「それはかたじけない」

憲顕殿は少し間を置いてから、そう返した。
小さな包みを懐に仕舞ってから、紐の端を銜えてさっさと髪を束ね上げる。

憲顕殿は不思議な人だ。
貴族にも似た風格があるのに、それを投げ捨てたいかのようなぞんざいな振る舞いをする。
それが本当にわざとなのか、そうでないのかがまだ私にはわからない。推し量るには相手が悪すぎた。
勿論彼は気さくな人であったし、大事な場面の端々でいつも力になってくれる。
そしてその気遣いを義父上にだけでなく、当然のように私にも向けてくれた。

尊敬している。素直に好感も持っていた。

・・・だけれど、 なんにせよ手強いのだ。
今だって、冷静な眸が既に私を捉えている。
心の奥を探るのではなく、ただありのままを見ようとする目。
背中を向けて歩いていても、その存在を感じずにはいられない。

例えるならそれは、玄恵様が私を見ていたものに少し似ていた。




門の傍に繋いであった、馬の綱を解く。

栗毛の良い馬だ。
額を撫でてやると、潤んだ瞳で瞬きをする。

「良い馬ですね」
「・・・どうだろう。割とのんびりとした奴だ」

手渡した綱を受け取りながら、憲顕殿は含むように笑った。

「まぁ、留守番にはうってつけだが。」

肩を叩かれて、馬は軽く頭を振る。

「それで・・・」

憲顕殿が、静かに気配を変える。
あっさりと投げられた筈の視線に、何気ないものの全てが縫いとめられる。


「何か用向きかな」


人の圧し方を知っているのか、知らないのか。
それすら図れぬ程にただ淡白な威圧だけは、まだこんな歳の私にだってわかるものだった。
義父上の前ではこんな気配を漂わせはしない。
勿論この人は、そんな自分を隠してなどいないのだろうが。


恐れるべきではない筈だ。
憲顕殿だって知っている。同じことを見てきたのだから。
同じ。いや、違うのかもしれない。 それでもこの人は義父上を、・・・・ひいては私を裏切りはしないだろう。

顔を上げて、その静かな目を見据える。憲顕殿は腕を組んで、促すように首を傾げた。
用意していた言葉を言えばいいだけだ。 ・・・譲れないことがあるから、私はこうして向き合っているのだろう?

逡巡した時間は思ったよりも短かった。
息を吸いなおす必要などないくらいに

「私が傍にいれない時は、義父上のことをどうかよろしくお願いします。」

門近くの篝火が揺らめく。弾かれた火の粉が視界の端で跳ねて、一度瞬きをした。

憲顕殿の表情は動かない。
いやむしろ初めから、この人は自分に何の感情もぶつけてはいなかったのだ。
ただの静観に過ぎない。そしてその事実こそが、今の私には何よりも重いものであったとしても。

「私に頼むより、直冬殿がずっとついておられたほうが確実だぞ。」

闇に紛れていた緊張を緩ませるように、憲顕殿が軽い声で言う。
それでもこの身は力を抜くことができない。
最早相手のせいではなく、自分自身のせいで。

ずっとついている
・・・そうしたかった。

湧き上がってくるものは、
例えるなら

欲、いや、もっと醜悪な

――・・・嫉妬

強く捕まえていたかったものを、あの人は簡単に連れて行くことができる。
義父上の傍に、私はもうすぐいられなくなるのだろう。

「・・・私では無理なのです。尊氏様がおられる限り。」

その名を出した時だけ、憲顕殿は少し眉を動かした。
自分でも、どうして言ってしまったんだろうと思う。 だけれどこの名を出せば、誰もが納得せざるを得ないことも知っていた。
醜い狡猾さだ。義父上は嫌がるだろうか。
でも今はそんな自己嫌悪を後回しにしてしまいたい。
目を逸らさずに、答えを待つ。

だが睨み合うまでもなく、相手は軽く視線を流した。

「直冬殿が、私でいいというなら約束しよう」

柔らかい笑みすら浮かべて、憲顕殿は頷いた。
内心ほっとしながらも、むしろその自然さ故に何となく悟る。

この人にはきっと、
私の想いが、みえている

そう思ったとき、悔しさで噛んだ筈の唇は、いつのまにか潔いあきらめになっていた。




「直義殿が気にしておられたぞ」

礼をして去ろうとすると、その言葉が私を呼び止めた。 思わず振り返れば、憲顕殿が意味ありげに笑う。

「直冬殿が何もねだってくれない、とな」
「…義父上は憲顕殿に、何でも話してしまうのですね」

くすりと笑い返せば、わざとらしくため息をつく。

「可愛い息子に何かしてやりたくて仕方がないのさ、直義殿は」


慰め、気遣い、そのどれでもあるのに答えは出せない。
憲顕殿が含ませたいものは、わかっているのに。

躊躇いながら呼ばれた名前
嬉しそうに、話しかけてくれる声
そして何もかも拭い去ってくれる感触
・・・強く握ってしまった手さえ、あの人は振りほどかない

どこまで優しいひとなのだろう

私の
わたし、の


「憲顕殿」

馬に乗ろうとしていた憲顕殿を、今度は自分が呼び止める。
何気なく振り返ったその顔に、私は自分でも気付かぬうちに微笑み返していた。


「どうせねだるなら、…本当に欲しいものでなければ意味がないでしょう?」


何も隠しはしない。偽りはしない。

そうそれは例えば



「またお待ちしています」


おそらく初めて見た表情だったと思う。憲顕殿は驚いていた。
ちらりと私を一瞥した後、跨った馬の腹を緩く蹴る。 確かに急ぐでもなく、その背は遠ざかっていく。
最後まで見送らずに、踵を返した。
言い聞かせるようにして屋敷へと向かう。

そう、これでよいのだ。私は私を、知っている――・・・




助けてくれたのは、降りきったこの闇だ。
だけど焼きついた火の粉の明るさが、まだ視界から消えない。





back