「高氏」
相好を崩した貞氏は、小さく手招きその童を呼んだ。多分に自分の肩にも届かぬだろう背
丈であるのに、足を滑らせ歩を進めた様は酷く落ち着いて見える。伸びた背筋には無理が
なく、纏う正装は指先に至るまで隙というものがない。
八つの子と云えど其処はやはり足利家、ということなのだろう。貞氏が言い澱む要因が有
るようなある種の傲慢さは、見て取ることは出来なかったが、眼前の童が“御子息”であ
ることはすんなりと理解させられた。
「父上、」
貞氏の傍らへと歩みよった童…高氏、は小さく此方へ視線を向けてから尋ねる口調で貞氏
を見上げた。刹那流された視線はかち合う前に外されたが、何となく貞氏とは違う双眸の
漆黒が視界に残った。
貞氏はゆるりと高氏に視線を落とし、暫しそのままでいた。不可思議な沈黙が場に満ち、
思わず体を固まらせる。唾を飲んで見やれば、高氏の横顔は至極静かだ。貞氏と余り似た
顔立ちとは思えないが、こうして静やかさに占められた貌は酷く似ている。
そのままじっと、高氏の姿を眺めた。
この童が、自分の新しい主。だがそう心の中で唱えてみても少しも実感が湧いてこない。
童は確かに如何にも名家の子息然としていて、八つの歳を気にさせぬ態であるのに。自分
が童の側に仕え、そして童が其れに応える光景を思い描くのは何故か困難だった。
自分は主を選ぶ立場になどなく、喩えどんなにそれらしからぬ相手でも仕える所存では
あった。高氏はそんな杞憂には見たところは当てはまらない、それなのに寧ろ実感は薄れ
る一方だ。上滑りしていくものを掴みかねて、いる。
「……高氏、師重の息子師直だ」
「師重…の、」
軽く目を見張った高氏は、改めてこちらをじっと見た。
伸びた背筋、零れる瞳を向け。見上げることすらなく、それはただますぐに。
「……」
急に苛立ちにも似た感情が、さっと背を伝う。驚きの形に象られた顔をしているのに、童
はその実大して揺らがぬ様子でこちらを見ていた。それがありありと分かるほどその黒耀
の瞳は冴えきっている。
かち合った視線を逸らす訳にもいかず、じっと見つめかえせば足利家の子息は急についと
父の方へ目を向け直した。
何故苛立つのかなど分かりもしないが、そのわざとらしい所作は、どうしてか酷く気にさ
わった。
「……高師直でございます、若君、どうぞお目掛け下さいませ」
少しばかり早口で言い切り、頭を下げてしまえば視界には自分の足先しか入らなくなっ
た。え、と僅かに漏らされた稚い声に思わず口の端が少し震えた。
「父上、」
「高氏。今日から師直はお前の執事だ。そうと心得よ」
八つの次期当主は刹那何か物言いたげに言葉を詰まらせた。困惑しているだろう童に、少
しだけ出どころのわからない苛立ちが紛れる。
「はい父上……、分かり、ました」
決まっていた応えが澄んだ声で紡がれる。その間俯いた姿勢のままで、私はじっと足先を
見つめていた。
今日の晴れ空は別段秀でて美しいというものでもなかったが、それでも目を向ける先がそ
れ位しかなかったのでじっと見ていた。別に手元に視線を落としていてもいいのだが、何
かを見ているという体裁が欲しかったしそれに、少しでも視線を巡らせたら何となく億劫
なことになる気がしていた。
……足利、高氏だ。
貞氏に促されるまでもなく、自分が執事となったことを承服した童はさっとこちらに歩み
より、告げた。一つ頷いた貞氏に、童は少しだけ表情を緩ませた。そんなところは何だか
酷く年相応な反応である。些か拍子抜けして深く礼を返せば、だが童はすぐに貞氏へと向
き直って挨拶らしき儀礼を済ませた。
貞氏の前を二人で退出して以降、童は一言たりと言葉を発しなかった。ついてくることを
当然とする迷いなき歩調でしばらく廊を進んだあと、唐突に童はあいた室に入りこんだ。
別に此処が子息にあてがわれた室というわけでは無さそうで、別に何の支度も為されてい
ない室はがらんどうとしている。
そのまま此方に背を向け座りこんだ童は、もう四半時ほど身じろぎすらしない。最初はか
けられる声を待ち構えたが、最早ただ漫然と覗く空を見上げる以外今の自分がすることは
ない。
何だか厄介な相手だ。
初めは貞氏の言から思い描いた暴君らしからぬ、隙無い子息然とした童に感心した。だけ
れど何故か、その落ち着き払った態度を見ていると苛立つ。それでもやはり八つの童であ
ると思うのに、あからさまに困惑…どころか拒絶の色で此方に背を向ける童の様子は、単
なる癇癪ではなさそうで正直対処に困る…というか面倒だった。
高氏、はとりあえず自分を執事として受け入れる気は無さそうだ。今分かるのはそれだけ
で、だからといって自分に出来ることなど実は何もない。
自分には貞氏から拝命した務めを放棄する気はないが、たとえば童が命じればそれは断念
せざるをえない。しかしこうして黙って貞氏の前から退出してきたことを考えれば、高氏
の方もとりあえず父の意向に背く気もないらしい。積極的な拒絶も許容もしない、という
ことだろうか。
父、は。ぼんやりと父の言を反芻する。
私は殿の御為に、と繰り返した父。高家を、足利にひたすらに仕える家を貫けと命じた
父。
貞氏は父にどう接し、父は貞氏に何を捧げたのか。命か忠誠か、それとも存在をか。私も
この眼前の童にそうして仕えるしかないのだ。何が奪われていくのだろう、意志か尊厳か
それともやはり自身自体をか。
此方に向いた背を視界の端に確かに意識する。
この童は自分に何を望むというのだろう。
「……師、直」
「!はい、若君」
空を震わせた声に、反射で姿勢を正す。ゆっくりとこちらを向き直った童は、少しぎこち
なく視線を踊らせると、小さな声でもう一度私の名を呼んだ。
「…寄れ」
「あ、はい」
慌てて童の傍らに膝をつけば、童は上目に此方をちらと見上げた。
「……師重が…その…こんなことになって師直も驚いただろう……まだ喪も明けきらぬの
に、すまない」
「……あ…いい、え!!?」
予想だにしなかった台詞に、半ば裏返った声で答える。
ことん、と己が肩に頭を倒した高氏は囁くように言をつぐ。露わになった首筋が酷く悄然
としていて、息を呑んだ。
「急なことで戸惑ったのは…私だけではなかったのに……すまない……」
「は、い?!」
「……嫌なら嫌と言ってくれればいい、私はまだ八つだし。師直もこんなのは気が進まな
いと、思う」
「ま…って下さい!」
え?と頼りなげに傾けられた細い首に、半ば恐慌状態で思考を回す。
「勿論…父上に言い難いなら、私から言う。遠慮しなくとも…」
「ち、違います!私が…若君にお仕えするのに、嫌、などと」
自分で言葉にしてみて、少し語尾に詰まる。確かに喜んだかと言われれば正直否だし、今
もこの新しい主に捧げるものを分かりかねている。でもだからといって仕えることが嫌か
と聞かれればそれもまた否だ。寧ろ任を解かれるのだとすればそれが一番の恐怖だ。
「私は」
少し唖然としている童の顔を見て、急に肩の力が抜けた。
何だか阿呆みたいだ、自分が肩肘張ってぐるぐると悩んでる間に八つの童が弔辞を述べる
機会を窺っていたなんて。的外れというより、先走りすぎたにも程がある。
目の前でくっきりと戸惑いの色を浮かべた黒耀を、静かに見返してきちりと礼をしなおし
た。
「…若君。どうかこれより私がお仕えいたしますこと、お許し下さいますよう」
「……師直」
肩に触れた小さな手に顔を上げれば、それは整った笑みで此方を見る童の姿があった。
「わ…若君」
嗚呼、なんてひのひかりのような笑い方をする。
「分かった、宜しく、頼む」
すいと軽い動作で身を翻した童は、もう一度あでやかににこりと笑んだ。
「…私が呼んだら、来てくれるな?」
「はい、」
「うん」
くすくすと楽しそうに笑いを零す姿は酷く眩しい。溢れる喜悦に釣られて笑み返せば、童
は一層楽しげに笑った。
「頼む、」
晴れた空より、浮かべられた笑みの明るさは鮮やかだった。
これから、こうしてこの主に仕えていれば、きっと父の言っていたこともいつか分かるに
違いない。
遺されたものの一端を漸く捉えた感覚に、心底嬉しかった。
「じゃあ、今日はもう下がっていいから。ふふ、お母君に高氏から宜しくとでも伝えてお
いてくれ」
「あ、はい!」
本当に、ひのひかりのように笑う。
だからきっと童が本当に笑った瞬間をこの時捉え損ねたのは。
眩しさに瞳を眇めた、その所為に違いなく。
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