仰向けに寝転んだまま障子の向こうを眺める。頭の下に敷いた自分の手が、軽く痺れていた。
…日が暮れる。
そろそろ灯りでも灯そうかと、思い切って体を起こした。
直義は昼に出掛けた。
自分が留守を預かるのは珍しい。
とはいっても最近、直義は京の兄に会うために鎌倉を空けたばかりではある。
その後からは背中を押されているかのように、「何か」の支度に追われていた。
…その「何か」の正体を、徐徐に察しつつはあるのだが。
「おう、お戻りになったか」
はい、と返事をして直義が障子を閉める音がする。
室の奥にある燭台に火をつけ終えて振り返ると、直義は逸れていた視線を慌てて自分に合わせた。
「…寝ていたのですか?」
「ん?」
「、髪が」
くすくすと笑いながら直義が頭を触る真似をする。
直義が指すのと同じあたりをいじれば、緩みきった結紐が解けた。
「結い直しましょうか?」
「…いや、いい」
もう面倒だ、といいながら紐を畳に投げる。それを目で追った後、直義は急に顔を上げた。
「憲顕殿に、お饅頭を買ってきました」
「……饅頭?」
「はい。美味しそうだったので」
ごそごそと畳の上に取り出した包みを広げる。
「それはかたじけない」
おそらく買った時は出来たてだったのだろう。もう暖かくはないが、皮にはまだ僅かな湿り気がある。
「憲顕殿の、…子のお名前は?」
「ん、…?」
聞き返せば直義は、何処かはしゃいだように勢い良く頷く。
「憲将」
「…憲将殿、ですか」
小さく繰り返した後、にこりと破顔した。
「何だ?」
「憲将殿の分を買ってきましたから、よかったら差し上げてください」
大きめの紙に包んであったのは確かに二つ。食べようと思って伸ばした手が止まった。
「…直義殿のではないのか?」
「私のは別です」
「いや、何か申し訳ない」
想もしない気遣いに、些か戸惑って苦笑する。
こういった細やかさに自分はあまり慣れてはいないのだ。
直義は尚一層、嬉しそうに笑った。
「お詫びも兼ねているんです」
「何の?」
「きっと寂しい思いをさせてしまっているかな、と。憲顕殿を、いつも憲将殿から取ってしまっていますから…。」
「大袈裟だな。…それに憲将は、そんなことを気にしているやつでもない」
ぶっきらぼうにそう言えば、今度は眉を吊り上げる。
「冗談で言っているのではありません。私だって、憲顕殿に甘えすぎてるというのは自覚しているんです」
「ふうん?」
少し怒った直義の表情を見て、内心平静を取り戻す。
面と向かって聞かされる身にもなってほしい。
直義以外でこんな台詞を言うのは、世辞か女の睦言ぐらいのものだ。
自分の中の戯心が顔を覗かせる。
書机を横にずらして場所を空けてから、姿勢を崩した。
「確かに最近は仕事が増えたしな」
「仕事のことだけではありません」
「そうか?」
「そうです」
「…ふむ、では他にどこが?」
わからない、といった表情でわざと首を傾げてみる。
「色々全部です。憲顕殿がいると楽しいから、」
「……ふ、」
「何ですか?」
吹き出した自分を見て、直義は眉を顰めたまま、さっきの自分と同じように首を傾げた。
「…直義殿、」
「はい」
「そんな真面目に答えてくれなくてもいいんだぞ」
「……でも、本当のことですから」
少し膨れたまま、でも目は逸らさない。
直義の、こういう真直ぐな眼差しは好きだ。
「とにかく、このお饅頭は憲将殿と食べてくださいね」
きっぱりと言い放つと、さっさとまた饅頭を包んでしまった。
「む、差し入れではなかったのか?」
「お土産です」
「…では有り難く頂戴致す」
恭しく頭を下げれば、直義はまたくしゃりと相好を崩した。
「ああそうだ、市はどうだった?」
「人が多かったです」
直義の身なりは出掛ける前とは違っている。
わざわざ着替えてきたのだろうと予想はついていた。
ふらふらと出歩くのが好きな男ではない。・・・
というより、そのような発想が初めから頭にないらしいのだ。
次男坊というのは割に融通が効く。もっとも別に長男であっても、出掛けたければ出掛ければいいだけだ。
上杉と足利では無論事情が違っただろうが、特別外に出したがらぬ理由はないだろう。
…だが、
「賑やかなのでびっくりしました」
そう言って、直義は照れたように肩を窄める。
一つ隔てた向こうから見ているかのようだ。
いつも冷静に合理的に、
そして時に実感を欠いた無知のままで、直義は世界を見る。
「直義殿は遊びが足らぬ。屋敷を抜けたことはないのか?」
「一人で抜けたことはあまりないです」
「…それはそれは」
何かを知らぬ。
そしてそう思うとき、直義は幸せそうに笑う。
僅かに、だが確実に紛れ込む甘酸っぱさを噛み締めるかのように。
…だが近ごろ、の甘酸っぱさは些か痛みを伴うらしい。
笑んだその後不意に伏せられる瞳は、間違いなく曇っているのだろう。
「………」
何か言いたそうに口を開きかけた直義を、それとなく見やる。
そんな時自分はただ、『待つ』ことにしている。
「…直冬に、何か買ってあげようと思ったのですけど、何もいらないと言われてしまって」
「うん」
「それがどうしても…」
「気になるのか」
はい、という消え入りそうな返事を聞いて、一つ息をついた。
「私から言わせてもらえば、直冬殿は何時も通りだと思うが」
直義は直冬に対して、…妙に父親ぶりたがるところがある。
その妙に背伸びしたような親子関係は、普通ではないにしろ微笑ましい。
確かにこのような形もあるのだと周りは勝手に納得させられるのだが、当の直義本人はそれを受け入れ切ってはいない。
「だけど、私は義理とはいえ父なのだから…。やはり私では頼りないのでしょうか」
「いや、それは充分だろう。」
直義はすぐさま、首を横に振る。
「……直冬が、何かを隠している気がする」
「ふむ…」
「私は、あの子を幸せにしてやりたいのです」
真っすぐなものは、強くとも弱い。
一点を突かれれば折れるし、それでも形を変えられないからだ。
直義には、そのような質がある。
「親心というやつか」
「もちろん直冬は私の大事な子ですけれど、それだけではなくて…兄上の子でもあるんです」
「ああ。」
本人の口から聞いたのは初めてだった。だがそんなことに構う必要は今の直義にはないのだろう。
普段通りうなずき返した自分を、少し気にした風ではあるが。
「隠し事といっても…まあ色々あるだろう。何か問題を起こしたということは、直冬殿に限ってないと思うが」
日はもうほとんど落ちたらしい。燭台の炎が、強くなった気がしていた。
…ゆらゆらと容易く形をかえるそれが、目の前の瞳には少し皮肉気だ。
「これだけでは暗いか?」
後ろの燭台を指差して問う。
意図せず話の腰を折ってしまったが、直義は然程気にした様子もなくいいえ、と小さい声で言った。
「童にだって言えぬことはある。…勿論、親にだってな。直冬殿の歳も歳だ。ただ無邪気でいられる頃ではもうないさ」
純粋さだけではない意志、
会ったばかりの頃にはなかった『熱』のようなものが、直冬には段々と宿りはじめていた。
それが単に自立心だとか成長だとか、至極自然に生まれ出たものだけでないことは明らかだが。
直義の子、だが兄の尊氏の子。
ましてや、直義にとっての尊氏は
「…私はそれが恐いのです」
「うん?」
「そうやって…」
「淋しい思いでもしたか?」
先を取って言ってやると、直義は案の定虚を突かれた顔をする。
「当たりだな」
自分のことは恥ずかしいのだろうか。
意地悪く覗き込んでみた俯き加減の顔は、ほの暗い室の中で少し赤くなった気がする。
その姿が正しく小さな童のようで、何となくぐしゃりと頭を撫でてやった。
「ははっ、何だ、そんな顔をするなよ」
「…髪がぐしゃぐしゃになってしまいます」
口を尖らせた理由はそれではない筈なのに、紛れるように直義はほっとした息をつく。
「知らないことが増えていくと、離れてしまう気がするのです」
「…確かに。それは間違いじゃない」
頭から手を放して立ち上がる。ついでに障子を片方開け放してみた。
外の風が吹き込む。直義が振り返って、こちらを見たのがわかった。
「大切な人を試すのは悪いことですか?」
澄んだ声が、だが頼りなく響く。
大切なもの たった一人の兄
試すと例えたことの意味はきっと、これから始まる戦にある。
「・・・いいことではないな」
混じりはじめた夜の気配を感じ取る。
腕を組んだまま戸の傍によりかかって、見慣れた庭を眺めた。
直義の屋敷の風景はいつも同じだ。
桜も紅葉もここにはない。深い緑の葉ばかりのこの木々は、昨年の秋には団栗をたくさん落としていた。
…ただ風の種類や日差しの強さに、四季を感じとるのがよいのだそうだ。
「だがお相子だ」
零れでる己の声が静やかに溶けていく。
柄ではないとまではいかずとも、自分自身に解せぬものを抱きながら。
妙に優しい気分にさせられることが、最近は多い。
「そういう時は、試させる方も悪いんだよ、直義殿」
「…本当にそう思いますか?」
首だけを曲げて振り返る。綺麗な正座をしたまま見上げてくる直義に、笑いながら頷き返してやった。
「鎌倉に来てから、もう一年と半年だったか」
「そうですね」
「…確かに、独り歩きには長すぎる」
至極当然のことだと知りながら、それでも私は疑問に思う。
どうしてこの弟を、独りにさせたのだろう、と
馬鹿げた問いだ。
ましてやそれに、憤るなどということは。
「ああそうそう、」
「?」
「この際だから聞くが」
「何です?」
「いや、今更だが…直冬殿は尊氏殿の子なんだろう?」
「…そう聞いていますが」
ちょいちょいと手招きをすると、直義は目を丸くしたまま立ち上がって横に並んだ。
「耳を貸せ」
「はぁ」
自分よりちょっと低い位置にある頭の、耳元に顔を近付ける。
直義も訝しげな顔で、少し体を寄せた。
「どんな女にほだされた?」
「え」
「尊氏殿は、女に好かれる質か?」
「……」
「または女好きか」
「の、憲顕殿!」
「どうなんだ」
「…しりません」
煙でも出しそうなぐらいに耳を真っ赤にして、直義は上目に睨み付ける。
「いや怒るな。悪気はない」
つん、と逃げるように向きを変えた頭を笑いながらみやる。
「心配しただけだ」
「……なにを」
「直冬殿は美男だからな」
「…意味がわかりません」
そう言いながら、直義は火照った頬を指先で撫でた。
元々色が白いうえに、自分の動揺はすぐに顔に出るのだ。
仕事のことでは、全くといっていい程感情の変化をださない。
その使い分けを本人がどのようにしているのかはよくわからないが、それ故に実は無意識だろうかと何となく思う。
「教えてやろうか」
にやにやと笑えば、困ったような顔をしてこっちを向く。
「色々な場合があるだろうが、」
「やっぱりいいです」
「…本当に?」
「…‥はい」
「それは残念だ」
ゆっくりと顔から下ろされた手を、目で追いながら笑う。すぐ近くの頬はそれでも、まだ仄かに赤かった。
「くくっ、どうだ、よくわかっただろう?…知らぬ方がいいこともあるのさ」
束の間合わせた視線を逸らして、直義は奥に引っ込んでいってしまった。
「本当にそれが言いたかったんですか」
「どうだろうな」
「…今日の憲顕殿は意地悪です」
「いつも通りだ」
屈んで何かをやっているらしい。
声は少し低いところから聞こえた。
「…明日はいつもより早く来てくださいね」
「今日も割と早かっただろう?」
驚いて振り向くと、直義はまたこちらに戻ってきた。饅頭の包みと、先程外した結紐を差し出す。
「…おい、直義殿の留守中ずっと寝ていたわけではないぞ」
「わかってますよ」
受け取りながら念のため付け足してみると、すぐに小さな微笑みが返った。
「今度憲将殿を紹介してください」
「…いつか落ち着いたらな」
いつになるのでしょう、と笑う直義に一度礼をして、室を出た。
「お帰りですか」
仄暗い廊の途中、柱の影から掛けられた声に、足を止める。
細い柱に身をもたれていたのは、直義の「息子」だ。
「お見送り致しましょう」
翻ったその微笑が、唐突に思えるほど闇に映えた。
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