の動向が怪しくなってからは、毎日のように執務の補助に充たってもらっている。
「どうなされた?」
筆を置いた憲顕が、怪訝な顔で体ごと振り向く。
「…あの、私」
「うん」
「ちょっと出掛けてきてもよろしいですか?」
「…何だ、そんなことか。深刻な顔つきでいうことじゃないだろう」
からからと笑いながら、後ろに寄り掛かるように机に肘をかける。
「肘、汚れてしまいますよ」
「ん、…で、何処に行くんだ?」
首だけ後ろを向いて肘に目線を落としながら、憲顕が尋ねる。
「ちょっと市に…」
「一人でか?」
「え、まあ」
「それはやめとけ。慣れておられぬ所に一人で行くものじゃないぞ。…特に直義殿は」
口元に薄く笑いを浮かべる憲顕に、何となくむっとして口を挟む。
「そんな、…童でもあるまいし」
「ははっ、童、ね……まぁそうだな。だったら童の直冬殿でも連れていけばいい」
「直冬を?」
「良い護衛になるぞ」
「…はぁ」
「それに、のんびりできるのも今のうちだ」
ちらりと投げられた視線には、明らかな含みがある。
「しばらく会えなくなるかもしれんぞ」
低く言い遣された言葉は険しくはないが、重い。素直に頷けば、憲顕はふと顔つきを和らげた。
「普段世話になりっぱなしなのだから、美味いものでも食わせてやればいい」
「……世話…」
「ま、直冬殿が『義父上』に構い過ぎなのかもしれんが」
明るい口調で言われる言葉に、皮肉さはない。
だが憲顕が、こういった些細なことから揶揄しようとするのは、いつも自分では気付けないものばかりだ。
「そんなに……私は直冬に迷惑をかけているかな」
憲顕ならば、教えてくれるだろうか。
心当たりはいくらでもあった。ただそれを、誰かに尋ねるのが怖かっただけだ。
不明瞭さがからみついたままの自分に、慣れてしまってはいけないのに。
何かに引き摺られるような、・・・違う。むしろ突き放されるかのような痛みに息が詰まる。
そんな私に気付いたのか、憲顕は少し、眉を顰めた。
「迷惑とは少し違う。…それだけ慕われてるってことだ。羨ましい限りだな」
あっさりとした口調で言ってから何気なく目元をいじる。
この話はもういいだろう、と暗に言っているのかもしれない。
こういった憲顕の冷淡さが、むしろ優しさであることは知っている。
だから私も素直に笑って、何でもない、と合図を送る。
「憲顕殿にも子はいるのでしょう?」
「あ?…そりゃ、…いるさ」
少し虚を突かれたように、目を見開いて頷く。
「一度も拝見したことがありませんけど、もしかしてこちらに連れてきていないのですか?」
「いや、一人は連れて来てる」
「他にもいらっしゃるんですか?」
「……どうなんだろうな」
「は?」
僅かに空いた間の後、憲顕は体を後ろに寄りかからせて腕を組んだ。
「…いや、いる、・・・か。もう一人。」
「何ですか…思い出したように」
「妻の腹じゃなくてな。ついでに言うと、こっちに来る支度で慌ただしい時だったから仕方がない」
けろっと言い放つ憲顕を、溜息を付きながら見やる。
「・・・そんなことでは・・・・。憲顕殿が父上だと今も知らないのでは?」
「かもしれん。まあ知ってても同じだ。『親は無くとも子は育つ』というから」
「…呆れましたね」
「そういうな。文句はうちの父に言ってやってくれよ」
「叔父上、ですか?」
薄く笑った憲顕が、驚いたままの私を置き去りにして書机に向き直る。
「続きは杯酌の時にでも話してやるさ。日が暮れぬうちに戻られよ」
「・・・わかりました」
「ん、直冬殿によろしくな」
少し唖然としたまま廊を歩く。
叔父には昔の記憶から言っても、厳格だとか世話好きだとかそういった印象があった。
特に何かと兄上の世話をやく姿は、見慣れたというにもまだ足りない。
関東廊番にはもう一人、憲顕の弟重能がいる。
上杉は最も近い親戚の筋と言えたし、足利の家としても全幅の信頼を置いている。
それも有能な叔父の働きによるものが大きいことは、幼いながらにわかることだった。
だが確かに、まめに足利の家に足を運んでいた叔父が、憲顕達を連れてきたことはなかった。
それが何故かなどと、…聞いていいことなのだろうか?
廊を歩きながら、一度首を傾げた。
直冬の、室の前について一歩立ち止まる。
どうやって声をかけていいのか、何となく戸惑った。
「どなたですか?」
その気配に気付いたのか、柔らかな声が響く。
だが返事をする前に、小気味好く障子が開いた。
「、義父上、どうなされました?」
驚いた風の直冬は、だがにこりと微笑む。
「市に…出掛けようと思うのだけれど」
「はい」
「直冬、も…一緒に、」
改まっていうと妙に気恥ずかしい。
いつも自分から声を掛ける前に、直冬が言ってきてくれるからだ。
言い淀んでそのままそっと息をつく。
些か後ろめたく合わせた先の瞳は、眩しいぐらいに輝いた。
「勿論です。すぐに支度をしますね」
鮮やかなその笑顔に、驚いてしまう時がある。
普段大人びた表情をすることが多いのに、こんな些細なことで、
直冬は息苦しいぐらい純粋な反応を見せるのだ。
それが示すものが何なのか私なりに考えてきたけれど、
少なくともその「理由」は直冬にとってあまり幸せなものではないのだと思う。
直冬が、きびきびとした動作で腰に刀をさした。そしてそのまま片手で具合を整える。
「行きましょう、義父上」
「…うん」
自分は刀など差していない。そのことを思い出して、じっと直冬の手元を見る。
「万が一ということもございますから」
そっと近寄った横顔には、凛とした強さがあった。
ああそうだ。私はまた忘れていた。
私がまだ元服すらしていなかった十四で、直冬は武士として三年を過ごしている。
「直冬は、よく市に来る?」
導くようにすっと前に出た背中に問い掛けた。
切り揉む人の波を縫って器用に歩く様子は、何となく小慣れて見える。
「いえ、それほどでは。…ですが昔、よく使いなどに出されまして」
おもむろに腕を引かれる。
ふと避けたその場所を、押し退けるように体の大きな男が通り過ぎた。
「…ん、…人が…多い…」
急に沸き立つ熱と息苦しさに、顔をしかめる。
「ええ。物取りもでますから気を付けてください」
「…物取り?」
驚いて思わず投げた視線に、直冬は周りの音に紛れぬように声を大きくして答えた。
「はい。ですから早く何処かの店に。…義父上は何を買いに来られたのですか?」
「…さとう」
「え?」
言いにくくて小声になってしまった言葉は聞き取りにくかったらしい。
「氷砂糖…」
成る程、と頷いた直冬は小さな笑いを零す。
しっかりと腕を引く手に引き摺られぬよう、直冬との距離を縮めた。
「ん、お饅頭」
「買うのですか?」
店先に並ぶ、茶饅頭の前で足を止める。
栗色の皮が光を曲げて、歪な景色を映していた。
「憲顕殿のお土産にしようかと思うんだけど」
言いながら後ろを振り向けば、直冬は合点したように頷いた。
「、何個包みましょうか!」
気の早い店の男がすぐに包み紙を用意し始める。
その勢いに驚いてきょとんと見つめ返せば、相手も驚きのような苦笑のようなものを浮かべた。
「…え、では、五つ」
「毎度」
勘定を終えて包んでもらったお饅頭を受け取る。
まだ湯気をたてていたそれは、包みを通しても仄かに暖かかった。
「暖かい」
「でしょう?早めに召し上がってくださいよ!」
優しいその温度に、愛おしさを覚える。
まだ冷め切らぬうちに、早く渡したいと思った。
「少し多くはないですか?姫はまだ食べられません」
横を歩きながら、訝しげに直冬がこちらを仰ぐ。
その手には既に、砂糖が入っているらしい小袋が握られていた。
「憲顕殿のお子にも、と思って」
「憲顕殿の?」
「うん。こちらに一人いるそうだよ」
それはぜひ拝見したいですね、と笑う直冬に自分も思わず頬を緩める。
雑然とした人込みの中で、直冬の笑顔は浮き立つように目を引いた。
直冬には一種の鮮やかさがある。
それは見慣れた色ではないから、名も知らぬ母親譲りのものなのかもしれない。
その…色が、何かに似ているのだと気付いたのだけれど、答えをふと忘れてしまった。
「…義父上、お砂糖買っておきました」
「ん、ありがとう」
言いながら一度頭を撫でてやる。
今目の前にいる直冬
この子をかたちづくった全てのこと。
気にならぬわけはないのに、そのことを考えしまうのはあまりにも後ろめたい。
いいえ、と小さな返事をした直冬は恥ずかしそうに俯きながら歩きだす。
見慣れた顔だ。
いつもそうだった。
直冬はこうやって笑う。
頭を撫でてあげることは、私にとって一番正直に…そして楽に自分の愛情を表す手段だ。
直冬を引き取ったばかりの時も、これだけは何も考えずにすることができた。
あやめのように、赤子の頃から向き合ってきたのではない。
実の子にすると決めた時にはもう、抱き上げたりあやしたりしてやれる歳ではなかった。
「直冬は欲しいものはない?買ってあげるよ」
引き返す市の道も、終わりが近い。並ぶ店も人も、まばらになりはじめた。
「いいえ、私は義父上の付き添いなのですから。ねだりにきたわけではありませんし」
そう言って苦笑した直冬の横顔を、じっと見つめる。
欲しいものはないのだろうか。
それを与えてやることも、私の大切な役目だというのに。
「高いものでもいいよ?」
「大丈夫ですから」
「…遠慮しなくていい」
「していません」
なだめるような、柔らかい声に押し黙る。
するとすぐに、直冬は顔をこちらに向けた。
「私は義父上が思っているより…我儘なんですよ?」
思いがけぬ言葉に、まじまじと直冬を見返す。
「そんなことない。直冬は一度も、我儘なんか言ったことはないよ」
「言っています。たくさん」
「…本当に?」
「はい」
向きになっていた。
いつもの自分だったら、軽く頷いてしまえるだろうか。
違う、と言ってほしいわけではない。
だけれどこの答えに、私は満足してはいけないのだ。
「…私にも?」
「ええ。…そうですね、むしろ義父上に一番言っているように思いますが」
「一番?」
「はい」
直冬は擽ったそうに笑いながら、頷いた。
「…それは、」
「?」
それは本当?
続けて浮かべた言葉に時が止まる。
まるで水を浴びせかけられたように、急に我に返った。
私は何故、こんなにも必死なのだろうか
―…何かに、焦れている。
「義父上?」
足を止めてしまった自分に、直冬も立ち止まる。
いつのまにか市を抜けて、少し静かな道まで来ていた。
「義父上、どうされたのですか?」
首を傾げてこちらを見る黒い瞳から、無意識に視線が逸れた。
何故見つめ返してやれないのか。直冬はこんなにも、真っ直ぐなのに。
「…直冬が欲しいものがあったら、…何でもあげるよ?」
落ち着かぬ指先を握り締める。絞りだした己の声の弱さに、益々苦しくなる。
もはや問い掛けではない。
懇願だ。
何か言ってほしい。
私が本当に必要とされているか、この不安は今に生まれたものではない。
…それを直冬に、ぶつけたことはないとしても
何かしてあげられることが欲しいのだ。
それが少しでも、証となるのなら
「義父上は時々…不思議なことをおっしゃいますね」
綺麗な笑顔のまま言葉を零す直冬は、だけれど少し静かな眼でこちらを見た。
ぴたりと合わされた視線が、奥底の慣れた感情を引き摺りだす。
「ならば義父上は?」
「…え?」
「義父上は何が欲しいのですか?」
「わたし?」
「はい。…直冬は今、その答えが欲しいです」
その静かな色の中に自分が映る。 弾き返すはずの光は吸い寄せるようで、頭の芯に霧をかけた。
「私は…」
欲しいもの、など、
「……」
無い、と?
自分が作り出す沈黙を長く感じる。
本当に無いのならば私は、ここで立ち止まる筈がないのだ。
吐き出したい言葉が、逆に喉を詰まらせる。
引きつる自分の呼吸を、ぐっと飲み込んだ。
「…わからない…けど」
直冬は黙って続きを待っている。
その静けさが、私を逃がしてくれない。
こわい
予感にも似ていた。
あざやかでしずかなこの色を、私はよく知っているはずなのに
「持っているものが、欲しくなるときがある」
握り締めたままだった手を解く。くっきりとついた爪の跡を、ちっぽけに感じた。
欠けているものなんて何一つない。
この地にいても、離れていても、
私は独りではないんだから。だから、
「それだけ・・・だよ?」
「・・・・・・・・」
言い終えた途端、目の前の色が揺れる。
それに気付いた瞬間に、直冬は強く私の手を握った。
「・・・、ただ、ふゆ?」
呼びかけた声に、直冬はすぐ俯いてしまった。
普段見せることのない弱さ。
だがこの子は一度も、弱さを隠そうとしてはいなかった。
私とは違う。
私は隠そうとするから。
今、みたいに
「もうすぐ戦になるのですね」
「・・・・うん・・・」
強く強く握られた手
そこから雪崩れ込んでくる全てをどうしたらいいのだろう
不安、焦り、淋しさ、
今私が持つものを、奪いとっては注ぎ込む
現し
こんなにも、大事な
それを受け止めることが、私にはできるのだろうか
「・・・私の、せいで、直冬を不安にさせる?」
優しく、私ができる中で一番やさしく、手を伸ばす。
思いの外白い自分の手が、真っ直ぐな直冬の髪を滑った。
撫でる、なんて言い方は傲慢だったんだ。
ただこれ以上、この子に傷ついてほしくない。
直冬は虚ろに顔を上げると、ずり落ちるように腕を放した。
「・・・私は義父上の傍にいられるだけで幸せです。・・・だから戦が終わったらまた、直冬を傍に置いてください」
「そばに?」
「はい」
うすらと目を細められる。
優しさとも冷たさともつかぬ、真っ直ぐな光。
「私はそれだけでいいのですから」
見惚れたままに頷けば、直冬はまた素直に笑った。
しっかりとした足取りを、私は後ろから追い掛ける。
まだ少し小さな直冬の背は、落ちはじめた夕陽に染められる。
この色は、弾けない。
望むまでもなく拒むまでもなく、ただ絶対に全てを染めてしまうのだろう。
…ああ、そうか
直冬の色はこの色なのだ。
暮れる陽に染まりきる前の澄み切った空
茜とも青ともいえぬ、藤色に似た美しいいろ
「空が綺麗だね、直冬」
「はい!本当に」
掛けた声に明るく答えて、直冬はまたそっと横に並ぶ。
駆け寄るのでもなく緩慢でもない。
ただ静かにそっと、横に並ぶ。
「逢魔が時というけれど、私はこの色が好きだよ」
「そうですか?」
「うん」
直冬は幸せでなければならないのだ。
私がそうしなければならない。
「でも義父上、逢魔が時って…禍いが起るといわれているんですよね」
「うん。…でもそれはきっと、夕日のせいではないんじゃないかな」
「そうですか?」
「私は、見ている人の咎だと思う」
染めるなら二度と消えなければいい。だけど陽が沈みきれば、儚く闇へと変わるのだろう。
恐いのではなく悲しいのだ。だから禍いなどと言訳をする。
私はそうはならない
でも、
染められてしまったら、どんなに楽だろうかと。
「…直冬が、いないと駄目だ」
境界はない。だが同一ではない。
・・・わかっている。
夕霞の向こうには、ただ紛れもない血の証があるだけで
「大丈夫ですよ。私はいなくなったりしませんから」
笑顔が夕霞に溶ける。
鮮やかなその色が、まだ私の手の届くところにあるのならば
身を浸していく。
闇に、溶ける前に。
補足(反転) 本当はこの頃、まだ日本には饅頭がなかったり・・・。
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